第二部:物理的制約の導入

 第一幕の失敗は、霞が関中に知れ渡った。田中の功績をあれほど持ち上げたメディアは、手のひらを返したように「税金の無駄遣い」「机上の空論が生んだ大混乱」と彼を叩いた。プロジェクトの存続すら危ぶまれる中、田中は上層部が居並ぶ会議室で、一人、矢面に立たされていた。

「田中くん、君のプロジェクトは、結果として事態を悪化させただけではないか。どう責任を取るつもりだね」

 年配の幹部からの詰問に、田中は顔色一つ変えずに答えた。

「責任は、必ず結果でお示しします。今回の失敗は、想定外ではありましたが、貴重なデータが取れたと前向きに捉えています。我々は、人間の心理的アプローチの限界を知ることができた。ならば、次の一手は明白です」

 彼は、会議室のスクリーンに新しい企画書の表紙を映し出した。そこには、こう書かれていた。

『第二段階施策:物理的抑止システム「自動反発ホームドア」導入計画』

「もはや、彼らの心に訴えかけるのは無意味です。これより、我々は物理的な制約へと移行します」

 ざわめきが起こる。田中は構わず続けた。

「このシステムは、閉まり際のホームドアに微弱な電流を流すものです。人間の体が触れると、静電気よりも少し強い程度の電気ショックが走る。痛みはほとんどありません。しかし、突然の衝撃と不快感によって、触れた者は反射的に手を引く。これにより、物理的に駆け込みを阻止します」

「感電事故の危険性はないのかね」

「電圧・電流は、医療専門家の監修のもと、人体に全く影響のないレベルに設定します。あくまで『不快な衝撃』を与えることが目的です。これは、もはや対話ではありません。人間という動物に対する、パブロフの犬と同じ、古典的な条件付けです」

 田中の口調は、以前のような熱を失い、代わりに機械的な冷徹さが宿っていた。その変化に、会議室の誰もが気づいていた。かつての理想に燃える若手官僚の姿は、そこにはなかった。あるのは、目的のためなら手段を選ばない、冷酷なマキャベリストの顔だった。

「君は、国民を動物として扱うと言うのか」

「彼らが自ら、動物のように振る舞うことを選んだのです」

 長い沈黙の後、プロジェクトの継続と、第二段階施策の実行が、渋々と承認された。予算は大幅に削減され、失敗した場合は即時解散という厳しい条件付きだった。

 プロジェクトルームに戻ると、佐伯と渡辺が待っていた。

「正気か、田中くん」佐伯が吐き捨てるように言った。「電気ショックだと? 次はなんだ、地雷でも埋めるか?」

「私は本気です、佐伯さん。効果的な手があるなら、どんなことでもやる」

 渡辺教授が、心配そうな目で田中を見つめた。「田中さん、あなたのやろうとしていることは、非常に危険な領域に踏み込んでいます。痛みや不快感による行動制御は、必ず予期せぬ副作用を生みます。人々の心に、政府に対する不信感や反発心を植え付けるだけかもしれません」

「結構です」

田中は冷たく言い放った。

「信頼など、最初から期待していない。私が欲しいのは、彼らの信頼ではなく、彼らの服従です。秩序のためには、多少の痛みは必要なコストだ」

 彼の変貌ぶりに、佐伯も渡辺も言葉を失った。プロジェクトチーム内の空気は、もはや修復不可能なほどに冷え切っていた。それでも、計画は着々と進められた。安全性を証明するための実証実験が繰り返され、法的な問題をクリアするための根回しが行われた。そして、数ヶ月後、首都圏の主要駅のホームドアは、静かにその仕様を変更された。


「自動反発ホームドア」の導入初日、駅のホームは奇妙な静けさに包まれていた。

 システムの存在は事前に告知されていたが、多くの人々は半信半疑だった。電車のベルが鳴る。いつものように、数人が駆け出した。その先頭を走っていた若いサラリーマンが、閉まりかけたドアに手を伸ばした、その瞬間。

「ッ!」

 彼は短い悲鳴を上げると、まるで熱い鉄に触れたかのように手を引っ込めた。彼の腕が、ビクンと大きく痙攣する。痛みはない。だが、経験したことのない不快な衝撃が、腕から脳天まで突き抜けた。彼は呆然と自分の手を見つめ、ドアが完全に閉まるのを為すすべもなく見送った。

 後に続いた者たちも、その光景を見て急ブレーキをかけた。ホームには、駆け込みに失敗した人々が、あっけにとられた表情で立ち尽くしている。不協和音も、皮肉なアナウンスもない。ただ、無言の物理的な「拒絶」があるだけだった。

 その日の駆け込み乗車件数は、ほぼゼロになった。

「見ろ。これが結果だ」

 監視モニターを見ていた田中は、誰に言うでもなく呟いた。彼の顔には、笑みはなかった。ただ、自らの正しさを証明できたという、乾いた満足感があるだけだった。

 数週間が経過し、駆け込み乗車の撲滅は、ほぼ達成されたように見えた。人々は、ドアが閉まる直前になると、まるで透明な壁があるかのように、一定の距離を保って立ち止まるようになった。駅の秩序は、見違えるほど改善された。

