第38話 サービスマニュアル

 ビーノに乗った小熊は夕暮れの幹線道路を都心まで走り、江東区の東雲に向かった。

 ベイサイドにある大型バイク用品店の駐輪場でビーノを駐め、周囲に駐められたバイクを見回す。

 カブに乗っている時はバイク用品店やショッピングモール、道の駅などの売り物の商品ではない実際に一般ユーザーに乗られているバイクが多く集まる場所に行くと、決まって他のカブを数台見かけ。小熊のようにほぼ無改造のカブに乗っていると、自分のバイクと他人のバイクを取り違えそうになる。

 実際に間違えて跨ってしまう事はほぼ無い。車種と色は同じでも、バイクについた傷は自分のバイクだけのもので、他のモビリティと違って自分のバイク固有の傷は持ち主の記憶に残りやすい。

 事故入院していた頃に同室だった清里のシスター、桜井は生涯唯一の愛車だと称しているNSRに出会う前は、ビューエルという輸入大型バイクに乗っていて、こういうバイクが集まる場所で自分のバイクと同じ車種に出会う事はほぼ無かったらしいが、それで不便を感じたかといえばその逆で、教会勤めの稼ぎをつぎ込んで良かったという優越感と幸福を感じていたらしい。バイクの好きな人間はやっぱり頭がおかしい。

 このバイク駐輪場にも数台のカブが見られたが、同じくビーノもあちこちで見かける。二十五年以上外見が変わらないまま製造、販売されているこのビーノというバイクも、カブに似ているところがあるのかもしれないと思いながら、小熊は借り物のビーノにしっかり盗難ロックをかけて店内に入った。


 都内最大と言われるバイク用品店の店内は広かった。

 店内には所狭しとにバイク用品が並べられているが、目で幸せを感じる以上に居心地の良さを感じるのは、店内に居る客や店員が皆バイクに乗っているという事実。

 平日の夜ということもあってスーツ姿の勤め人が多いが、皆家族や職場の同僚には見せられないような熱心さでパーツやグッズを見ていたり、ライディングギアを触りながら仕事から解放されてバイクに乗り、思いのまま自由に走る幸福な週末に思いを馳せている。  

 小熊もあちこちで誘惑に負けて足を止めそうになるが、意志の力で振り切って店の奥に向かう。

 メーカーの新作ウェアが展示されている辺りより客も店の雰囲気も落ち着いた一角に、書籍が詰まった棚があった。

 小熊はバイク雑誌や写真集、洋書の詰まった棚を端から探し、お目当ての本を引き抜いた。

 サービスマニュアル。

 メーカーが自社で販売している個々の車両ごとに販売している整備解説書で、車体各部の分解と組み立ての手順、ボルトの締結トルクが載っている。

 車種ごとに構造の異なるバイクを整備する時には欠かせない資料。自分が取り扱う車種の特徴を熟知し、締め付けのトルクもボルトの径と素材を見れば大体わかるプロの整備士はあまり見ないらしいが、小熊のようなアマチュアがバイクをいじる時にサービスマニュアル手元に無いというのは、地図も無く知らない街を歩くようなもの。

 ペーパレスのご時世に紙の書籍は小熊には時代遅れにも見えたが、整備しながら見るには紙の本のほうが手っ取り早い。

 小熊はパーツリストも手に取った。サービスマニュアル同様各車種ごとにメーカーが供給している部品の名称と単価が載っている書籍で、パ―ツ注文する時などはこれがないとどうにもならないし、分解図などはサービスマニュアルよりわかりやすく各部品の構造を図示されていたりする。

 サービスマニュアルとパーツリスト。整備には欠かせない物ながら二冊合わせるとそれなりの金額になったが、それらが自由に手に入れられるだけ恵まれていると小熊は聞いた事がある。

 昭和時代の旧い車種を維持したりしていると、マニュアルやパーツリストがメーカーに保管されているマイクロフィルムなるアナログ時代の書類保存メディアしか無く、必要な箇所をその都度金を払って閲覧、印刷しなくてはいけないらしい。


 二冊の書籍を手に取った小熊はレジに向かった。途中で幾つかの部品と自宅ガレージの消耗品も手に取り、レジでスマホ決済をする。

 袋に詰まった商品と共に結構な金額が表示されたレシートを受け取り店を出た小熊は、自分は一体何をしているんだろうかと少し思った。

 自分のバイクでもない、友達ですらない相手への一方的な出費。拓は小熊に金を出させる事を嫌うだろうが、小熊も自分の手間賃を含めて拓から金を取ろうとは思っていない。

 一つ確かなのは、拓はとても沈着で理性的な人間で、小熊はそういう人間に好感を持ち、敬意を抱いているということ。

 拓は常に理を基準に動き、他人も理で動かせると思っているが、世に生きる大多数の人間は理で動かず、理で動かされる事を拒絶する。

 弱く劣等な自分が身を寄せられるような年功や地位、慣習や宗教じみた思想のような助けを皆が求めていて、それを剥がされると泣き叫んで自分の手に入れた物を守ろうとする。

 人の世というのは知能と理性を持った生命体が作った社会だが、知恵を持った者の集合体としては未熟で不条理すぎる。

 だからこそ、拓のような人間が傷けられるような事は。看過できないと思った。

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