　動けないのだから、基本的に私は退屈なのだよ。

　もちろん、私の役目について私は十分に理解しているつもりだ。人々が行き交う道、それを明るく照らすことで真っ暗で何も見えない夜の世界でも、誰かが怪我をしたり迷ったりすることのないようにする。それこそが私にとって重要であることくらいわかっている。だが、それくらいだ。毎日、暗くなったら明かりをつけ、明るくなったら明かりを消す。知っているか、私のような電灯は周りが暗くなれば自動で明かりがつくようにできているのだ。それはつまり、私自身がどうであろうと、私はここにいるだけで明かりであることができると言うことだ。役目は十分に果たせているし、そう考えると、ただいるだけで役目を果たせるようになっているのだから文句なんてつけようがない。と言うのは嫌というほど分かっている。分かってはいるが、しかしやはりただいるだけと言うのも結構大変なのだよ。

　だから私は、通りがかる人々を眺めてはどんな人間なのだろう、と考えてみることにしている。当然、毎日通りがかる人もいれば、一度しか見たことがない人だっている。日頃からよく見かける人間なんかは、日によって様子が変わっていたりするので、きっと今日はこんな日なのだろう、と想像する。彼は普段、常に誰かといるが今日は一人きりだな、とかいつも憂鬱そうな顔をしている彼女は、今日はとても晴れやかな顔をしている、とかその程度の違いくらいしか分からない。それでも、彼はきっと喧嘩をしたに違いない、彼女はきっと良い買い物ができたに違いない、などと考えてみるだけでもなかなか楽しいものだ。もちろん、合っているかどうかは分からないがね。私は通りがかる人間と話すことなどできないのだから。

　そうだ、それに私の下には木製のベンチがあるだろう。そこには毎日誰かが座るのだよ。それを眺めてみるのもなかなかに楽しいものだ。人間が座るのにはさまざまな事情があるのだな、と常々思わされる。まっすぐベンチに向かって歩いてきて、座ったかと思えば本を読むものもいるし、楽器を出して演奏をするものもいる。夜になるとふらふらとした足取りでようやくベンチに辿り着いたかと思えば、そのまま横になって明るくなるまで寝続けるものだっている。中には、一日中地面を見つめ続けているものだっていたな。あれは一体何が楽しいのだろうか、私も似たようなものだが、流石に地面を眺め続けても楽しいことなどないと思うのだが。

　さて、今日はもうだいぶ暗くなってしまったし、通りがかる人間も、ましてやベンチに座る人間なんて来やしないだろう。この時間が一日の中で最も退屈な時間なのだが……おや、珍しいこともあるものだ。どうやら歩いている人間がいるようだな。恐らくは六十代前後の女性、それくらいは見た目でわかるようになってきたところだ。だが、こんな時間に歩いているにしては酒に酔っている様子もない、かと言ってしっかりとした足取りというわけでもないが。この時間にただ寝るだけではない人間を見るのは久々だからな、それにどうもこの人間はベンチに座るようだ。せっかくだ、しっかりと眺めさせていただくとしよう。

　その人間は俯きがちに、前を見て歩く方法をあまり知らないかのようにふらふらと歩いていた。その足取りで私の下まで来て、そこでようやくベンチの存在に気付いたようだ。ようやく陸地を見つけた、とでも言うべき様子でベンチに座った。息が上がっている様子もないため、恐らくは肉体的な疲労ではなく精神的な疲労がこの人間をこのような状態にしているのだろう。座るなり抱えていたカバンからペットボトルを取り出し、水を飲む。一口、二口と飲んで口を離すと、少しは気分も落ち着いたのか顔に血の気が戻ったように見えた。見たことのある顔ではないため、きっとどこかへ向かう途中、ようやく休める場所を見つけたと言ったところだろう。慣れない土地を歩いているせいで極端に疲労したと言うこともあるかもしれない。それにしては、ただ歩くだけで命を削っているかのような脆さも見えるが。

　しばらくして、その人間はカバンからスマートフォンを取り出した。最近はこのベンチに座り、ただその画面を眺めている人間も増えた。一日中同じところから動けない私からすれば、そのベンチで小さな画面を見て過ごすことの何が楽しいのか理解に苦しむところではある。彼らも心底退屈なのであれば、もはや同志と言えなくもないが……人間もそれほどに退屈なのだろうか。自分の足で歩き、見たいものを見ることだってできるだろうに。いや、それも全てあのスマートフォンで完結するのだろうか。

　それはさておき、その人間はどうやらニュースの映像を眺めているようだ。画面上には、大きくうねりを上げながら侵攻する黒い波が表示され、その後淡々とした声で誰かが溺死したと言ったような内容を語っている。どうやらここ最近日本に到来した台風によって、前例にないほど増水した川に飛び込んだ人間がいたらしい。狂人が世界の終わりを感じたが故にいてもたってもいられなくなり、自ら命を終わらせようとしたわけではなく、流されている子どもを助けようとしての行動とのことだ。そのニュースでは助け出された母親へのインタビューが流れていた。

