第1章 再会
― 十年越しの約束が甦る夜 ―
夏の古都は、石畳まで体温を覚えている。
白砂の上で影が伸び、朱の柱は熱を吸う。
風鈴が高さをずらし、音が重なる。
志水悠翔は、昔の夜の温度をひとつずつ拾い直した。
回廊の影は墨を塗り重ねたように濃く、手水舎の水はまだ温い。柄杓の木に沁みた水が、一拍おいて石鉢へ落ちる。どこかの堂で読経が切れるたび、境内の空気はふっと沈む。濡れた苔、遠い線香、汗のにおい。音と匂いが層になって胸を撫でた。
蝉時雨。袖口の風に汗が冷え、首筋の産毛がそっと逆立つ。
――気配。
振り向いた瞬間、声が降る。
「……悠翔」
深い川底を渡るような低さ。音だけで胸の奥が熱くなる。心臓が、幼い頃の跳ね方を思い出す。
桐嶋輝臣。十年前、涙の中で誓いを交わした幼なじみ。名門の当主代行。背は伸び、肩幅は広がり、鋼の体躯に和装の黒がよく似合う。結い上げた髪の後れ毛が風を撫で、黒曜石の瞳は夜の光をさらに深くする。砂利に裾が触れても、歩法は音を立てない。
「……輝兄……」
幼い呼び方が、勝手に口を抜けた。声に触れただけで、抑えていた熱が崩れる。涙は早い。視界の輪郭がやわらかく滲む。
輝臣は一歩で距離を詰め、抱き締めた。袂と袴の布がこすれる低い音。肩越しに伝わる体温。腕の太さ。大きな掌が背の中央を確かめ、息の落ちる場所を与える。包まれる感覚が懐かしい。胸の奥に刻まれた小さな誓いが、鮮やかに息を吹き返す。
「やっと……会えたな」
震えをほんの少し混ぜた低音。過保護で、不器用で、いつもこちらを真っ先に守った人。触れているだけで、胸の刻印の疼きが浅くなる気がした。
灯籠がひとつ、風で明減りする。影が寄り、離れ、輪郭を揺らして、現実と記憶の境目が薄くなる。夏祭りの夜――金魚すくいに負けて泣いた手を、あの人はこうして包んだ。『俺が守る』。石段の上、小さな誓い。震えた指先の温度は失われていない。家の事情に引き離され、残ったのは余熱。十年は想いを薄めるどころか芯を濃くした。
「元気だったか」
簡素な言い方なのに、丁寧に選ばれた音。
「うん……輝兄は」
「俺は、ずっとここにいる」
言葉の端で“待っていた”がわずかに触れる。胸の内側がきしむほどあたたかい。目を逸らすと、苔むした灯籠に月の白が淡く乗っていた。
並んで参道を歩く。白砂のにおいに、草いきれが混じる。寺務所の戸が閉まる音が一度、石畳を乾いて転がる。二、三言の近況で沈黙に戻る。横顔は少年の影を残しつつ、もう大人の線で、目が合うたび十年分の季節が押し寄せる。
石の祠から野良猫が顔を出し、こちらを一瞥して尾を立てて去る。山門の脇で子猫を拾って叱られたことを思い出し、同時に小さく笑う。笑い方は十年前のまま、けれど違う。
「送る。夜は、仏魔が紛れる」
変わらない口調。守る側の言い方。甘いむずがゆさが胸を撫でる。
社を離れ、町外れの小さな宿へ。古い木戸の戸車が、きぃ、と鳴く。竹筒から涼しい水がこぼれ、石に丸い音を落とす。蚊遣りの青い煙が細く伸び、夏の匂いを奥へ押す。
「ここに泊まっているのか」
「うん。明日、町外れの小祠を見に行く予定で」
「一人で見るな。……見てもいいが、報せろ」
言い直す癖。命令の手前で言葉を畳む指先。昔から変わらない。
帳場で女将に挨拶する。「あら立派なお連れさん」。輝臣は「幼なじみです」とだけ。軽いのに、言葉は重く胸へ落ちる。幼なじみ――変わらないふりの、安全な名札。指先に、一瞬だけ寂しさが刺さる。
夜は残酷だ。
部屋へ戻ると刻印が熱を帯びる。布団に横たわっても疼きが引かない。息が乱れ、胸の奥で火が回る。落ち着く場所が見つからない。
「っ……はぁ……」
