第二部 『主の資格』

第31話 獣の解剖学

 カイが医務室で目覚めてから、一週間が過ぎた。

 リアの的確な治療のおかげで、彼の身体の傷は驚くべき速さで回復していた。そして、その間に、工房の空気もまた、静かに、だが確実に変化していた。


 リアはもう、カイを「犬」や「ガキ」とは呼ばなかった。

 二人の間に交わされる言葉は、依然として必要最低限。だが、その内容は、一方的な命令ではなく、確認や報告に変わっていた。

 朝、リアは黙って栄養バーを二本、作業台に置く。カイはそれを黙って受け取り、仕事に取り掛かる。

 工房の中央には、巨大なクレードルに固定されたレクス7が横たわり、無数のケーブルとスキャナーに繋がれていた。まるで、集中治療室の患者のように。


「始めるぞ、カイ」


 ある朝、リアが唐突に告げた。その声には、新たな地獄へ挑む前の、静かな興奮が宿っていた。


「レクス7の再生を開始する。だが、これは修理じゃない。……解剖だ。ドローンでのスキャンは、いわばレントゲン撮影にすぎん。これからやるのは、実際にメスを入れ、この化け物が一体何でできているのか、骨の髄まで洗い出す、本当の解剖作業だ」


 最初に取り掛かったのは、レクス7の胸部、最も損傷の激しい装甲版の取り外しだった。

 リアの指示は、これまでのどんな命令よりも、遥かに精密で、厳格だった。


「そこの第7装甲版を剥がせ。ボルトじゃない、内側の電磁ロックを先に解除しろ。……そうだ、そこだ。……慎重にやれ。ケーブル一本でも傷つけたら、お前をこの機体の新しい部品にする」


 カイは、スカベンジャーとして培った、機械を傷つけずに分解する技術を、最大限に発揮した。リアの脳内にある完璧な設計図を、カイの手が寸分違わず再現していく。

 リアが指示を出し、カイが実行する。ただそれだけの行為が、まるで熟練の外科医とその第一助手の手術のように、研ぎ澄まされていく。

 それは、歪で、どこか息苦しい、しかし完璧な共同作業だった。


 数時間後、巨大な装甲版が、ようやく取り外された。

 そして、その下に現れた光景に、カイは息を呑んだ。

 そこにあったのは、無機質な配線ではなかった。銀色のケーブルが、まるで生き物の血管や神経のように、有機的な曲線を描いて複雑に絡み合っている。ところどころに見えるフレームの傷は、まるで皮膚がかさぶたを作るように、微細な金属粒子で自己修復を始めていた。


「すごいな、これ……」


 カイの感嘆の声に、リアは顔をしかめた。


「すごい、だと? 何も知らないというのは、幸せなことだ」


 リアの赤い髪が、作業灯の光を浴びて、不吉に揺れる。


「あたしが上層区うえにいた頃、こういう研究をやってる連中がいた。パイロット強化の名目で、人間の精神と機械のコアを直接繋ぐ、禁忌の研究だ。……あたしが見た限り、ほとんどの被検体は、発狂するか、廃人になった」

 彼女の目には、過去の忌まわしい記憶を映したような、暗い光が宿っていた。


 カイの動きが、ぴたりと止まった。

 彼はリアから視線を外さずに、静かに、だが鋭く問い質した。


「……あんた、前にオークションの時も言ってたな。上層区にいた、って。一体、何者なんだ?」


 カイにとって、それは当然の疑問だった。目の前の女は、自分が憎むべき上層区の人間であり、しかも、今まさに自分が巻き込まれている陰謀と、同質の研究を知っている。

 リアはカイの猜疑心に満ちた視線を、鼻で笑って受け流した。


「あたしの過去を知ったところで、お前に何の得がある。それより、お前の未来に関わる話をしてやる」


 彼女は、レクス7の剥き出しになった内部を指差した。


「今までお前がこの機体を動かせたのは、この心臓が休眠状態で、機体の特殊機能が全てロックされた、『マニュアルモード』だったからだ。お前という鍵に反応して、最低限動くだけの、ただの鉄の塊だったのさ」


「だがな」とリアは続けた。


「あたしたちが手に入れた『変調器』と『合金』は、この心臓を完全に叩き起こし、全ての機能を解放するための部品だ。つまり、お前とこの機体の精神を、強制的に同調シンクロさせるためのな」


 リアは、工房の隅で埃をかぶっていた、旧式のシミュレーターポッドを指差した。


「そうなれば、お前の今の腕じゃ、機械に精神を喰われて廃人になるのがオチだ。だから、まずはお前の腕を、最低限、化け物に喰われないレベルまで引き上げる。シミュレーターに入れ。文句は聞かん」


 彼女は、カイの目をまっすぐに見据えた。


「これからお前がやるのは、ただの訓練じゃない。この鋼の獣に、お前が『主』だと教え込むための、最初の儀式だ」

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