憑代(よりしろ)〜その水溜まりを覗くな。運命が、君の手を掴んで離さない〜
兒嶌柳大郎
第1話 水溜りの手
アスファルトに叩きつけられた雨粒の匂いが、まだ生々しく空気に溶けている。
田中聡美は、湿り気を帯びた夜風にうんざりしながら、アパートへと続く最後の角を曲がった。
今日の残業は特に堪えた。
蛍光灯の光に灼かれ続けた網膜が、今は非常灯の赤い光さえ眩しく感じる。
早く帰って、何も考えずに眠ってしまいたい。
その一心で、重い足を引きずっていた。
夕立は一時間ほど前に止んだはずだったが、まるで街ごと水に浸されたかのように、至る所に水溜りができていた。
それは夜の闇を映し込む、黒い鏡のようだった。
聡美はハイヒールが濡れるのを避けながら、水溜りを一つ、また一つと跨いでいく。
アパートの入り口を示す、錆びついた街灯の明かりが見えてきた。
あと少し。
そう思った時、聡美の足がぴたりと止まった。
最後の水溜り。
アパートの入り口の、ちょうど真ん前にできた一番大きな水溜り。
その中心から、何かが突き出ていた。
白く、細長い何か。
聡美は目を凝らした。
街灯の頼りない光が水面を揺らめかせ、その物体の輪郭を曖昧にしている。
ゴミだろうか。
誰かが落とした手袋か何か。
そう自分に言い聞かせたが、動悸が速くなるのを止められない。
本能が警鐘を鳴らしていた。
見てはいけない、関わってはいけない、と。
しかし、好奇心という魔物が、聡美の足を一歩前へと踏み出させた。
水溜りの縁に立ち、身を乗り出すようにして覗き込む。
水面に映る自分の顔が恐怖に歪んでいた。そして、はっきりと見えた。
それは、人の手だった。
手首から先が、水面から垂直に突き出ている。
血の気のない、病的なまでに青白い肌。
細くしなやかな指は、何かを掴もうとするかのように、虚空に向けてわずかに開かれている。
聡美は息を呑んだ。
声にならない悲鳴が喉の奥で詰まる。
警察に、いや、その前にこれは本物なのか。
幻覚じゃないのか。
混乱する頭で思考を巡らせた、その瞬間だった。
ピクリ、と。
その白い指が、微かに動いた。
聡美の全身から急速に血の気が引いていく。
動いた。
今、確かに。
すると、その手はまるで水底から何かを引き上げるように、ゆっくりと、しかし力強く上へと伸び始めた。
水面が大きく波紋を広げ、ごぽり、と気泡が弾ける音が響く。
手首が、肘が、そして肩が、水の中からぬるりと姿を現した。
それは、全身が真っ白なワンピースに包まれた、女の姿だった。
手足は死人のように青白い。
だが、顔があるべき場所は、まるで墨を塗りたくったかのように、ただただ黒く塗り潰されていて、目も鼻も口も判別できない。
その黒い虚無が、ゆっくりと聡美の方を向いた。
「ひっ……!」
逃げなければ。
聡美の脳が、ようやくその命令を下した。
だが、足は鉛のように重く、地面に縫い付けられたように動かない。
亡霊は、水溜りから完全に這い上がると、濡れたアスファルトを軋ませながら、一歩、また一歩と聡美に近づいてくる。
その黒い顔から、憎悪と怨嗟が灼けつくような波動となって伝わってきた。
そして、亡霊の青白い手が、聡美の腕に触れた。
瞬間、聡美の世界は灼熱の炎に包まれた。
全身を焼かれる激痛。
肉が焼け、骨が軋む音。
助けを求める自分の絶叫。
目の前には、黒焦げになって崩れ落ちていく、紛れもない自分自身の姿があった。
「あ……ああああああああああああああああああ!」
短い絶叫が、深夜の住宅街に虚しく響いた。
翌朝、アパートの入り口で発見された田中聡美の死因は、急性心不全と診断された。
その顔には、この世の物とは思えないほどの、極度の恐怖が貼り付いていたという。
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