第7話「文化祭の手ざわり」

 四時間目が終わると、そのまま教室が会議室になった。


 黒板の端にチョークで「文化祭・係決め」。担任は「三十分で片づけろよ」と言い残して職員室へ。残された俺たちは、勝手知ったる手順で机を寄せる。


「看板係と接客、どっちがいい?」


 クラス委員がホワイトボードを叩くたび、机の間を小さな笑いが転がっていく。


「阿礼は接客でしょ」「クロウリー(笑)出しとけば客来るよ」


「俺は置物じゃない。人間だ」


 笑いがさっと広がって、すぐに収まる。いつもの温度。


 右斜め後ろで椅子が軽く軋んだ。


「……僕は看板を運ぶ」


 力が手を挙げる。真面目な顔。


「接客は?」


「口角に持久力がない」


「知ってた」


「それと、混雑時に"事故"の確率が上がる」


「その統計、誰も聞きたくない」


 配布物の束が回ってくる。最後のページに赤字が並ぶ——『火気の使用は禁止』『模造武器は事前申請』『避難ルートを確認』。その下に小さく一行だけ、『ノクシラ対処機構(NRA)基準により経路一部変更』。


 どこにでもある注意の列の中で、その一行だけが紙の白からわずかに浮いて見えた。


「注意事項、目を通しておいてください」


 前の列で、九重櫻子が淡々と声を出す。シュシュで束ねた黒髪が肩の下で揺れ、トレイの上でプリントが音もなく整列していく。


 彼女は俺の机の前でふと止まり、視線を足首に落とした。包帯の下で皮膚が少し痒い。


「歩き方、庇ってる。帰りに巻き直そうか」


「頼める?」


「保健室、空けておく」


 ただそれだけ。


 けれど、胸の奥で硬くなっていた空気が少しほどけた。四つで吸って、八で吐く。あの人に教わった呼吸は、今日もちゃんと効く。


「物資調達は男子な」「会計は女子」


 クラス委員の声が段取りを進め、黒板の隅に配置図が描かれていく。


 力が肩越しにのぞき込み、「看板の木材は明日、購買の裏で確認する」と言った。


「字は任せろ」


「君の字は呪符みたいだ」


「味わい深い、って言って?」


「読める味にしてくれ」


 窓の外で雲がほどけ、光が教室に差し込む。チョークの粉が細かく浮いて、すぐ沈む。


 日常の粒の大きさは、だいたいこんなものだ。掬えば指の間から零れるのに、机の表面にはしっかり積もる。


 櫻子が再び列を回って、小さな封筒を配り始めた。費用の仮立て用。


「忘れると当日、泣く」


「了解」


 隣で力も「了解」と同時に言って、櫻子は少しだけ目を丸くした。すぐに表情が戻る。


 その微かな波だけで、一日の端がきちんと立つ。そういう日もある。


 配布と回収が一巡して、人心地がついたところで一人分の静けさが欲しくなり、俺は廊下へ出た。


 掲示板の前。避難経路の図面に赤い矢印が増えて、画鋲が一本だけ斜めに刺さっている。隣に、モノクロのニュース記事のコピーがホチキスで留められていた。


『異能局、地域連携を強化——高校と避難訓練の共同実施を検討』


 写真の男たちは誰かに向かって笑っている。歯の白さが紙の粗さで曇って、笑顔は少しだけ遠く見えた。


 記事は曲がっていた。誰も直さない。直しても、また曲がる。


 視線がその一行で止まり、耳の奥に薄いノイズの記憶がざらりと触れる。反射で、四つ吸って、八で吐く。


「……大丈夫?」


 振り向くと、櫻子がトレイを胸に抱えて立っていた。


「平気。ちょっと、紙が曲がってるのが気になっただけ」


「そういうの、直したくなるよね」


 彼女は画鋲を一度抜いて、角を合わせ、音も立てずに留め直した。


 まっすぐになった記事は、やっぱり紙切れでしかなかった。けれど、まっすぐであることは、なぜだか少しだけ心地よかった。


 教室へ戻ると、黒板の配置図がもう少し整っていた。


 出口に太い赤線。非常時は体育館経由で正門外へ——そんな矢印が、自然に受け入れられていくのを感じる。受け入れるというより、見慣れてしまうのかもしれない。


 そのまま放課後まで。係は決まり、責任者も決まり、机の間をスリッパの音がまばらに往復する。


 窓の桟に肘を置けば、防災柵が光を拾って、波の表面みたいに細かくきらめいた。七年前から続く景色。いちども同じ形をしていない光。


 日は落ち、夜が来て、また朝が来る。


---


 翌日の体育館は、ワックスの匂いが濃かった。


 ステージに教頭と英語科の教師。留学生の紹介は、名前と一礼と拍手の繰り返しで進んでいく。好奇心と退屈の混ざったざわめき。床の木目が遠くまでまっすぐ続き、視線も同じように前へ流れる。


 最後に、光を強くはね返す髪が入ってきた。


 プラチナブロンド。ハーフアップ。背は小さいのに、歩幅は乱れない。


 壇上の中央で一礼すると、顔を上げる動作がまるで音楽の拍に合わせたみたいに滑らかだった。


「シャーロット・アシュクロフトです。文化を学びに来ました。よろしくお願いします」


 日本語は明瞭で、抑揚が少ない。


 声が広い空間に清潔に散って、拍手が遅れて追いかける。


 誰かが「綺麗」と小さく息を漏らす。俺は手を叩きながら、胸の奥で別の音を聞いていた。


 路地の白い光。符の淡い輪。女の声。——吸って、吐いて。


 体育館の出口では保健委員が列を捌いていた。


「走らないでください。段差に注意」


 櫻子の声は一定で、浮かない。俺の前を通り過ぎるとき、視線が足元に落ち、すぐに戻ってくる。


「放課後、来て」


「うん」


 列に押されて外へ出る。


 蒸した夏の残り香が、まだ校庭の端に溜まっていた。


 振り返れば、体育館のガラス戸に天井の灯りが帯になって映り、誰かの肩にかかっては途切れる。


 名札の文字、貼り直した掲示の紙、黒板の矢印。どれも昨日と同じ形をしているのに、今日の光の下ではほんの少しだけ別の顔をする。


 教室へ戻る途中、渡り廊下の先でプラチナの髪が揺れた。


 シャーロットは教師と並んで歩いている。目が合ったかどうか、自分でも分からない。


 ただ、胸の中の空気が一度だけ入れ替わった。昼下がりの教室に、海から風が迷い込んだみたいに。


 席に着く。窓の外、防災柵が昼の光を受けて、また別の波を作っていた。


 日常は、今日もここにある。呼べば来る。


 それでも、紙に小さく足された一行や、壇上で発された短い挨拶みたいなものが、ゆっくりと形を変えていくのだと思う。


 俺たちの呼吸の数と同じ速さで。

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