第21話 代償と対価

 給水塔の偽装ハッチが閉まると、小型輸送機は一切の駆動音を響かせることなく、闇の中へと溶けるように上昇した。

 カイは、初めて見る下層区の夜景を、コックピットの窓から呆然と見下ろしていた。

 無数のネオンと、錆びついた鉄の構造物が、酸性雨のカーテンの向こうで、病んだ宝石のように瞬いている。


 美しいとは、思わなかった。

 ただ、あまりにも巨大で、精巧に作られた『檻』だと思った。

 あの光の一つ一つの中に、自分と同じ、名もなき命が息づいている。奪い、奪われ、誰にも知られずに消えていく。その無数の魂を閉じ込めて、頭上を塞ぐ上層区の底が、鈍い金属光を放っていた。


 眼下では、セクターJの各所でエクスチェンジの警備部隊が検問を始めているのが見えた。

 静かなフライト。だが、その沈黙は嵐の前の静けさだった。

 カイは隣で無言のまま機体を操縦するリアを見やり、そして眼下の混沌へと視線を戻し、呟いた。


「……なんとか、うまく逃げ切れたな」


 その言葉を聞いたリアは、鼻で笑った。


「逃げ切れた? おめでたいガキだな」


「……狙われるのは分かってる。だが、敵はオークションで競り負けた赤蛇会と、あの仮面のディーラーのはずだ。下層区全体を敵に回したわけじゃない」


 カイの分析を、リアは心底くだらないとでも言うように一蹴した。


「だから、ガキなんだよ。お前はまだこの街の本当のルールを分かってない。……いいか? 下層区で最も速く、そして確実に広まる病気が何か知ってるか? ……儲け話の噂だよ。あたしたちはオークションに勝ったんじゃない。下層区全体を巻き込んだ、巨大な宝探しゲームのお宝になったんだ」


 リアの言葉に、カイは背筋が凍るのを感じた。


 やがて、機体は溶接ウェルディング横丁・アレイの工房の、屋上に隠されたドックへと静かに着陸した。

 ハッチが開き、工房の慣れ親しんだオイルの匂いが流れ込んでくる。その匂いが、カイにここが自分の「檻」であることを思い出させた。


 リアは機体のシステムをシャットダウンすると、ゆっくりとシートから立ち上がり、カイの前に立ちはだかった。


「お前が招いた厄介事の対価は、これからお前の体で払わせる」


 リアはカイから「量子カスケード変調器」のケースを受け取ると、作業台の上に慎重に置いた。

 そして、工房のメインモニターに、膨大なリストを表示させる。それは、無数の機械パーツや、希少な素材の名前で埋め尽くされていた。


「この変調器は、あくまで心臓を動かすための鍵だ。今のレクス7は、その心臓を移植するには脆弱すぎる。フレームの補強、動力パイプの全交換、冷却システムの再構築……やることは山積みだ」


 リアはリストの一番上にあった、『共振性チタン合金』という項目を指し示した。


「手始めに、お前の次の仕事だ。この合金を、セクターCの廃棄物処理場から探し出してこい。もちろん、タダで落ちてるような代物じゃない。幸運を祈るよ、犬」


 下層区中のハイエナに狙われるという、あまりにも大きな代償。

 そして目の前には、リアに支払うべき果てしない労働という対価を示す、天文学的な量の買い物リスト。

 カイは、オークションでの一瞬の勝利がもたらした本当の帰結を、静かに受け入れるしかなかった。

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