帝国

男はいつものように整備をさっさと終わらせ、食堂に足を運んでいる最中だった。

通路は狭く、人のすれ違いが起こるときは双方が身を小さくする必要がある。そのときもまた、向こうから緑のジャケットを着た中年の男が来たので、二人は互いに気を遣い合って衝突を回避する───はずなのだが。

その中年男は堂々と道の真ん中を歩き続け、何をする気配もなく歩き続けた。結果として当然二人は体を強くぶつけた。

整備士の男はよろけ、なんだと思い戒めるように中年男を睨んだ。

しかしその相手は何も悪びれることはなく、むしろ男のその行為に苛立ったのか、顔を歪め男の頬を固い拳で勢いよく殴った。

非常識な行動の連続で呆気にとられた男は、その攻撃を頬でまともに食らった。そして痛みに耐えられず、そのまま地面に倒れてしまった。

中年の男はふんと鼻を鳴らして言う。

「不敬な整備士だ。私が言えば貴様を職なしにもできるのだぞ」

男にはその言葉の意味がわからなかった。どうやらその中年男には何らかの権力があるらしいのだが、男の知る権力者というものは、もっと高貴で暴力よりかは議論を好む人間だったのだ。

中年男はまた殴ろうとしてずんずんと歩いたが、そのときに何者か知れぬ女の声が中年男を制止した。

「その男、整備士です。言葉の通じぬ輩に何を言おうと変わりはしません」

中年男の後方からすっと現れたその緑髪の女は冷たい目をして二人を見ている。

ふん、と男は鼻を鳴らした。

「貴様のような礼節もわからぬ整備士であろうと、一介の帝国人なのだ。今度帝国の名に泥を塗るようなことをすれば許しはしない」

帝国──男はその名前を随分と久しぶりに聞いた。恐らくはもう途絶えている皇帝の血を、いまだ奉りつづけている国。男の故郷。

中年男は不満を隠さずに場を立ち去ったが、男はその場に倒れこんだままでいた。

傷心───そういう表現が適切かどうかはともかくとして、悲しみに暮れていることは確かだった。

生まれてきてからずっと帝国のために尽くしてきた。何も知らぬまま整備士になり、そして働いてきた。そしてそのことを、男は今初めて疑問に思った。

男は何か変な気分になっていたのかもしれない。帝国軍人はいくらかの誇りを持っていると、それは誤解だったのではないか、と。そういう歪みを持ったのかもしれない。

廊下の上のほうにある小さな窓からは、星の見えぬ、ビル群のみ輝くが見えた。かつてデトロイトとよばれた誇り高き仕事の地の穢れた夜景。それもまた、男の悲しみを加速させたのだろう。

例えば、そう、だから、死んでしまったり───

「おい、お前」

窓からの風景でいっぱいだった男の視界が、緑髪の女の掌で支配された。

「気持ちはわからんでもない。だが逆らうな。あの男が言っていることもまた、真実だ。整備士が軍人に逆らうというのは殺されても文句は言えない行為なのだから」

特にあの男──と、女は続ける。

「あの、特任第八中尉殿には気をつけろよ」

…特任第八中尉。人形趣味。蘭式のパイロット。

男は頭が混乱し、なにがなんだかわからなかった。

女は特任第八中尉に追いつくため、男に何を言うこともなくその場をあとにした。

彼女もまた、生きるために手段を択べず、そしてそれに疑問と抵抗を持つものだった。

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