風に傾ぐ子
莉翠
プロローグ:森詞―織祀守ノ詩
──
まことしき森に音ありて
音、
律、歪めば森たちまちに病み
森、病めばひとら言の葉を失う
ゆえに
ゆえに
いかに風満ち、鳥鳴けど
その耳、
いかに人呼び、声欲せど
その口、ひとたびも応えず
唯だ、名を抱かず
唯だ、
唯だ、律を通し
唯だ、森を澄ます
その器、「
その身、
語るなかれ、織祀の身に
求むるなかれ、その声を
律に生まれ、律に仕え
律に還るものなれば──
***
朝の香は、昨夜の残り香と混じりあいながら、ゆるやかにそのかたちを変えていた。
香炉の小さな火がわずかに揺れ、
香が変わるとき、それは音としてもわかる。
わずかな熱の気流が空間を撫でるように移動し、香草の配合によって、空気の“重なり”が違ってくる。
湿り、渦、届き方。
耳が聴いているのではない。ただ空間が、“朝”のはじまりを告げている。
やがて、外廊から衣擦れの音。
付き人の足取りは迷いがなく、呼びかけもない。
そのまま音なく膝を折り、部屋の中央に立つ少年の前に正座すると、厳かに一礼してから白の
左の袖が、右へ。襟が合わせられ、紐が結ばれ、裾の
“織祀”であるかどうかに関わらず、幼子の視界は生まれた時から閉ざされていた。
けれど、彼はどこに何があるかを、すでに”知”っている。
香の満ち方と、足音の響き、布の張り具合──それらが空間の輪郭を描き出す。
この場において、“見る”という行為はただの形式に過ぎなかった。
付き人の手がすっと離れ、衣の布音が小さく後ろへ動く。
織祀は自ら歩まない。
手が伸び、布越しにそっとその指を取られ、導かれる。
歩幅は一定。
香の間へ。
敷居を越えると、空気の層がまた変わる。
香炉はすでに焚かれ、中央の敷布の位置は整えられていた。
足元が軽く促され、彼は静かに膝を折る。
背をまっすぐに、両手を膝上に揃え、南に向かって座す。
付き人の気配が一歩、二歩と下がる。
足音は遠ざかり、やがて完全に空気の流れから消える。
残されたのは、香。
そして、香の中で変化する森の“律”。
静かだった。
鳥の声が、森のどこかでひとつ鳴き、また遠くで応える。
境の結界を風が揺らし、枝の擦れが微かに応える。
背後の
衣の音。
どこかの部屋を掃き清める箒の音。
けれどここには、それらのどれも、干渉しない。
律が正しく保たれているかぎり、織祀はただ、そこに“在る”。
手を動かすこともない。
声を発することもない。
その在り方が、そのまま森の安定を支えるのだと──そう定められている。
時間の区切りはない。
空が明るくなるのも、香が薄まるのも、誰かが告げるものではなかった。
けれど、音の重なりが変わった。
香の層が緩やかに崩れ、風の吹き方がわずかに横に傾く。
香と音と気配が、すべての世界だった。
また、遠くの廊に、衣の音が戻ってくる。
音で分かる。
歩幅、力のかけ方、香に触れたときの空気の濃さ。
それはさっきの付き人と、同じ足音だった。
何も語られないまま、またその手が差し出される。
織祀は立ち上がり、そっと手を預ける。
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