エルフの深き森とドワーフの鎚の音
神凪 浩
プロローグ
偽りの英雄たちがもたらした長い黄昏の時代は終わり、大陸には新生の黎明が訪れていた。
神を名乗った賢者アルドゥスとの最後の戦いから三年、エレジア大陸は宰相カイル・ヴァーミリオンの指導の下、各種族が手を取り合い、戦争で負った傷を癒やすための困難な道を歩み始めていた。
その再建において、一つの大きな壁が立ちはだかっていた。
東の鉄竜山脈に住まうドワーフたちは、大陸一の鍛冶技術と豊富な鉱物資源を持つが、痩せた土地ゆえに慢性的な食糧不足に喘いでいた。
一方で、アルドゥスの支配から解放された南の大地は、有り余るほどの豊かな実りをもたらしていたが、戦乱で農具や生活道具のほとんどを失っていた。
東の鉄と、南の食糧。
互いの民を救うために、両者を結ぶ新たな交易路の建設は、大陸復興の最優先事項となった。
しかし、最短ルートは、大陸中央に広がる、エルフの聖域「眠りの森」を通過する以外にない。
数百年もの間、人間はおろか、ドワーフの斧がその木々を傷つけることなど、決して許されなかった禁断の森。
各種族の代表が集う大陸円卓評議会での議論は紛糾したが、宰相カイルの粘り強い説得と、各種族の未来を想う指導者たちの決断により、歴史的な盟約が結ばれる。
「森の木々を一本も切らず、大地の流れを乱さない道筋をエルフが示し、その道にドワーフが自然と一体化する石畳を敷く」という、前代未聞の共同事業。
それは、新しい時代の共存を象徴する『夜明けの道』と呼ばれるはずだった。
だが、理想とは裏腹に、その始まりは不協和音に満ちていた。
◇
「——基点Aより北東へ三七度、距離一五〇〇ヤード。傾斜角、マイナス三度。地盤強度、クラスB。誤差、プラスマイナス〇・〇三ミクロン。……完璧だ」
ゴリン・スティールシェイパーは、羊皮紙に引かれた設計図の最後の線をコンパスで確認し、満足げに頷いた。
彼の背後に広がるのは、ドワーフたちが森の端に築いた、寸分の狂いもなく区画整理された野営地だ。
整然と並ぶテントは、全てが同じ大きさ、同じ向きで、まるで石のブロックのように並んでいる。
資材置き場では、大きさ別に分けられた石材が、決められた角度で完璧な立方体に積まれ、工具は種類ごとに分類されて、磨き上げられた状態で壁に掛けられていた。
地面に引かれた幾何学的な測量線は、彼の信じる「論理」と「秩序」そのものだった。
彼の視線が、これから挑むべき「眠りの森」へと向けられる。
幾千年もの時を生きてきた巨大な木々が、まるで意思を持つ生き物のように枝を絡ませ合い、無秩序に天を覆っていた。
陽の光はまだらに差し込み、地面には予測不能な起伏が続いている。
(非効率の極みだな)
ゴリンは内心で吐き捨てた。
彼にとって、この森はただの建設現場であり、木々は克服すべき障害物、大地は計算すべき傾斜と地盤でしかない。
「森の声」だの「精霊の意思」だのという、エルフたちの非科学的な戯言には、心の底からうんざりしていた。
この歴史的な街道建設は、彼がその若き才能を大陸全土に示す、最高の舞台となるはずだった。
彼の完璧な設計図と、ドワーフが誇る絶対的な技術の前には、いかなる障害も存在しない。そう、彼は信じていた。
「ゴリン様!第一測量杭の準備、整いました!」
部下の一人が、その大きな体に似合わぬ俊敏さで駆け寄ってきた。
その手には、黒曜石の先端を持つ、寸分の狂いもなく磨き上げられた測量用の杭が、恭しく捧げ持たれている。
「うむ。エルフの監視役は来ているか?」
「はっ。先ほどから、あそこの木の上で、こちらを睨んでおります」
部下が顎で示した先、森の入り口で最も高い古代樹の枝の上に、確かに一つの人影が見えた。
緑の衣をまとったその姿は、森の葉の色に溶け込み、注意深く見なければ気づかないほどだった。
(監視、か。せいぜい俺たちの完璧な仕事ぶりを見て、自分たちの非効率さを恥じるといい)
ゴリンは、杭を受け取ると、これから始まる記念すべき第一歩を踏み出すため、野営地の中心へと向かった。
◇
「……痛い」
ライラ・メドウライトは、森で最も高い古代樹の枝の上で、そっと目を閉じた。
彼女の足元、遥か下方の森の入り口で、ドワーフたちが立てる槌の音や、金属を運ぶ硬質な音が、不協和音となって大気を震わせている。
それは、森が奏でる生命の歌を乱す、耳障りな
彼女には聞こえる。
木々が未知なる侵入者に怯えるささやきが。
大地が、これから自らの上に敷かれるであろう石の重みに、不安げに身を固くする気配が。
そして何より、あのドワーフたちの野営地から発せられる、全てを数字と直線で支配しようとする、冷たく傲慢な「意志」が、彼女の肌をピリピリと刺した。
