第7話

昨日のことを思い出すと、頭から湯気が出てきそうになる。

……陽くんの表情、声。

その全部がキラキラときらめいて。

頭にこびりついて離れない。


私と、恋の練習をしてくれませんか。


ああ。なんてことを言ってしまったのだろう。

溢れた気持ちを。抑えることが出来なかった。

一体、どんな顔をしてお店に行けばいいと言うのか。


それでも足は止められなくて。今日も扉を開けてしまう。


カラン。

軽い音と共に、昼の暑さが店内へ滑り込む。


「いらっ、……しゃいませ」


詰まったような素直な言葉。

カウンター越しの陽くんはギジリと体を強ばらせる。

そんな姿にきゅんと胸が締め付けられた。


「こんにちは、陽くん」

「こん、にちは。……美月、さん」


その『さん』づけが、思った以上に遠く感じてしまう。

つかつかといつもの席へと向かい。

そしてじっと、耳の赤い陽くんを見つめた。


「……」

「~~、美月」

「はい。陽くん」


満足気な私に、陽くんは顔を背け1度咳払いをする。


少しの沈黙。

やがて陽くんは深呼吸をして、コーヒーをいれてくれる。


ポト、ポト、と落ちる音。

立ちのぼる香りが胸の奥をくすぐり、心まで甘くしていく。

その間、陽くんの指先は震えていて、注ぎ口から目を逸らさない。


──どうしよう。見ているだけで愛しくなってしまう。


湯気と一緒に差し出されたカップを受け取りながら、ふと周りに目をやる。

……誰もいない。店内には、私と陽くんだけ。


彼も同じことを確認したように、少し唇を動かし、それから視線を揺らした。


「……ねぇ。陽くん。練習、しよっか」

「っえ」

「隣、座って欲しいな」


カップのふちをなぞりながら、チラと隣の席へ視線を動かす。


ガタリ──。

陽くんの手元が何かにぶつかり、そしてゆっくりとカウンターから出てきた。


「……こ、こっちに座ればいいんだよね?」


陽くんが少しぎこちなく問いかけてくる。

私は笑顔で頷いた。


「うん。恋人は隣に座るんだよ」


その一言で、陽くんは観念したみたいに私の横に腰を下ろした。

ふわりと伝わる体温。

肩が触れそうで触れない距離に、私の心臓はばくばくと暴れ出す。


横顔を盗み見ると、陽くんも落ち着かない様子で唇をきゅっと結んでいる。

そんな顔をされたら、ますます意識してしまう。


練習なのに。どうして本気みたいに胸が苦しいんだろう。


「……ここから、俺どうしたらいい?」


テーブルの上で組まれる両手。指を忙しなく動かしながら陽くんはこぼす。

気まずそうな声色に、少しの期待が含まれている気がする。


「恋愛ドラマではね、恋人はこうやって触れ合うんだよ」


右手をそっと陽くんの手に触れさせる。

手の甲と甲がピッタリとくっつき。

そのまま潜らせるように。陽くんの手をテーブルから少し持ち上げる。


「あ、の、……美月?」


陽くんの戸惑った声を聞きながら。自分自身の鼓動の大きさに指が震える。

そのまま指と指を絡ませ、きゅっと握りしめた。


「これは、その、いわゆる?」

「……恋人繋ぎ、だね」

「……だよね」


大きな手に包み込まれ。その熱がダイレクトに伝わる。

店内に流れるBGMと、お互いの呼吸だけが耳に残る。


「っ……俺。こういうこと、ほんと初めてで。どうしたらいいのか」

「……一度も、ないの?」

「……うん」

「私も。初めてだよ……だって、練習なんだもん」


嘘。何度も演じてきた。

でもこんなにも胸が締め付けられて、鼓動が早くなるのなんて、知らない。

これは。生まれて初めての、私の感情。


「うん。ドラマで見るよりずっと……本物っぽい」

「っ……」


練習だよ。と言わなくちゃいけない。

なのに。言葉が出てこなかった。

カチャリ。とカップを持ち上げる。

そんな事でしか、今の自分を誤魔化す方法が分からないから。

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