第19話 村娘リナ
『王国温泉管理官』に任命された俺だが、やることは変わらず温泉宿の運営だった。
しかしその後ろ盾には女王の存在が高らかに宣言され、かつてのように悪徳領主や貴族による嫌がらせを受けることはなくなった。
街の復興にも女王フリーダや貴族令嬢カルラの力添えがあり、戦いで荒れ果てた街並みに、希望が満ち溢れていた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
それから一月の時間が過ぎた。
新しく建て直した温泉宿『月見ノ湯』は、まだ湯気の匂いに新しい木の香りが混ざっていた。
温泉の熱でほんのりと湿った空気が、壁一面に張り巡らせた梁をやさしく包み込んでいる。
湯の音がこんこんと響き、俺はその音を聞くだけで胸の奥からじんわりと達成感が広がっていった。
ここまで来られたのは一人の力じゃない。あの戦い、あの修羅場……。そこにいたのは、俺を支えてくれた仲間たち。
なかでもリナの存在は大きかった。
そのリナがちょうど買い物かごを抱えて戻ってきた。籠の中には村の市場から仕入れてきた野菜や果物がたっぷりと入っている。
「ケンさん、今日は大根が安かったんですよ。それに、干し肉も少しおまけしてもらえました!」
「そうか、助かるよ。俺ひとりじゃ、こうやって毎日の仕入れまで気が回らないからな」
リナはにこっと笑って籠を下ろす。その笑みを見てふと胸が温かくなる。
彼女はいつだって自然体で、村娘らしい素朴さと芯の強さを持っていた。
しばらくして夕飯の支度をしながら、リナはぽつりと口を開いた。
「ケンさん……温泉宿って本当にすごいですね。こんなにも沢山の人たちが集まって……。村の人たちも、感謝してます」
「いや、俺は好きでやってるだけだよ。温泉ってのは、戦で疲れた兵士も、旅人も、村人も……、皆を癒やせる。こんなすごいもの、広めないと損だろ?」
そう答えると、リナは少し顔を赤くして俯いた。
「……姉さんがね、『リナはケンさんのお嫁さんになった方がいい』って、しつこく言うんです」
「なっ……!」
不意打ちの言葉に、俺は思わず手にしていた包丁を落としそうになる。
リナは慌てて手を振った。
「ち、違います! 姉さんが勝手に……でも……」
そこで言葉を切り、彼女は小さく息を吸い込む。そして意を決したように顔を上げた。
「でも、私だって……、そうなれたらいいなって……思うこともあります」
夕暮れ時、赤い光が窓から差し込みリナの頬を染めていた。俺の胸がドクンと大きく脈打つ。
リナのことは信頼していた。村と宿の架け橋になってくれる大事な仲間だ。けれど今、彼女の真剣な眼差しを受け止めて……。
──俺の中に、それ以上の想いが心に芽生えていることを否応なく自覚させられた。
「……リナ」
「はい」
「宿屋の女将にならないか? リナなら村の人たちとも上手くやれるし、料理や接客だって俺より得意。……俺は、君に任せたい」
その瞬間、リナの瞳が大きく見開かれ、次の瞬間には潤んでいた。
「……そんな、大事な役目……私なんかに……」
「君だからだよ」
俺はまっすぐに告げる。
「リナだからこそ、俺は信じて任せられるんだ」
リナの唇が震え、やがて小さな声が漏れる。
「……あの、私……ずっと、ケンさんのこと……」
言葉の続きを俺は聞く前に悟った。彼女の目がそれをすべて物語っていたから。
気がつけば俺たちは狭い厨房で向かい合ったまま、距離を縮めていた。リナの吐息が頬に触れるほど近く、胸の鼓動が互いに伝わりそうなほどに。
──その夜。
宿の客室はまだ使われていない部屋ばかりで、俺たちはそのひとつに並んで座っていた。
窓から月明かりが差し込み、白木の床に淡い影を落とす。
「ケンさん……ここから見える月、綺麗ですね」
「そうだな。……なんだか、俺たちを祝福してくれてるみたいだ」
そう呟いた瞬間、リナはそっと俺の肩に頭を預けた。柔らかな髪の香りが鼻先をくすぐり、胸が締めつけられる。
俺は言葉より先に、彼女の手を取った。その手は少し冷えていて、小さく震えていた。
「……大丈夫だ。リナが傍にいてくれるなら、俺たちはきっとやっていける」
リナは静かに微笑み、俺の手をぎゅっと握り返した。
月の光が二人を照らし、外の温泉からは湯けむりが立ちのぼる。遠くで湯の音が絶え間なく響き、それはまるで、この瞬間を祝福する賛美歌のようだった。
その夜、俺とリナの心は確かに結ばれた。宿屋の女将として、そして……一人の女として。
彼女の温もりを抱きしめながら、俺は心の奥底で誓った。
──必ず、この温泉を守り抜く。そしてリナと共に、ここに新しい未来を築くのだと。
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