第4話 記憶の中の瞳の色は
レオンの瞳に感じた既視感の正体をつきとめられないまま、わたしはまた朝を迎えた。今日は仕事は休みの日だ。
ギルドに登録している冒険者たちは基本的にその日暮らしなので一斉に休んだりすることはなく、働いているわたしたちもずらして休みを取る。わたしは休みだけど、今日もギルドでは誰かしらが忙しく働いているはずだ。寝て過ごすのも悪くないけど休日は食材や日用品を買い足すチャンスなので、いつもより少しだけゆっくり起きたわたしはベッドから出て、身支度を整えることにした。
枕元の小さいテーブルに置いてある眼鏡はかけ慣れた大きなものと、昨日レオンがプレゼントしてくれたものとで今は二つある。わたしは少しだけ迷ってから、アクセサリーみたいに綺麗で華奢なほうの眼鏡を手に取った。
「卵が安く買えて今日は運が良かったな……」
そうやって市場の方まででかけたわたしは、布袋いっぱいに入った食材と共に帰路につく。顔見知りの野菜売りのおじちゃんや、卵売りのおばちゃんはみんなわたしの新しい眼鏡を見て「おっ、おめかししているね!」「いい人のプレゼントかい?」なんてからかってきた。わたしはどう答えたらいいのかわからなくなってとっさに「自分へのご褒美で……!」なんて意味のない嘘をついてしまったりした。
男の人が女にプレゼントするのって、もしかしたらマーキングみたいな意味があるのかもしれないな……なんてわたしはぼんやり思う。もちろん好きな相手が喜ぶ顔を見たいって気持ちがほとんどなんだろうけど、自分があげたものを相手が身に着けていたら、なんていうか、自分のものだと周りに知らしめる目印みたいになるっていうか……そういうのもあるのかもしれない。まだわたしとレオンは付き合ってすらいないけど……でもこの眼鏡とっても素敵だし、できればいつもかけてたいし……うう~。
唸りながら、わたしは人気のない道を歩いていた。ここは市場に行くときにはどうしても通らないといけない道で、ちょっとおっかないのでなるべく速足で通り過ぎるようにしている道だ。だけどわたしはレオンとのことに心を奪われてて、ちょっとチンタラ歩きすぎていた。
ふいに誰かに肩を叩かれ、買ったものが入った袋で両手がふさがったまま振り返る。触れた手が誰のものなのか確認する前に、目の前に広がった大きな手がわたしの眼鏡を突然奪い取った。
「きゃ……何? 誰っ!?」
「なんだ、ずいぶん高価そうなのかけてんな、メガネブス。あの伊達男にでもねだって買ってもらったのか? 阿婆擦れがよ」
ぶつけられる酷い言葉はエリックの声だった。一昨日まで恋人だった男の声は、もうすでに厭らしくて汚い声にしか聞こえなかった。
「ちょっと、なんですか。返して」
「これは慰謝料にもらっとくぜ」
「慰謝料? あなた何言ってるの?」
慰謝料、という言葉はわたしにとってすごく場違いなものだった。ブスと罵られ、人前であけすけな中傷をされたわたしのほうが慰謝料をもらいたいくらいなのに、いったいこの男はなんの慰謝料を要求できると思っているのだろう。
「……パーティーから追放されちまったんだよ。なんでかおまえを落としたのが嘘だってバレちまって……。クソ、おまえがもっとそそる良い女だったら俺だってバキバキになってたんだよ……! みんなお前のせいだ!」
「そんなの全然わたしのせいじゃないでしょ! 別にあの時その、できなかったから別れたわけじゃ……」
勝手なことばかり言うエリックに面食らいながらもわたしは反論する。しようとした。だけど次の瞬間バチンと大きい音がして、両手がふさがっていたわたしはその場でよろけて尻もちをつく。取り落とした袋の中でクシャっと卵が割れる音がした。
(うそ……今、わたし殴られた?)
ちょっと遅れて右の頬がじんじんしてくる。エリック、わたしを殴った……!