「その日は台風が来るので、保育園もお休みだったんです。ただ、最近は私も仕事が忙しくて買い出しにも行けてなかったので、息子を連れて買い物に出掛けていました。台風がひどくなるのは夕方ごろから、と天気予報で言っていたので、お昼ならまだ大丈夫だと思って……家を出た時はまだそこまでひどくはなかったんですが、買い物が終わっって帰るころには天気も大変なことになっていて。予報よりも早く台風が来ていたみたいで、私は早く帰ろうとしたんですが、息子は物珍しいのか自分の近くにまで寄ってきた川に夢中で、手を引っ張ってもなかなか動いてくれなかったんです。『もう帰るよ』と何度言っても動かなくって強めに手を引っ張ったらスルッと手が抜けちゃって、息子の手を離してしまったんですけど、その時にひときわ大きな波が来ちゃって。息子はそのまま流されてしまって、私も気が気じゃなくって買い物袋なんて置いて必死で追いかけました。その時、近くにいた人が何も言わずに急に川に飛び込んだんです。私は最初、何が起こったのか全く分からなかったんですが、そのまま息子が流されているところまで追いついて、私のところまで連れてきてくれたんです。私も無我夢中で息子を受け取ったんですけど、その時は息子が生きて自分のところに来てくれたことに安心してしまいました。すぐに助けてくれた人が上がってきているか見たんですけど、彼はそのまま流されてしまって……すぐに警察に電話しました。警察の方も捜索すると言ってくれたのですが、私たちにはすぐに川から離れるように、とだけ……その後、胃警察の方から流されていた人を見つけたとの連絡を受けたのですが、その時は既に亡くなっていたみたいです。私も一応、現場に呼ばれて確認しました。本当に残念です。できれば、生きている彼に直接お礼を伝えたかった……」

　場面は変わり、ニュースキャスターが他にも数名の行方不明者がいることを伝えた。そして、台風の際には命を守る行動を最優先とし、日頃から災害に対する備えをしていくことの重要性を説いて台風のニュースは終わった。確かに先日、私もこれまで経験したことのないような暴風雨に見舞われた。私も一時期はもはやこれまで、この道を明るく照らし続けることはできないだろうと覚悟を決めたものだ。周辺にもこれまで見たことがないようなものが飛んできていた。とはいえ奇跡的に私は折れることなく、無事にやり過ごすことができた。しばらくは電気も通らずに道を照らすこともできなかったが、それも時間が経てば解消された。そのため、人間が死んでしまうほどの被害をもたらすまでになっているとは思っていなかった。

　などとぼんやり考えていたが、ふと気になってベンチに座った人間の方を向いてみると、俯きながら声を押し殺して泣いていた。ニュースを見て涙を流す人間を初めて見たので、正直かなり驚いた。本を読んだり、ドラマや映画を見ながら泣いている人間をこのベンチで見たことは何度かあったが、まさかニュースでも涙を流すとは。確かに自分の身を投げ打ってでも、幼き命を救おうとした人間は英雄であろうし、それこそまるでドラマのような展開ではあるが、あそこまで淡々と話している人間を見ても流石に涙までは流すまい。

　その人間はひとしきり泣いた後でペットボトルを取り出し、水を飲んだ。その後一息つくと、少し腰をあげてようやく立ち上がるかと思えたが、少し迷った様子で再びベンチに腰掛けた。そうして、また同じニュースを最初から見始めた。そこまでして何度も見返したくなるような内容には思えなかったが、何度も同じものを見る人間はいくらでも見てきたのでそこまで違和感はなかった。ただ、それにしてもこの時間にただ同じニュースを見るためだけにベンチに座るとは考えにくい。もう暗くなってから、つまり私が明かりをつけ始めてからかなりの時間が経っているのだ。どこかへ向かう途中であれば、きっと少し休んで目的地までまた歩き出すだろうが、なかなか立ち上がらない。どちらかと言うと、どこかへ行くのを迷っているようにも見えた。立ち上がり、歩き始めてしまえば目的地に向かって足を運ばざるを得ない。それがどうしてもその人間にとっては苦痛で、踏ん切りがつかない、と言ったところだろうか。

　そう考えると、少し納得いくところもある。何度か、少し大きな背広を着た人間がこのベンチでうなだれているのを見たことがあるからだ。その人間は何度も腰をあげ、その度に迷った様子で何度か自分の頬を叩き、よしと声をあげては首を振って座り直す、と言うことを繰り返していた。その時は「この人間は一体何がしたいのだ」と思ったが、最後は時計を確認して思い切り立ち上がり、そのままどこかへ歩いて行った。きっとやりたくなくともやらねばならないこと、行きたくなくても行かなくてはならないところがあり、そのためにはかなりの時間を要するのであろうと考えたものだが、きっとこの人間もそうなのだろう。

　それからしばらくその人間の様子を眺めていたが、ニュースを四回ほど見終えたあたりだろうか、先の大きめ背広人間と同じく、その人間も手首に巻いた時計をチラリと確認した後、「そろそろ行かなくちゃ」と言ってゆっくりと立ち上がった。ニュースを見るたびに泣き、ペットボトルを開けて水を飲み、少し悩んだ様子を見せた後、また座り直すを繰り返していた人間は、ここに辿り着いた時よりもさらに疲れているようにも見えた。目の周りは特殊な塗装を施したかのように真っ赤に腫れ、もはや最初にここに来た人間と同一人物とは思えないほどだった。

　結局、この人間がこのベンチに座ったのは、どこかへ向かうための休憩であったのだろう。どこか目的地があり、そこに向かう必要があるのだ。だが、そのためにはかなりの時間と勇気を必要とした。その勇気を蓄積するために必要だったのが、座るためのベンチと暗闇を照らすことのできる明かり……つまり、私だったのだろう。かなり好意的に解釈している節は否めないが、私は明かりを提供するくらいしかできないのも事実だ。だが、その役目を果たすことで人間が前に進めるのであれば良いだろう、と私としては思うところだ。

　そうして、その人間はおそらく目的地がある方向へと歩き始めた。私の明かりを頼りとして、次の街灯へ向かって歩いていく。人間が座ってからかなりの時間が経っていたようで、既に辺りは明るくなり始めていた。この明るさであれば、あの人間も真っ直ぐ目的地へ向かうことができるであろう。どこへ向かうかは知らないが。

　周囲の明るさを検知した私は、静かに明かりを消した。