第17話 セクターJの掟

「セクターJのブラックマーケット・オークションだ。お前に、これを競り落としてきてもらう」


 リアの言葉に、カイは一瞬、何を言われたのか理解できなかった。


「……オークション? 競り落とすって、何で。金なんて、あるわけないだろ」

「金で価値を測るような素人は、あの場所には入れんよ」


 リアは平然と答えると、工房の奥にある、巨大な耐爆仕様の金庫を開いた。

 その中にあったのは、現金や貴金属ではない。手のひらサイズのケースに収められた、三つの青白く輝くチップだった。


「超高純度のデータクリスタルだ。あたしが昔、上層区うえから持ち出した、最後の資産だよ。これ一つで、下層区のギャング一個分隊の装備が一年は賄える。これをお前の軍資金としてくれてやる」


 リアはカイに、偽造された身分証と、耳に埋め込むタイプの超小型通信機を渡した。


「いいか、ガキ。セクターJは、下層区のどの区画とも違う。そこは取引だけが支配する中立地帯で、巨大シンジケート『エクスチェンジ』が全てを仕切ってる。オークション会場内での私闘はご法度だ。破れば、死ぬ」


 リアは、まるで戦場へ送り出す兵士にブリーフィングをするように、淡々と注意点を叩き込んでいく。


「お前の身分は、あたしという謎の依頼人に雇われた運び屋だ。余計なことは喋るな。目立つな。そして、何があっても、あのユニットだけは手に入れろ。……失敗は許さん」


. . .


 カイは、リアから渡された、少しだけ上等な黒いジャケットを羽織り、一人セクターJへと向かった。

 そこは、カイが知る下層区のどの場所とも異なっていた。錆と汚水と暴力が支配する他の区画とは違い、セクターJは歪な秩序と活気に満ちていた。

 色とりどりのネオンサインが、降りしきる酸性雨を照らし、武装したエクスチェンジの警備兵が、あらゆる通りの角に立っている。ここでは、力がなくても資産さえあれば、誰でも一夜の安全と取引の権利が買えた。


 オークション会場は、古い時代のオペラハウスを改装した、けばけばしい建物だった。

 カイはリアが用意した身分証を提示し、厳重なセキュリティチェックを抜けて、会場内へと足を踏み入れる。

 そこは、下層区の裏社会の縮図だった。悪名高いギャングのボス、上層区から潜入しているであろう企業の諜報員、情報屋、武器商人。誰もが素性を隠し、値踏みするように互いを観察している。カイのような、ただのガキは一人もいなかった。


 カイは目立たないように後方の席に座り、耳の通信機に意識を集中させる。


『……聞こえるか、犬』


 リアの声だった。


『会場の主要人物のデータを送る。頭に叩き込め。特に注意すべきは、三時の方向にいる「赤蛇会せきじゃかい」のボスと、最前列に座る、所属不明の仮面のディーラーだ』


 リアの的確な情報が、カイの孤独な緊張をわずかに和らげる。

 やがて、会場の照明が落ち、スポットライトを浴びて、一人の派手な衣装のオークショニアがステージに現れた。


「紳士淑女の皆様、今宵も『エクスチェンジ』へようこそ!」


 いくつかの美術品や情報データが競り落とされていく。カイは、ただ息を殺して、その時を待った。

 そして、ついにその瞬間が訪れる。


「さて、皆様。今宵の目玉商品でございます!」


 厳重なシールドケースに収められた、あのパーツがステージに運び込まれた。


「上層区の軍事輸送ルートから、極秘裏に入荷した最新鋭の逸品! ――『量子カスケード変調器』! さあ、皆様、夢のお値段を、お聞かせください!」


 カイの眉がわずかに動く。リアが言っていた名前と違う。だが、その思考を読み取ったかのように、耳元の通信機からリアの冷たい声が響いた。


『当たり前だ、犬。「量子演算ユニット」なんてのは、お前みたいなガキにも分かるように言っただけの通称だ。あれが本物だ。集中しろ』


 会場のボルテージが一気に跳ね上がる。

 カイは、リアの言葉に内心で舌打ちしながら、ステージ上の「本物」へと意識を戻し、リアから託されたデータクリスタルの感触をポケットの中で確かめながら、静かに、その戦いの始まりを見据えていた。

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