森の番人として、彼女はこの共同事業の監視役を命じられた。
盟約が守られ、森への冒涜が最小限に留められるように。
だが、彼女の心は疑念と警戒心で満ちていた。
石と鉄の匂いをさせ、大地の歌に耳を貸そうともしないあの頑固な民が、本当に森への敬意を払えるというのだろうか。
彼女は、これから始まる長い闘争を思い、深く、静かに息を吸った。
その息吹は、森の悲しみと、どこか重なり合っているようだった。
やがて、ドワーフたちが野営地の中心に集まり始めた。
式典のようだ。
中心に立つ、一際態度の大きい若者が、黒い杭を掲げている。
あれが、現場監督のゴリン・スティールシェイパーだろう。
彼の顔には、自信と、森に対する侮蔑の色がありありと浮かんでいた。
(あんな者に、森の心が分かるはずがない)
ライラは、腰に下げた白木の弓の弦を、無意識に指でなぞった。
そして、木の幹を蹴ると、音もなく地面へと舞い降り、式典の場へと静かに歩み寄っていった。
◇
「これより、大陸の未来を繋ぐ『夜明けの道』の、第一歩を記す!」
ゴリンは、集まったドワーフたちを前に、高らかに宣言した。
彼の声は、若々しくも、岩のように揺るぎない自信に満ちている。
彼は、設計図に示された基点に杭の先端を合わせると、巨大な石槌を振り上げた。
その槌が振り下ろされようとした、まさにその瞬間だった。
「待ちなさい」
静かだが、凛とした声が、その場の空気を凍らせた。
ゴリンは、振り上げた槌をぴたりと止めた。
見れば、いつの間にか、一人のエルフの女が彼の前に静かに立ちはだかっていた。
亜麻色の長い髪、森の湖のように深い緑色の瞳。
その佇まいは、一本の若木のようにしなやかで、しかし決して折れることのない芯の強さを感じさせた。ライラ・メドウライトだった。
「何の用だ、エルフ。式典の邪魔をするな」
ゴリンは、不機嫌を隠そうともせずに言った。
「その場所は、駄目」
ライラは、ゴリンが杭を打とうとしている地面を指差した。
「そこは、千年を生きた樫の木の根が、最も浅く呼吸をしている場所。杭を打てば、あの方は苦しむことになるわ」
「呼吸だと?」
ゴリンは、心底可笑しいというように、鼻で笑った。
「木の根は呼吸などしない。ただ水を吸い上げるだけの器官だ。そもそも、この設計図によれば、ここはただの平坦な地面。樫の木の根など、地下数ヤードの深さにあるはずだ。地表に影響などあるものか」
彼は、自らの完璧な設計図を、これ見よがしに広げて見せた。
「設計図に、木の痛みは描かれていないのでしょう?」
ライラの静かな問いに、ゴリンの眉がぴくりと動いた。
「痛みだと? 非科学的なことを言うな。木に感情などない」
「ええ、あなたたちには聞こえないのでしょうね。でも、私には聞こえる。この大地が、やめてと囁いているのが」
「戯言を」
ゴリンは、彼女の言葉を無視して、再び槌を振り上げた。
ライラは杭の前にそっと身を置き、ゴリンを真っ直ぐに見つめ返した。
その瞳は、森の静けさそのものだった。
「どうしても打つというのなら、私ごと打ち砕いていきなさい。森の番人として、この方の苦しみを見過ごすことはできない」
「…狂っているのか、お前は」
ゴリンの額に、青筋が浮かんだ。
周囲を取り囲むドワーフたちも、ざわめき始めている。
「おい、どうするんだ、ゴリン様」
「エルフの言うことなど、放っておけ」
「だが、盟約では…」
ゴリンは、槌を握る手に力を込めた。
彼の論理が、目の前の非論理的な存在によって、公衆の面前で否定されている。
これ以上の屈辱はなかった。
だが、ここで彼女を傷つければ、この歴史的な事業そのものが、始まる前に破綻しかねない。
「…分かった」
ゴリンは、苦々しく、そして最大限の皮肉を込めて言った。
「では、その『木の痛み』とやらがない場所を、ご教示願おうか、エルフの“詩人”殿。ただし、俺の設計図から、一ミリでもずれた場所に杭を打つことは、この俺のプライドが許さん」
「三センチ右。そこなら、根はもっと深く、大地も受け入れてくれる」
ライラは、即答した。
「三センチだと…?」
ゴリンは、耳を疑った。
「ふざけるな!基点が三センチずれたら、この先の全ての計算が狂う!街道全体が歪むことになるんだぞ!」
「歪むのは、あなたの設計図だけ。森の道は、元々まっすぐではないわ」
二つの視線が、火花を散らすように交錯した。
理論だけを信じるドワーフと、感覚だけを信じるエルフ。
新しい時代の共存を象徴するはずだった『夜明けの道』は、その第一歩目から、深い断絶の淵に立たされていた。
彼らの旅路が、単なる道造りでは終わらないことを、二人はまだ知らない。
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