永遠の幼馴染の”未完の物語”

@Nobukimi

第1話: 新しい街、新しい親友

──1970年代半ば。


名古屋市東部。まだ水田が広がり、空き地が点在し、未舗装の道路が街の輪郭を曖昧にしていた頃。そんな街にも、秋の気配が静かに訪れていた。


赤とんぼは、夏の山あいで生まれ、秋風に背を押されながら、夕焼け空を染めあげるように群れをなして里へ舞い下りてくる。


あの頃の名古屋の空も、茜色に深く染まり、無数の赤とんぼがその空を埋め尽くしていた。


そのなかに、ひと組のトンボが、絡み合うように飛んでいた。翡翠色の雄が、琥珀色の雌を導くように空を舞う。その「トンボの連結飛行」は、二つの体がまるで一つの意思で動いているかのような、不思議な調和をたたえていた。


秋の空の下、小さな男の子と女の子が、並んで空を見上げていた。


「あれ、こうび(交尾)!」


男の子が、昆虫図鑑で覚えたばかりの言葉を得意げに口にし、指を伸ばす。

「こうび……」


女の子も、それにつられるように空を仰ぎ、まねるように声にした。


けれど彼らは、その“こうび”が何を意味するのかを知らなかった。


赤とんぼが雄と雌であることも、自分たちが“男の子”と“女の子”であることすら、まだ自覚のない年頃だった。


夕焼けの空に向けた幼い指先が、トンボの軌跡を追いかける。その光景は、どこか不思議で、幼い二人の胸に、言葉にならないざわめきを残すほどに美しかった。


昔ギリシャのイカロスは

ロウでかためた鳥の羽根

両手に持って飛びたった

雲より高く まだ遠く

勇気一つを友にして


そのとき、男の子の心の奥に、ふいにあの歌の哀しげな旋律が重なった。


「勇気一つを友にして」──。


この美しい秋の空に、どこか似つかわしくないそのメロディが、不思議と溶け合い、少年の胸に深く響いた。


ギリシャ神話「イカロスの翼」をモチーフに飛翔、墜落、そして再生を歌ったその歌は、小学校の音楽の教科書にも取り上げられた。


それは、やがて訪れる別れ、そして転落。そして、そこから再び飛翔してゆく少年の未来を、遥か遠くから照らす、かすかな予兆のようでもあった。


【もうひとりの五歳】


正木理央、五歳。


”彼”は、父の転勤に伴い、数か月前に島根県安来市から名古屋へ引っ越してきたばかりだった。


名古屋に来てまもないある日、集団で保育園へ向かう途中、理央は砂利道で転び、膝を擦りむいた。皮膚はめくれ、その下には小石が食い込んでいた。


先生たちは慌てて駆け寄り、「大丈夫、大丈夫、痛くないよ、痛くない」と、まるで台本でもあるかのように繰り返した。


理央は静かに、小石を指でつまみ出した。


「えらいね〜、泣かないね〜」


今度は拍手でも起こりそうな勢いで、先生たちは彼を褒めそやした。


理央は、本来は涙もろい少年だった。それは感受性の強さゆえであり、悲しみや怒り、感動といった“心の波”に触れたとき、自然と涙がこぼれた。だが、こうした“物理的な痛み”には、なぜか涙は出なかった。


先生たちの大げさな反応に、理央はどこか冷めた目を向けていた。


──この程度で、どうしてそんなに騒ぐのだろう。


幼いながらに、彼はどこか“舐められている”ような気がした。そして、自分とまわりの人々とのあいだに横たわる、平均的な感覚の“ズレ”のようなものを、はっきりと感じていた。


