第13話 家出

 春目の友達が発した言葉は、小熊にとって聞き慣れない物だった。

 家出とは文字通り家を出て、家族による庇護から脱する行為。

 物心ついた頃にはもう父親の居なかった小熊には、一応自宅という物があったが、十代前半まで共に暮らしていた母親は親権者としてはまことに不適格で、小熊はろくな養育を受けたことが無かった。

 小学校の頃から自分で出来る事は自分でしてきた気がする。虐待や加害のような事をされていれば自分自身を守るため家を出ようという気持ちにもなるが、母親としてすべき事を時々の気まぐれでしか行わない人間と一緒に住んでいると、出て行く気力すらなくなる。

 それから小熊が十六歳になったある日、母親は母親としての適性に欠けた女らしく失踪宣言を残して姿を消した。

 今となってはそのほうがいいと小熊は思っている。あのままの暮らしを続けていればいずれ自分も無気力になり、生きていくために必要な物だけ口にして生きる植物のような母子になっていたかもしれない。

 そして最近になって少しだけ思い始めたのは、あの母親のような女は母親や扶養主のような不自由な枷の中で生きるより、そうでないほうが面白いのかもしれないという事。

 ある意味母親の行為が、家出という物だったんだろう。きっとあの常に一児の母には到底相応しくない恰好をしていた女も、どこかで好き勝手に生きているんではないかと小熊は思っていた。


 小熊の周りにも、一般的な家出という言葉に馴染んだ人間は居なかったように思う、高校時代の同級生だった礼子は、人生そのものが家出のようなバックパッカーを父母に持ち、今は日本からの家出とも言えるような海外放浪中で、同じく同級生の椎は、たまに家出して小熊や礼子の部屋に転がりこんで来ることはあったが、大概数時間もすると家に帰る。あまり家を長く開けて庭に組んだピッツァ釜を親に勝手に使われたり、サッカーの試合の上から重ね録りされると困るらしい。 

 大学に入ってから友達になった吉村南海は、両親との関係は円満だが唯一の趣味である夜間徘徊が親に禁じられた時は、家出してしばらく小熊の家に泊めて貰う事も考えていたという。

 後になってそれを聞いた小熊は慌てて「今からでも遅くないから家出しないか!?」と誘ったが、「今は色々忙しいですから」とやんわり断られた。

 この夏からサークル部員として本郷の大学に出入りし、民俗学関係の院生や教授とも積極的に交流するようになった南海が、もしも「家出するから誰か泊めてください」とひとこと言えば、小熊を筆頭にすぐに何人もの人間が手を挙げるだろう。南海の大学入学を期待し、それだけに国内外の他大学に取られる事を危惧する人間は結構多いらしい。

 

 そこまで考えて、小熊は目の前の女を見た。 

 竹千代は小熊が聞きたくも無いのに聞いてしまった話によれば、中京の旧家を自らの意志で出奔し、以後は親権者からの支援や保証を全く受けていないという。正直彼女は特殊すぎてあまり参考にならない。

 今も彼女は春目の友達が家出を望んでいるという事態を、どうやって自分の利益に結び付けるか考えている顔をしている。


家出ランナウェイねぇ」

 突然真横から声がして小熊はびっくりした。

 ウェンディが模造ハーブの茂るプランターの上に顔を出し、器用に頬杖をつきながら呟く。

 意外と他人の耳を引きつけやすい囁き声より、低く呟くような声のほうが自然音に埋没して周囲の人間には聞こえにくい。

「わたしもアラバマに住んでた頃は小学校に行きたくなくて家出したこともあったわ。荷物をまとめて家を飛び出して森に入って、小屋を作ったり魚を釣ったりして過ごした。スマホにクーガー発見の警告メールが来て、銃も持ってないんで慌てて帰ったけど」

 小熊は思った、ウェンディの言う事はなんでも可愛い。

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