第十二話 「四度目の手前」
夜明け前、白ロールの芯に刻まれていた“谷の地図”を広げた。極細の線は三つの支流を示し、いずれも「第四合流槽」に集まっている。欄外に、読めなくなるほど薄い活字がある。「午後四時四十四分、非常吐水」。四は、口の枠――□――の形をしている。四つは枠、枠は器。僕は舌の上でそう繰り返した。
蓮見先輩――寺島 修――は多くを言わない。白木と半紙、盃、そして僕のポケットには、刻印に「爪」とある鍵。返すのは二度まで。迎えは一度だけ。巻物の文言が、ここ数日の眠りを浅くしたまま、胸の内側に貼り付いている。
午前、最初の“谷”は市場裏の沈砂池だった。鉄の梯子を降りると、白いラベル片が面に集まり、ゆっくり口を作っては崩れる。先輩は半紙に細い墨で「しろ」と一筆。呼ばない、迎えない、伏せておく。僕は盃に水をひと口だけ満たし、縁へそっと置いて、すぐ伏せた。張った膜がたわみ、音の欠けがひとつ戻る。白は足場に寄り、そこから自分の居場所を探す。足場は道じゃない。ここで切る。
梯子を上がるころ、魚屋の伝票に欠けていた店名が薄く戻った。日常は、音を立てずに合うときがある。
ふたつめの“谷”は校舎裏の集水桝。体育館の陰、苔に囲まれた四角い口だ。蓋のボルトは四つで□を描き、ひとつだけ頭が白く擦れている。僕が鍵の「爪」を沿わせると、見えない鍵穴がこちらの都合に合わせるみたいに吸い込み、わずかに緩んだ。中には薄い木箱。朱で「返す」のスタンプ。知っている型だ。中身は、名を剥いだ名札と、細い黒髪と、白い綿。鈴の喉を塞いだものと同じ。先輩は中身を白木の上に伏せ、半紙へ手を添えた。僕は盃を二度目として置き、すぐ伏せた。返すは二度まで。ここでやめる。三度は谷が腹を見せる。
地図の細い線は、三つ目を示すだけで、四つ目を描いていない。欠けの地図。足りない線は、町の底のどこかで繋がっているはずなのに、描かれていない。僕はそれを、怖いと思った。四つ目の手前――そこまでしか近寄れないように、人が自分で白を刷って、道を切り欠いてきたのだろうか。
午後、第四合流槽の上に立つ。川筋は低く唸り、鉄の蓋の四隅は濡れて黒い。午後四時になり、影が長くなる。先輩は鐘楼の縄に手をかけた日のような顔をして、ただ立っている。「四時四十四分に吐く。吐く前に、白は寄る。寄った白は、名の縫い目に噛みつく」そう言って、半紙の裏面を見せた。何も書いていない白。迎えるための余白。ここで呼ぶのかと喉が動いたが、彼は首を振る。「迎えるのは一度だけ。今日は呼ばない」
四時三十九分、蓋の脇でラベルプリンターが唸った。誰も触れないのに、白を一枚だけ吐く。白で白を印字した「□□□□□□」が光の角度で浮き、また消える。四時四十一分、辺りの空気が薄紙みたいに張る。風があるのに鈴は鳴らない。四時四十三分、蓋の隙間から白い泡がひと息ふくらみ、萎む。僕は盃に触れたい衝動に指を固めた。三度目はしない。二度まで。ここで止める。
四時四十四分の手前、蓋の周りを濡れた二歩が一歩だけ近づいた。見覚えのある幅。四度目を待つ癖が、喉の内側で数を刻む。僕のポケットで鍵の爪が、引き出しの木目を思い出したように一度だけ掻いた。先輩は半紙を裏返しのまま、蓋の縁に軽く当てる。白は白へ寄る。吐水の一瞬、白は半紙に足を置いて跳ぶつもりだったのだろう。足場がそこにある限り。だが、半紙はすぐ剥がされ、足場は切られる。道にならない。
合図もなく、非常吐水が始まった。空気の張りが破れ、音が落差を滑っていく。僕の耳の奥で、鐘の四音目の手前にできた縫い目がふっと締まる。市場の伝票に、校舎の職員札に、商店街のレシートに――「高橋」「斉藤」「星野」。どれも一瞬だけ、白の縁から離れた。白は戻るだろう。けれど、道はここで切った。四度目の手前で。
吐水が収まり、風が戻った。鈴は鳴らないままだったが、黙っている口は先ほどより乾いて見えた。先輩は白木を抱え、僕を見た。言葉は要らない。三度目の盃をしなかったこと、半紙をすぐ剥がしたこと、呼ばなかったこと――その全部を、彼は確かめていた。
夕暮れ、寺に寄ると、鋳物師が鐘の縁に耳を当てていた。「四音目の手前で、薄く橋がかかった」と言う。煤の影が薄い。鐘は呼ぶ道具だ。呼べない町は、鳴らない町になる。けれど、鳴らすためには、呼びすぎないことも必要だ。迎えは一度だけ。返すは二度まで。
家に戻ると、郵便受けに白い封筒。差出人は空白。カードには短く、「停止確認」とある。文末の黒塗りは□の形で、角が爪で擦れたみたいに毛羽立っている。机の引き出しを閉めると、鍵の「爪」が内側で一度だけ木目を掻いた。欠けはわずかに増えている。移った欠けは、こちらの側から減った何かだ。僕の名前の縫い目は、まだ締まっているだろうか。
スマホの画面で、連絡先の白が一瞬だけ撓んだ。「寺島 修」の黒が浮き、ぎりぎりのところで踏み止まる。白は強い。だが、四度目の手前で、線は切れる。切ることが、返すことの一部なのだと、今日やっと体で覚えた。
夜、盃を洗い、伏せる。半紙の「しろ」をそっと剥がし、箱に戻す。長居はさせない。白は足場で、止まり木。止まり木は、飛ぶためにある。僕は地図の細い線を指でなぞり、描かれていない四つ目の先に、自分の部屋の裏庭を思い浮かべた。鈴は、きっとまた鳴らない。けれど、四度目の手前で、僕は止まる。呼ばない、迎えない、伏せておく。その数を、夜の側と僕の側で、もう一度合わせるために。
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