拝啓、僕たちへ

阿閇 みのる

第1話


 梅雨真っ盛りのその日は、雲ひとつない晴天だった。

 人生を揺るがすほどの大きな出来事に直面した時、人はドラマのように咽び泣くことは出来ない。パニックに陥ることすら出来ない。ただ現実を受け止めきれずぼんやりとした感覚に包まれる。

 今朝のことや昨日のこと――その「出来事」の前にたしかに存在した世界を何度も思い出す。それが、今この時と本当に地続きなのか。どこまでが現実でどこからが夢なのか。そんな問いばかりが、頭の中をぐるぐると回り続けるものだ。

 第一報が着信として入った時、僕はまだ布団の中にいた。スマートフォンは枕元に置いていたけれど、消音モードにしていたので着信には全く気が付かず、ベッドに寝そべって呑気に土曜日の昼のバラエティを見ていた。特段面白いわけではなかったけれど、関西で知らない人はいないベテランの女芸人が、大口を開けて笑っているのをなんとなく眺め、今夜は何を食べようかとこれまた呑気に考えていたのだ。

 その後、しばらくして再び着信があった。その時もまだ、冷房の効いた部屋でベッドの心地良さに身を委ねていたけれど、スマートフォンで調べ物をしている途中、身に覚えのない番号が画面上部に表示されたので、左肘をついてゆっくりと体を起こした。馴れた手つきで画面に表示された数字を長押しして番号をコピーし、ブラウザの検索ボックスに貼り付ける。こういう時、僕は必ず一度番号をインターネットで検索する癖があった。そして大抵検索結果は、詐欺やインフラ周りの乗り換えの勧誘でガックリするのがオチだけれど、いつも心のどこかで"面白い所"からの電話を期待しているのだ。

 ところが、虫眼鏡のマークを押して出てきたのは、想像だにしない発信元だった。


 ――堺の医療センター?


 ブラウザのトップに出てくる検索結果も、その次も、その次も、その番号が医療センターからの電話番号であることを訴えていた。念の為公式サイトに入り、下へとスクロールしフッターの電話番号を確認する。まさに今画面上部に表示されている電話番号と一致していた。七コール、八コールと積み重なるのと並行して、得体の知れない不安感が腹の奥からぐるぐると湧き上がってくるのを感じた。

 心当たりなどあるはずもない。それでもその番号を見つめ、恐る恐る赤色の応答ボタンを押した。

  「もしもし、堺市中央医療センター救急外来の丸山と申します。」

 落ち着いた女性の声だった。

 「加藤さんのお電話で間違いないでしょうか?ヨシタカさん、ミチエさん、マコさんはご家族にいらっしゃいますか?」

 義孝、道枝、真子――一人一人の名前を頭の中で復唱し、はい、おりますが、と返事をする。間違いなく僕の家族だ。電話の向こうからかすかに滲む緊張の色で、良い報せでないことは直感した。返事した声はかすれていた。

 「ありがとうございます、ご家族の方ですね・・・一時間ほど前に大阪府堺市〇〇交差点で車同士の事故に遭われました。皆様意識のない状態で救急搬送されています。急ぎお越しいただけますでしょうか」


 時が止まり、音が遠のいた。

 事故?家族みんなが?


 丸山と名乗る女性は淡々と話し続けたけれど、その後の内容はほとんど頭に入ってこなかった。頭の奥で、鈍い鐘のような音が鳴り続ける。

 電話越しの声は、しばらく話続けたあと、「聞こえていますか、もう一度お伝えします、堺市中央医療センターです」と、ゆっくりと、はっきり繰り返した。堺市中央医療センターですね、とだけ声を振り絞って電話を切った。

 体が焦りでじわりと熱くなるのを感じる。何が起きているのか、理解が追いつかない。まるで漫画の一コマのように、電話は手からするりとすべり落ち、フローリングの上で鈍い音を立てた。テレビから聞こえる笑い声も、窓の外の天気の良さも、雀の鳴き声も――何一つ、いつもと何も変わらないのに。


 慌ててベッドから起き上がり、昨日バイトに持っていったショルダーバッグを拾い上げて、混乱した頭で財布が入っていることだけはしっかりと確認する。まだパジャマのままだったので、クローゼットの中のショーケースから適当に服を取り出して着替える。いつも通り姿見で服装のチェックをしてしまう自分に少しの違和感を覚えたけれど、その違和感は先程の電話と繋がり、さらに得体の知れない恐怖へと変わっていく。胸元から込み上げる吐き気と玄関先で鍵を手にした自分の手の震えが、これは夢ではないと明示していた。それでもまだ疑うことを辞められなかった。

 玄関を飛び出し急いで最寄り駅へ向かう。走りながら頭の中では最後に父や母、妹と話した日を必死に思い起こそうとしていた。何を話したのだろう。思い出せない。思い出せないのだ。

 

 人生の分岐点は、突然やってくるものだ。後悔などする間もないまま。

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