蛍、朽草、星垂る。

葛葉理一

【一日目】



「おーい、蛍見に行こら」

 上から声が降ってきた。

 

 目を開けると、夕日で描かれた天井を背景に、ぼんやりとした顔があった。手探りで探し当てた眼鏡をかけ、視界を磨き上げる。寝起きでしゃっきりしない頭を起こすと、山から降りてきた風が頬を撫ぜた。

「んえ……涼葉?」

「涼葉やよー。おはよう、薫」

 何度か瞬きして、ようやくはっきりと輪郭を捉えられた。にこやかに話す顔は陰になっていてよく見えない。

「……なんで?」掠れたが聞き取れたようだ。涼葉は首を傾げ、無言で微笑む。

「ほら、はやく起きなー」

 そう言って涼葉は、眼鏡を押し上げて止まった両手を掴み勢いよく引っ張った。

 ごきっと肩だか背骨だか、嫌な音が鳴ってやっと覚醒する。目の前で確かに動く涼葉に呆然としつつも、されるがままに身を委ねる。居間の壁掛け時計に目を遣ると、十九時を指していた。まあ少しくらいならば誰も気にしないだろう。支度する旨を涼葉に告げ、準備に取り掛かる。部屋に入る薫と入れ替わりに、のしりのしりと縁側の主である黒猫は庭に出ていった。

 猫様が独占していた扇風機を消し、蚊取線香を折り、靴を履く。


 玄関の方に回っていた涼葉と合流すると、怪訝な顔をされた。

「あれ? 薫、カメラは? もしや、みじゃけてもうた?」

 歯切れの悪い返事をしているとすぐに興味は失せたようだった。ずんずん歩いていく姿に今更ながら面倒くささを感じたが、諦めるほかない。涼葉は絶対に止まらないし、放っておいたらもっと面倒くさいことになるのは目に見えている。

「で、なんだっけ、蛍? 今から?」風鈴の音に負けじと大きな声で問いかける。

「早く!」振り返って無邪気な笑みを目にしたら、毒気を抜かれた。

 ふと振り返ってみると、玄関先で煙がゆらゆらと流れていた。




 祝日の夕方だというのに、通りには猫の子一匹見当たらない。剥がし忘れた七夕のポスターを通り過ぎた辺りで話しかけられた。

「いやー、久々やねー。東京はどうなん? やっぱりこっちとは全然違う?」

「うーん……。色んなものがとにかく多いけど、それだけ。皆、自分のことで手一杯。疲れるよ、本当に」

「ふーん。綺麗なだけじゃないんやなー」

 ピンとこなさそうに言うその声に僅かな憧憬が感じ取れた。まあ田舎にいたらそう思うものだろう。

「こっちは? なんか変わった?」

「いやー? なんも変わっとらんに。あ、でもね小学校の鶏が卵産んださ。名前を決めるときになー……」

 そんなことを話しているうちに郵便ポストを通り過ぎ、祠の横を曲がり、道祖神が佇む場所まで来た。畦道に差し掛かったところで彼方の記憶が呼び起こされる。

「……ねえ、こっちの道って」

 夕日に照らされた弾けんばかりの笑顔は、最後に見た時よりもずっと大人びていた。

 そうだ、この道の行く先は秘密基地だ。多分、二人しか知らない。切り株を左に、坂を登ってご神木を右に、倒れた木を避けてもう少し歩いて、ようやく小川に辿り着く。小川といっても浅く、子どもでも跨げるような川幅である。手頃な平たい岩に荷物を置いてよく遊んだものだ。


 日もいよいよ暮れ、蛍がぽつりぽつりと飛んでいる。

 すぐさま岩に腰掛けた薫とは対照的に、涼葉は靴を脱ぎ捨て小川に足を浸した。


 ほーたるこい

 あっちのみーずは にーがいぞ

 こっちのみーずは あーまいぞ

  

 記憶のそれと全く同じ歌声が響いた。冷涼な泉を思わせる澄んだ独唱が、笹葉擦れの伴奏に彩られる。呼応するように蛍がいよいよ集まり、おとぎ話の世界のようだった。

「本当に好きだよね、蛍」声に出ていたらしい。白い袖を翻しこちらを向く。

「好きやでー? なんで?」

「ううん、なんでもないよ。変わってないなって、それだけ」

 何を言っているんだ、自分は。

「なにそれー、私が変わるわけないやん」可笑しそうにけらけら笑い、薫も変わってへんやん、とおどけて指さす。

「まあ、そうだな。そうだよね」ふと空を見上げると、木々の隙間から一番星が覗いた。そこに蛍たちが加わり、自然の花火が出来上がった。

「涼――」息を吞む。呼び掛けようとしていたことも忘れ、その場に釘付けになる。

 これほどうつくしいものが、あるというのか。

 足踏みするたびに飛び散る水に、蛍の光がちらちら反射して。

 蛍に誘われたように、星を掴もうとする手は透き通っていて。

 揺らぐ射干玉の黒髪も夜の祝福を受け、闇に紛れる筈もなく。

 蛍も、雫も、小川も、木々も、風も、そしてなにより涼葉が。

 刹那がどうしようもなく、うつくしく、長かった。思わず右腰あたりに手を伸ばすが、空を切るばかりだった。もうカメラは、ないのだ。

 そうしているうちにも、涼葉は思うままに蛍を追う。目の前に広がる絵画のような光景に心を奪われていると、膝から力が抜けた。足の震えが、手にまで伝わる。

 

 あ、だめだ。

「帰ろう。もう暗いから」ここにいると妙な気分になる。これ以上変なことを口走る前に。

 これは夢だ。カメラ越しに見る景色のような、それだけの。このうつくしさも、夏の夜が見せるただの白昼夢に違いない。




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