「とっろ〜……」


ふいに、どこからか聞こえてきた耳慣れない言葉。名古屋弁だった。


意味は分からなかった。けれどその一語が、「自分はここではない、どこか別の場所から来たのだ」という事実を、理央にはっきりと意識させた。


見知らぬ風景、慣れない言葉──


それは、膝を打ったときの痛みや、小石を皮膚の下からつまみ出したときの痛みよりも、ひんやりとした違和感を理央の胸に残した。


そんなある日、母に手を引かれて、近所の家を訪ねた。


そこにいたのは、自分と同じくらいの年頃の”女の子”──


今井美幸。五歳。


”彼女”は、やがて理央の新しい世界への扉を開くことになる──そのことを、このときの理央はまだ知らなかった。


【「かわいい」と「知りたい」】


当時、理央の家のまわりには、トンボがいくらでもいた。


ある日、美幸が一匹のトンボをつまんで戻ってきた。


「見て、ほら」


彼女の指先で、トンボの羽は半分ほどの長さに切られている。地面にそっと置かれたそれは、脚だけでぎこちなく砂をかいていた。


「歩いてるの。かわいいでしょ?」


美幸はそう言って、まるで子犬でも散歩させるように、トンボの後を嬉しそうに追いかけた。


「こっち、こっちだよ、行き止まり!」


しゃがみ込み、小石で道を作ってやり、先回りしては声をかける。


「え〜、そんなことしたらトンボ死んじゃうじゃん!」


そんなふうに羽を傷つけてしまえば、餌をとることもできず、すぐに死んでしまう。

理央はそう思った。けれど、どこか自分のなかにも、似たような残酷さがあることを、彼は自覚していた。


──コガネグモの巣にトンボを放り込んだら、どうなるだろう。


理央は、テレビの自然科学の番組で見たその場面を、自分の目で確かめてみたくなった。


そして──ついに、やってしまったのだ。


放り込んだ瞬間、巣が微かに揺れ、糸がトンボの羽に絡みついていった。


やってしまったあとで、理央は胸の奥に、ひやりとした痛みを感じた。自分の中にある小さな残酷さが、はっきりと姿を現した気がした。


それでも、知りたかったのだ。


世界がどう動くのか、生き物がどう変わっていくのか──


理央にとって、それは「好奇心」だった。


女の子のトンボ遊びは、「かわいい」という無垢な欲求から始まっている。理央のそれは、お男の子の「好奇心」から始まっている。


彼らはまだ五歳か六歳。「かわいそう」が、どこまで届くかも定かでない年齢だった。しかし、その幼い遊びの中に、すでに男女それぞれの価値観と感情の萌芽が、確かに息づいていたのである。


【小さな反抗】


かつて、理央の家の周りには、古びた長屋がいくつも肩を寄せ合うように立ち並んでいた。


空き地では、近所の男の子たちが草野球に興じたり、秘密基地探検ごっこに夢中になったりしていた。


彼らの遊びには、いつも決まった秩序があった。年上のリーダー格がいて、その下に年少の子どもたちが従う──そんな小さな階層社会。


男の子たちの中心にいたのは、「クニオ」という年上の少年だった。


無表情な顔に、どこか濁ったような冷たい目をしていて、言葉より先に手が出る──そんなところがあった。


彼は「クニオ君」と呼ばれ、力で押さえつけては、男女を問わず年下の子たちを黙らせていた。男の子たちのあいだでは、内心恐れられ、そして密かに嫌われていた。


女の子たちのあいだでも、彼の名前はときおり囁かれた。少しだけ声を落として、警戒するように。


美幸は、そんなクニオの名前をわざと逆さにして「”オニク”」と呼んだ。


その呼び方には、彼女なりの反抗の気持ちが込められていた。


「オニクなんて、大っきらい」


そう言って美幸がぷいと顔をそらしたとき、理央は、彼女と同じ気持ちを分かち合えることが、何より心強く感じられた。


そしてある日、クニオが引っ越すという話が耳に入ったとき、二人は思わず顔を見合わせ、小さく──けれど確かな喜びを胸に秘めて、声を立てずに笑い合った。


【夢と現実】


ある冬の日、美幸が突然アイススケートの話を持ち出した。


「私、くるくるくる〜って、あんな風に回りたいの!」


テレビに映ったオリンピック選手のスピンに、彼女の瞳はきらきらと輝いていた。


氷上を舞うあの華麗な姿──少女の胸を躍らせるには十分な幻だった。


幼い理央は首を傾げた。 「そんな簡単にできるもんなのか?」


家に帰ると、母親に尋ねてみた。


「あれ(くるくる回るやつ)って、簡単にできるの?」


母は、家事の手を止め、きょとんとした表情で答えた。


「あれはね、特別なスケート靴を履いてるのよ」

「特別な...靴?」


理央は目を丸くした。六歳の理央の頭には、奇妙なイメージが浮かんだ。


普通のスケート靴の刃はまっすぐだが、"くるくる回る専用"の靴には、回転しやすいような丸いエッジがついているのだろうか──。


母の答えは質問の本質をまるで捉えていなかったが、それでも「簡単にはできない」という彼の推測を補うには、とりあえず十分なものだった。


翌日、理央は改めて美幸に告げた。


「いきなりくるくる回れるわけないよ。あれは『特別な靴』を履いてるんだから」

「できるもん!」


美幸は頬をふくらませて反論した。


二人の主張は平行線のまま、氷上の議論は決着を見なかった。


──そして一週間後。


実際にスケートリンクへ行ってきた美幸に、理央は胸を弾ませて尋ねた。


「どうだった? できた?」

「……」


美幸は、黙って俯いていた。


理央は、なぜかほっとした。自分の推理が正しかったという安堵と、美幸の無垢な願望が、現実の壁に触れたことへの、ほろ苦い納得があった。


それはどこか「イカロスの翼」を思わせた。


昔の人は、両手に翼をつければ空を飛べると思っていた。けれど、現実は違った。

理央は現実的で、慎重で、結果を予測する子だった。


一方、美幸は願望にまっすぐ従う、衝動的で楽観的なところがあった。


この出来事は、理央が美幸の「天然さ」を初めて意識したきっかけだった。

けれど、二人のやり取りは、やがて笑い声に包まれた。


そして、いつの間にか次の小さな冒険へと続いていったのだった。

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