額に手を当てても火照りは退かない。脈打つ熱は皮膚の浅いところじゃない。もっと深い、心の根で燃える。守り札に指を伸ばす。紙が汗に貼り付き、梵字が微かに滲む。指腹に毛羽立ちがひっかかり、痛みの焦点はずれない。
障子がすっと開く。
「悠翔、大丈夫か」
輝臣。寝間着のまま、灯りも持たずに近づく。白い闇に慣れた目には、肩の線や喉仏の影ばかりがはっきり映る。慌てて胸元を隠す。
「だ、だいじょうぶ……っ」
「顔が赤い。……胸、見せろ」
「っ……やだ……!」
羞恥は震えの形で出る。輝臣は布団を剥がさない。隣で膝をつき、汗で湿った髪を撫でる。梳く指に合わせて呼吸がすこしだけ整う。卓上の茶椀を手に取り、冷めた白湯を差し出す。その所作が昔と同じで、胸が痛むほど懐かしい。湯気が鼻腔を温め、喉をゆっくり撫でる。熱の渦の中心だけがまだ冷えない。
「……まだ疼くのか」
視線を逸らす。
「……輝兄に、見られたくない……」
子どもの頃なら泣きながら抱きつけた。今は羞恥が勝つ。刻印を見られるのが、弱さを曝け出すみたいで怖い。
輝臣は言葉少なに手を伸ばし、掌を包む。掌に掌。触れるだけなのに、熱が少し落ち着く。ほとんど音にならない擦れが、やけに鮮やかに耳へ残る。指先が指先を見つけ、指の間に小さく入り込む。嵌まる音はしないのに、嵌まったと分かる。
「呼吸を合わせろ。吸って……吐く」
布団の上から、直接触れないように掌が胸へ置かれる。軽い圧が、熱の巣へ道をつくる。一度吸う。胸腔が広がる。一度吐く。肩の重みが落ちる。二つの胸が同じ速さで上下する。数は溶け、残るのは拍だけ。
「……不思議だな。触れてもらうと、浅くなる」
零れる独り言。輝臣は答えず、指をほどかない。掌が呼吸に合う。言葉は置かない。
窓の外で風が簾を擦る。香の名残がかすかに漂う。輝臣は守り札を一枚取り、折れた角を整えて置き直す。几帳面な所作が可笑しくて、愛しくて、喉の奥で笑いがほどける。
「……この十年、強くなったつもりだった」
息が落ち着いてきたところで、囁く。
「でも、輝兄の声を聞くと、すぐ子どもに戻る」
「戻っていい。無理に背伸びをするな」
即答。胸の深いところがじんと温かい。
「――でも、隣に並びたい」
素直が自分でも驚く。視線が絡む。黒曜石の奥に、静かな軋み。守る瞳と、同じ高さで見つめ合いたいという熱が、夜気をわずかに変える。輝臣の指が一瞬だけ躊躇し、けれど離れない。
「眠れ」
灯りを落とす。闇に目が慣れると輪郭は薄れ、手の温度だけが確かに残る。指先を絡める。胸の結び目がふっと緩む。刻印の疼きより、輝兄の温もりが広く占めていく。耳を澄ませば、二つの鼓動が同じ拍になる。拍が合うたび、胸に刺さった見えない棘が一本ずつ抜ける感覚。
「……ありがとう、輝兄」
「礼は要らない。約束だ」
短い言葉に、長い時間が宿る。風鈴がひとつ鳴る。遠い昔と今が重なる。握った手を離さないでいられたなら――子どものような願いが、眠りの縁で静かに形になる。
灯りの落ちた部屋で、薄い月が障子を白く染める。胸の刻印はまだ浅く脈打つ。けれど、痛みはもう孤独の形をしていない。重なる掌の温度が、呪いの輪郭をやわらげる。どれほど時間が過ぎただろう。輝臣の掌がほんのわずか浮く。すぐに刻印が、ちくりと主張する。
「……戻す」
短いひとこと。掌が定位置へ戻る。たったそれだけで疼きがまた沈む。
目を閉じる前、呼ぶ。
「……輝兄」
「ここにいる」
即答。それだけでいい。
風鈴がやさしく鳴る。
障子の白に、夏祭りの赤が一粒だけ滲む。
言葉より先に、拍が揃った。
約束は今も、呼吸で続いている。
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