シャーロック・ホームズの異界録 VII:多元宇宙の落日

S.HAYA

プロローグ 歪められた史料

 それは、とある書庫の奥深くにあった。


 ロンドン大学図書館・非公開文書室。

 石造りの階段を下りた先にあるその部屋は、ふだんは施錠されており、限られた研究者にしか立ち入りが許されていない。だが今、黒ずくめの若い研究員がひとり、机の上に革表紙の書簡集を広げていた。


 「……これ、本物なのか?」


 彼は思わず独り言を呟いた。


 それは、ワトソン博士の手による未発表の原稿群だった。

 年代は不明、タイトルも曖昧。唯一の手がかりは、冒頭に鉛筆で書かれた走り書きだ。


 > “我々の知る探偵譚のすべては、たった一つの世界線に過ぎなかった——”


 ページをめくるたびに現れるのは、常軌を逸した事件記録だった。

 鏡の中から現れる殺人者。異星より来た生物。崩壊する死者の都市。

 そして、最終章に記されていたのは、「多元宇宙(マルチバース)の崩壊」という言葉だった。


 「シャーロック・ホームズが……複数存在していた?」


 若い研究員は首をかしげた。


 歴史的に知られるのは、ヴィクトリア期の名探偵シャーロック・ホームズ、ただ一人である。だがこの原稿には、**異なる時代、異なる肉体、異なる信条を持つ“ホームズたち”**が、ひとつの終焉へと集結していく様が、克明に描かれていた。


 読めば読むほど、正気を削られるような感覚が彼を襲った。


 だが同時に、彼はページをめくる手を止められなかった。


 ——なぜなら、この結末を知るのは、

 **“語られなかった最後の事件”**を知るのは、

 おそらく彼が世界で初めての人間だったからだ。


 やがて、彼は最後のページにたどり着く。そこには、インクが滲んだような筆跡でこう書かれていた。


 > 「ホームズは死んだ。だが、探偵の物語は終わっていない。」


 その言葉を読んだとき、書庫の上部で小さな音がした。


 コツ、コツ。


 階段を下りてくる足音だった。だが、警備の巡回時間にはまだ早い。

 研究員は身を起こし、扉を見つめた。


 ——そこに、誰かが立っていた。


 黒いコートに、煤けたシルクハット。

 顔は見えない。だが、その影の輪郭は、あまりにも有名だった。


 「……ようやく見つけた」


 影は、そう呟いた。


 次の瞬間、書庫の灯りが一斉に落ちた。


 再び明かりが戻ったとき、革表紙の原稿も、研究員も、そしてその影も、跡形もなく消えていた。


 残されたのは、ただ一枚の古びたカードだった。


 > “For those who still believe in stories.”(物語を信じる者たちへ)

 > ——S. H.

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る