第5話 広まる温泉の絆
リナが温泉を体験して村へ戻ってから、ほんの数日。
「すごいの! 体の疲れが溶けるように消えたんだよ!」
──そんな彼女の言葉は、風に乗る噂のようにあっという間に広がっていった。
最初にやって来たのは腰をさすりながら歩く老人だった。
「本当に効くのかねえ?」と眉をひそめつつ、そろそろと湯に足を入れる。
長年の農作業で腰は常に痛み、夜も眠れぬほどだったという。
だがしばらく浸かると、顔が赤らみ、のぼせるどころか肌がつやつやと潤ってくる。
そして立ち上がった瞬間──。
「おおっ、腰が軽い! 嘘みたいに痛くない!」
老人は歓声をあげ、湯気の中で手を叩いて喜んだ。その様子を見ていた若い農夫や町娘たちも目を丸くし、次々に湯へと入っていく。
「……すげえなこれ! 肌がすべすべになってる!」
「ほんとだ、まるで子どもに戻ったみたい!」
そんな声が飛び交い、湯殿は笑い声で満ちていた。俺は石縁に腰をかけ、湯気越しにその光景を眺めていた。
黒いスーツに身を包み、終電に追われていた日々が遠い幻のように思える。
……あの頃は、ただ命をすり減らすだけだった。
けれど、今は違う。
俺の掘った温泉で人々が癒やされ、笑顔になっている。それだけで胸の奥がじんわりと温かくなった。
最初はひとり暮らしの隠れ家にすぎなかった石造りの湯船も、村人が集えば小さな社交場になる。
農作業帰りの男たちは汗を流し、町から来た女たちは肩まで浸かりながら噂話に花を咲かせる。
子どもたちはちゃぷちゃぷと水面を叩き、老人たちは目を細めて幸福そうにため息をつく。
まるで村全体が一気に活気づいたかのようだった。
──これ、案外本格的にやれば温泉宿になるんじゃないか?
心の奥でそんな考えが膨らむ。
宿を建てれば泊まり客を呼べるし、食事を出せば村の農作物も売れる。村にとっても利益になるはずだ。
ブラック企業に使い潰されていた俺が、この異世界で人を癒やす仕事を営む……。考えただけで心が躍る。
そんなある日の夕暮れだった。
「リナ、ここにいたのね!」
元気いっぱいの声が湯気を突き抜けた。
振り返ると、腰まで伸びた赤茶色の髪を揺らす若い女性が駆け込んでくる。
リナによく似ているが、背は高く、大人びた雰囲気。健康的に紅潮した頬に、快活さがにじんでいた。
「お姉ちゃん!」とリナが目を輝かせる。
彼女はリナの姉、エラ。妹よりもずっと活発で、体つきも豊かだ。
布を巻いただけの簡素な浴衣姿で、ためらいもなく湯へ入ろうとした、その時──。
「きゃっ!」
つるり、と足を滑らせた。
反射的に俺は飛び出し、前のめりに倒れかけた彼女の体を抱きとめる。
瞬間、柔らかな感触が胸に押し当てられ、湯気の向こうで大きな瞳が驚きに見開かれる。
頬がみるみる赤く染まっていった。
「ちょ、ちょっと! なに触ってるのよ!」
「い、いや違う! 今のは事故だって!」
慌てて手を離すと、エラはぶんぶんと首を振り、そのままざぶんと湯へ飛び込んだ。
肩まで沈んだ彼女は、ぶくぶくと泡を立てながら顔を上げ、濡れた髪をかき上げる。
「はぁ……でも、ほんとにすごい。体の芯から力が湧いてくるみたい!」
その横でリナがくすくす笑っている。
「お姉ちゃん言ったでしょ? すごいんだって!」
慌てる仕草までそっくりな二人に、俺は頭をかきながら苦笑いするしかなかった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
こうしてエラもまた温泉の虜になった。
彼女は快活な性格ゆえに村人たちに顔が広く、「あの温泉は本物だ!」と熱心に宣伝しはじめた。
「農作業で疲れたらあそこへ行け!」「肌も綺麗になるし若返るぞ!」
彼女がそう言えば、客は倍増する。
村のはずれに湧く湯けむりは、いまや村全体を照らす希望のようになっていた。
俺は湯気の中で笑い合う人々を見ながら、改めて決意を固める。
──よし、本格的に温泉宿を作ろう。
ただの穴掘りで終わらせない。この世界で「誰かを癒やす場」を築いてみせる。
夕暮れの湯けむりの向こうで、笑い声と歓声が溶け合う。
その光景は、異世界に来てから初めて、俺に確かな生きがいを感じさせていた。
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