第9話 森の中
春目のカブをプレハブ倉庫内に保管した小熊は、大学キャンパス内に作られた人工の森を竹千代と並んで歩いた。
小熊は手に持っていたカブのキーを竹千代に返そうとしたが、竹千代は手を振る仕草で断る。
竹千代が春目から預かったであろうキーを自分が持つ理由は無い。小熊はキーホルダー代りに中古バイク屋や企業のロッカールーム管理人が分類のために付けるようなビニール製のタグが付いたキーを竹千代の口に突っ込もうとしたが、結局自分のデニムのポケットに押し込んだ。
もしも春目がカブに乗る急用が発生し竹千代の元にキーを返して貰いに来たとしてて、その時小熊が不在でも、竹千代ならば予備のキーは既に作り終えているだろうし、旧式のキーシリンダーを持つカブをキー無しで始動させるのもおそらく朝飯前。
それに、もしも春目が何かしらの面倒事を抱えていて、その解決をキーと共に押し付けようという腹積もりなら、逆に竹千代に任せるような事はせずに自分が引き受けたい。
竹千代が職も住処も無い春目の身元を引き受け、崩壊寸前のアパートに入居させ大学に行けるように手配した理由について、彼女は以前自分の成すべき大事のため、春目は不可欠な人間だからと言っていた。もし春目が何らかのトラブルを抱えていたら、竹千代はその解決のために動くだろう。ただしその過程で何人の人間が死に、どれだけの社会的な損失が発生しようと毛筋ほども気にしない。
自分がその犠牲の筆頭になってはたまらないし、何よりも自分自身が乗り、組み上げたカブが良好な状態で走るため、その最も高価なユニットである乗り手は五体満足であったほうがいい
残暑の季節に蝉が競うように鳴く森の中。腹が読めず意図もわからない相手との散歩をしていた小熊が、とりあえず春目について出来るだけ情報を集めようと思った矢先に竹千代が口を開いた。
「この森があるから、私はあの場所をセッケンの本拠にしようと思った」
小熊にはあまり説得力を感じられない言葉に思えた。あのプレハブ二階建てはほぼ詐欺のような形で窃取したと聞いているし、あまり大学当局や一般の学生に見られたくない金儲けを行うのに、同じような部屋が長屋のような並ぶ第一講堂裏手のサークル棟は不利で、おおそ普通の大学生という言葉の似合わないこの女との相性も悪いだろう。
竹千代は黒いバディックドレスを揺らし、小熊の思慮などおかまいなしに歩き続ける。
「私は森の中を歩くのが好きでね」
確かソクラテスも同じ事を言っていて、よく森を歩きながら弟子に教えを授けたらしい事は小熊も知っている。最近友達の南海が高校生ながら在籍することになった、本郷の国立大学にある深夜散歩愛好家集団ナイトピクニック・サークルも、部室にソクラテスのレリーフを掲げている。部員たちはソクラテスの事をプロレスラーか何かの名前だと思っていたらしいが。
竹千代は何の反応もしない小熊の耳の動きを見逃さなかったらしい。そのまま話し続ける。
「私は今住んでいるところは、森が無いのがいささか不満でね」
竹千代は何でもいいから情報を聞き出そうと思った小熊に、よりにもよって聞きたくも無い話を聞かせ始めた。
小熊がカブに乗るようになった春目について、それに関係があると思われる春目の友達について聞きたがっている事はもうお見通しなんだろう。おそらく竹千代は、小熊がその情報を与えても問題ない人間なのかを探っている。
この女はそういう事をする女だ。もしも小熊が春目の意志や行動の疎外になりうると判断したなら、躊躇なく小熊を森に埋めるだろう。確かにこの女は暗く静かな森を好みそうと小熊は思った。
竹千代だどこに住民票を置いているかなんて小熊には興味が無かった。この大学に住んでいるわけじゃないという事くらいしか知らない。竹千代と互いの部屋を訪問し合いお泊りなんて考えただけで怖気が走る。寝ている間に内臓を全部抜き取られるかもしれない。
しかしながら、いつも神出鬼没に姿を現す竹千代のリスポンスタイムを知っておくのは損にならないかもしれない。
何かあった時に竹千代が自宅に居る事が確認できれば、家から現場まで来る時間をだいたい読める。竹千代が来る前に姿をくらます時間の猶予だけでなく、逃げる方向まで決められる。
時間に追われる現場に出くわす事の多いバイク便業務の経験上、社会人にはそういう事態はがしばしば起きるという。
緊急事態が発生した時、上役が家から職場に来るまでの時間が事実上のタイムリミットになるという状況は案外多い。
入院生活で知り合った中村から聞いた話によると、テレビ番組制作に携わる人間、特に放送作家は一時間以内に放送局に行ける場所に自宅や別宅を構えるのが暗黙のルールらしい。
竹千代という個人には興味が無いが、その環境や自らの危険性に直結する住環境に興味を抱いた小熊は、うっかり口を滑らせた。
「あんたがどこに住んでいるのかをまだ聞いていなかった」
竹千代はかかるに決まってる罠にかかった小魚を見るような目で笑いながら言った。
「駅さ」
竹千代はそれ以上何も答えず、森を抜けて大学構内をダイナー学食に向けて歩いた。
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