 田中は、今度こそ勝利を確信した。人間は、結局のところ、痛みと不快感には逆らえないのだ。彼は、自分が大衆をコントロールする術を見つけ出したのだとさえ思った。

 しかし、またしても、変化は彼の想像の及ばない場所で、静かに芽吹いていた。

 きっかけは、とある女性向け匿名掲示板への、一本の書き込みだった。

『【朗報?】駅のビリビリドア、肩こりに効くかもしれない』

 投稿主は、都内のIT企業に勤めるOLだった。彼女は、連日のデスクワークによる慢性的な肩こりに悩まされていた。ある日、仕事で疲れ果て、ぼんやりと電車を待っていた彼女は、バランスを崩して閉まりかけのホームドアに肩から寄りかかってしまった。

 その瞬間、肩に「ビビビッ!」という衝撃が走った。驚いて飛びのいた彼女だったが、数秒後、奇妙なことに気づいた。あれほど重く痛かった肩が、心なしか軽くなっている。まるで、低周波治療器を当てた後のような、スッキリとした感覚。

 彼女は、半信半疑ながら、その体験を掲示板に書き込んだ。

『気のせいかもしれないけど、なんか血行が良くなった感じ。タダでマッサージ受けられたと思えばラッキーかなw』

 この、何気ない投稿が、新たな混沌の引き金となった。


 噂は、驚くべき速さで拡散した。

「駅のドアの電気ショック、肩こりに効くらしい」

 最初は、都市伝説のようなものだった。しかし、SNSで「#ビリビリ健康法」「#駅ナカマッサージ」といったハッシュタグと共に、実際に試した人々の体験談が投稿され始めると、噂は一気に信憑性を帯びていった。

『マジだった。腰に当てたら、長年の腰痛が和らいだ気がする』

『会社の帰りに毎日当ててる。整体に行く金が浮いた』

『強さがちょうどいいんだよね。弱すぎず、強すぎず』

 まとめサイトが特集記事を組み、一部のゴシップ系週刊誌までもが「専門家」のコメント付きで、「ホームドアの電流が、筋肉の緊張をほぐす効果を持つ可能性は否定できない」などと、無責任に煽った。

 そして、駅のホームは、異様な光景に包まれ始めた。

 夕方のラッシュアワー。電車が到着し、乗客が降りてくる。しかし、ホームに残った人々は、次の電車に乗ろうとしない。彼ら、彼女らは、おもむろにホームドアの前に並び始めるのだ。

 ドアが閉まり始める。そのタイミングを見計らって、人々は一斉に、ドアに体を押し付けた。背中を当てる者、肩を当てる者、腰を当てる者。ドアが体に触れるたびに、「あうっ」「んんっ」という、苦痛とも快感ともつかない声が、ホームのあちこちから漏れる。

 それは、もはや駆け込み乗車対策の現場ではなかった。巨大な、無料の公共低周波治療器の前にできた、長蛇の列だった。

 田中が、部下からの報告を受けて現場に駆けつけた時、彼は自らの目を疑った。スーツ姿のサラリーマンたちが、ネクタイを緩め、恍惚の表情でドアに背中をこすりつけている。OLたちは、友人同士で「もうちょっと右!」「あー、そこそこ!」などと声を掛け合いながら、最適なポジションを探っている。

 駆け込み乗車は、確かにゼロのままだ。しかし、今や、ドアの前が「治療」を求める人々で塞がれ、本来の乗客がスムーズに乗り降りできないという、新たな問題が発生していた。駅員が「ドアから離れてください!」と叫んでも、誰も聞こうとしない。むしろ、「順番を守れ!」という客同士の怒号が飛び交っている始末だった。

「……どうして、こうなるんだ……」

 田中の足元が、崩れていくような感覚に襲われた。彼は、人々の行動を「制御」しようとした。しかし、人々は、その制御すらも自分たちの都合の良いように解釈し、まったく別の目的のために「利用」し始めたのだ。

 プロジェクトルームに戻った田中は、誰とも口を利かず、ただ一点を見つめていた。画面には、駅のホームで、人々が気持ちよさそうに電気ショックを受けているライブ映像が、延々と流れている。

「彼らは……私のシステムを、愚弄している……」

 彼の唇から、呪詛のような言葉が漏れた。

「痛みがないから、つけあがるんだ。不快なだけだから、利用しようとするんだ」

 彼はゆっくりと立ち上がると、ホワイトボードに向かった。そして、震える手で、新しいシステムの構想を書きなぐり始めた。

「ならば、本当の痛みを与えてやる。利用など、絶対にできない、純粋な、拒絶の痛みを」

 その目に宿っていたのは、もはや正義感でも、執念でもなかった。それは、裏切られた創造主が、自らの被造物に向けるような、底なしの憎悪と狂気の色だった。

 

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