「来い、体でうさ晴らしもさせてもらうぞ。馬鹿にしやがって、おまえなんかひいひい泣かせて謝らせてやるんだからな……!!」
エリックは呆然としているわたしの手を乱暴に掴んで、無理やり引き起こした。凄い力で引っ張られて、わたしは引きずられそうになる。
「いやだ! 放して! 大嫌い!! 誰か! 誰かぁ!!」
「う、うるさい、静かにしろ!!!!」
眼鏡を取られてぼやける視界の中で、エリックが腕を振り上げる気配がした。さっきは利き手じゃないほうで手加減して叩いたようだったけど、今度はダメかもしれない。わたしは身をすくめて、掴まれていない方の手で顔をかばった。
「おい、クズ野郎」
殴られる覚悟を決めて体を丸めた瞬間、上から降り注いだのはエリックの固い拳ではなく、ゾッとするほど冷たい男の声だった。
「れ……レオン?」
わたしにかけられる彼の声はいつも優しいから一瞬誰の声かわからなかったけど、振り上げられたエリックの手を掴んで止めているぼやけた輪郭は黒い鍔広の帽子を被っているようだった。わたしはインキュバスの伊達男の名前をおそるおそる呼んだが、彼はそれには答えずに、そのままエリックの腕をねじり上げて拘束しているようだ。
「痛ててててて!! 何しやがんだ! お前に関係ねえだろ! 放せ!!」
「女を殴って言うことを聞かせようとするなんざ最低の極みなんだよ。躾のできてねえ犬だと思ってたが買いかぶりすぎてたようだな。ドブ川のイボガエル以下だよ。おい、これはお前が持ってていいものじゃない。返せ」
「あっ! クソッ!」
エリックはギリギリと腕を締め上げるレオンに抵抗しようとしていたが、まったく歯が立たないようだった。レオンはそんなエリックから眼鏡も取り返してくれたらしい。そして、音が二重に聞こえるような不思議な声で、もがくエリックにこう命じた。
『お前の声は蛙の鳴き声。自分で川に飛び込むまで、人の言葉は話せない』
耳元でそう囁かれたエリックは、一回びくんと大きく体を震わせると、喉の奥から「ゲェッ!」と潰れたような声を出した。
「ゲェッ!!? ゲッゲッ!! ゲコッ!! ゲゲッ!! ゲロォッ!!?」
レオンが捻り上げている手を離すと、エリックは喉を抑えながらバタバタと走り去っていった。ゲコゲコと耳障りな声が遠ざかっていく。
「ははは、奴さん川に飛び込みに行くぞ。いいザマだぜ。特に興味はねえけど」
そう笑った後、レオンはへたり込んでしまっていたわたしに手を差し伸べて立たせてくれた。温かく力強い手に引っ張られて、わたしは彼の胸板にとん、とぶつかる。見上げると、ぼやける視界の中で彼の紫の瞳が見えた。
その瞬間、わたしは彼と初めて会ったのがエリックと別れたあの夜ではなく、それよりずっと前のことだったということを思い出したのだった。
「あなた……、あの時の……」
彼と初めて会ったその日はうっかりいつも使っている眼鏡を踏んで割ってしまい、昔使っていた度の合わない眼鏡で出勤していた。そんな日に限ってギルドはとても忙しく、初めてギルドに登録する駆け出し冒険者が次々と訪れていて、受付全員でその対応に追われていたのだった。
その中に、野暮ったいフードを間深くかぶった褐色の肌の男がいた。彼は遠くからこの街に来たばかりでまだここらの文字が書けないらしかった。困っているようだったので、わたしは根気よく書き方を教えて登録の手続きをしてあげたのだ。その時きっとダンディレオンという名前は見ただろうけど、本当にその日はその書類を何枚も処理したからわたしの記憶から薄れてしまっていたようだ。
登録が終わった時に「ありがとう」と言ってわたしを見た目の色が、今わたしのことを見つめているひとと同じ色だったのだ。
「助けるのが遅れてごめんね。痛かっただろう。家に帰ろう、送ってあげるから」
レオンはそう言って眼鏡を手渡してくれたので、ちゃんと顔を見て礼を言おうと思ってわたしはそれをかけなおす。そして改めて彼を見上げると、夢のように格好いい顔が優しい瞳でわたしのことを熱く見つめていた。
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