第1話 蒸気機巧術と歯車機関、倫敦の家出人形 その1


 霧の街とはよく言ったものだろう。高みから見下ろす倫敦の都市は、ヴェールのような黒褐色の霧に薄っすらと包まれている。


 この怪しげな霧は、そのほとんどが石炭を焚いて出た煤だという話を、千早雅純ちはやまさずみは、昨年英国留学から帰ってきた兄に聞かされていた。蒸気機関による産業革命の都は、今や「蒸気機巧術の都市なのだ」とも。

 街のそこかしこで摩訶不思議なる自転する歯車が、馬車に代わる自動車やオートバイなどと言う乗り物や工場の機械を――機巧を、動かしている。もちろん飛行機械の発動機も、この蒸気機巧術の歯車すなわち蒸気歯車が、動かしている。

 飛行機械の鼻先でカタカタと軽快な音を立てる、歯車が収まる発動機の、外装にはいくつもの小さな穴が整然と穿たれている。そうした穴からは細くたなびく白煙が伸びて、黒褐色の霧を少しの間だけ掻き分けてから、意外なほどあっさりと煤けた大気に溶けていっていた。倫敦を覆う霧は煤でも、この白煙は水なのだそうだ。蒸気歯車は、歯車の中に蓄えられた膨大な水蒸気を糧に、ひたすらに回り続け、そうして霧状の水を吐き出すのだとか。


 操縦士が、唐突に声を張り上げた。


「ミスター・チハーヤ! あれが、セント・ポール大聖堂ですよ!」


 操縦桿を握っているため指を差すでもなく、顎で示すピーター氏の声音はどうにも誇らしげで、かの建物はロンドンっ子である彼の自慢なのだと分かる。けれども、生粋の日本男児たる千早には、眼下に広がる建物のどれもかれもが物珍しく、いったいどの石造りの建物が「セント・ポール何某」であるか、まるで見当も付かない。分からない。


 とはいえ日本からサウサンプトンまでの長かった船旅を終えたその足で、すぐさま飛行機械に乗り換えた自分を、ここまで安全かつ快適に連れて来てくれた彼に、世辞の一つも返せないでは失礼というか、申し訳なく思ってしまう。

 それに、なんと言っても千早は軍人家系だ。礼節と規律とを重んじる父は、泣く子も黙る大日本帝国軍人。千早自身は、今のところ軍人になるつもりはないのだが……まあ、兎にも角にも、これは一族の沽券にだって関わる問題でもあるというわけだ。


「美しくて、素晴らしい建物ですね!」


 感想と言うには我ながら安直に過ぎる。けれど、どうにか絞り出したそのひと言で、ピーター氏は心底満足したらしい。「そうだろう、そうだろう!」と快活な笑い声を聞かせてくれる。こういう時は、英語に慣れていないという己の情けないプロフィールも役に立つものだ。


 それから飛行機械は、しばらく轟々と風を掻き分けながら、四枚ある翼の端で風切り音を響かせつつも、発動機が稼働しているとは思えないほどの静けさで飛んだ。

 倫敦の街を行きかう人々の姿を眼下にハッキリと視認できるほどの低空を、周遊するように遊覧飛行を続けていた飛行機械は、やがて重厚な石造りの橋――おそらくはロンドン橋だろう――の上空を過ぎたところで、いかにも唐突に機首を下げた。ガクンと高度が落ちるのとは裏腹に座面から尻が浮く。ふわり……、と。


 これは、どうにも気持ちが悪い。


 胃の内容物までもが一緒に持ち上がりそうな浮遊感が不快で、そうした操縦はやや乱暴に思えたのだけれども、操縦士であるピーター氏の肩越しに見た眼前には、ゴシック様式の跳ね橋――タワーブリッジが見えているからこれで良いのだろう。厳つい鳥居のようなアレの下を通過するつもりらしいこの小型水上飛行艇は、このままテムズの川面に着水するようだ。


 素晴らしい空の旅路だったが、それもとうとう潮時である。いよいよ自分は、大英帝国の首都にして蒸気機巧術の都、倫敦に降り立つのだ!


「これからテムズに降りるチハーヤは、ジョゼフ・バザルジェット卿に感謝しなければいけませんよ」


 陽気なピーター氏は唄うように、高らかに断言する。


「それは何故だい?」


「卿の英雄的指導があって、堤防と素晴らしい下水道が完成したのです。四半世紀ほど前までこの川は茶色く、汚物溜めそのもので、酷い悪臭を放っていました。話に聞くかの『大悪臭』は、それはもう酷かったそうですから」


 倫敦の悪名高き「大悪臭」事件は、一八五八年の夏にあったのだそうだ。国会議事堂のあるウェストミンスター宮殿をも襲ったそれは、いわく「強烈なモノ」で、吐き気を催すほどの「凄まじい悪臭」だったらしい。これにたまりかねた行政は、長年にわたってひたすら見てみぬふりを貫いてきた、都市の劣悪な公衆衛生に対処すべく重たい腰を上げたのだという。


「屎尿はもちろん、解体した牛や豚のハラワタなども垂れ流しだったんですよ。人の死体なんかもよく浮いていたようで……」


 なるほど。それは想像を絶する汚物川だ。しかし、死体が浮くのは衛生環境よりは治安の問題ではなかろうか……。


「チハーヤ! そろそろ着水します!」


 ところがそれは「そろそろ」なんてものではなかった。座面からの衝撃が全身を駆け抜けたのは、ピーター氏の言が終わるのとほぼ同時である。

 ウゲェ、と声が出そうになるのを堪えつつ、真横に見える川面に目を向けたならば、翼の下方に取り付けられたフロートが水面を、叩いては豪快に引き裂きながら、飛沫を盛大にぶちまけていた。飛び散ったテムズ川の水は、翼を濡らすばかりかコックピットまでをも水浸しにする。当然ながら千早とて濡れ鼠だ。加えて、機体は着水してからというもの、ガタガタと激しい音を立てて振動しながらギシギシと軋み続けている。正直、これは想像していた以上だ。分解してしまわないのが不思議でならない。


 機体の揺れと音が静まると、ピーター氏が大きく息をついたのが分かった。


「言い忘れてましたがね、曲芸飛行と空戦が得意なわたしも、離水はともかく着水だけは苦手なんですよ。フロートがポロリといかなかっただけでも、まあ、良しとしてください。今日のこれは、我ながら上手くいった方なんで」


 つまりなんだ、分解しないだけましだったということか。結果オーライとばかりに「ハッ、ハッ、ハッー」と豪胆に笑うピーター氏は、なんだか得意げですらある。いかにも満足げだ。


 うむ。飛行機械がなかなかに快適な乗り物だという認識は、改めた方が良いのかもしれない。せめて祖国に残してきた家族には、次のように伝えておくのが、親孝行というものだろう。


 ヒコウキカイキケンノルハシヌ


 ……いやしかし電報はいささか高価であるし、ここは手紙にすべきやも。


「飛行機械此レ極メテ危険ニシテ搭乗ハ控ヘラレタシ御身ヲ大事ニ為サレヨ」

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