守宮の会談絵草紙 第十九話「ぶぶっ…ぶぶぶぶっ…」
ふふふ、皆様、ようこそおいでくださいました。
このヤモリ、世の隙間を這いずり集めた物語をお届けするストーリーテラーでございます。
さて、19話目となる今宵のお話は、古びた寮の片隅、冷蔵庫の奥に潜む不気味な影についてでございます。
蒸し暑い夏の夜、閉じられたドアの向こうで何かが蠢き、過去の記憶が冷たい風となって吹き出す…。
さぁ、背筋を凍らせる物語の幕が、そっと開きます。
残り81話、このヤモリが成仏するその日まで、どうぞお付き合いくださいませ。
【ぶぶっ…ぶぶぶぶっ…】
蒸し暑い真夏の夕暮れ、蝉の鳴き声が途切れなく響く古びた寮の一室で、佐藤佳恵はいつものように夕食の支度をしていた。
狭いキッチンには、備え付けの古いボックス型冷蔵庫が低く唸りを上げ、まるで部屋の鼓動のように響いていた。
佳恵は冷蔵庫のドアを開け、野菜を取り出そうとしたその瞬間、背筋に冷たいものが走った。
冷蔵庫の奥、普段は見えない内壁の暗がりに、白い影が揺れているのが目に入った。
「何…これ?」
眉をひそめ、佳恵は棚を一つ一つ外して覗き込んだ。
そこには、色あせた一枚の写真が、雑にテープで貼り付けられていた。
写真には、見知らぬ家族が写っていた。
父親らしき男、母親らしき女、そして小さな赤児。
硬い笑顔を浮かべ、背景には古めかしい家が映っていた。
写真の端は黄ばみ、時代を感じさせたが、家族の目は異様に鮮明で、佳恵の視線を絡め取るようにじっと見つめていた。
「こんなもの…誰が貼ったの?」
首を振って笑い、佳恵は写真を剥がそうとした。
だが、テープは驚くほど頑強で、爪を立ててもびくともしなかった。
仕方なく棚を元に戻し、気にするのをやめたが、心の奥に不穏なざわめきが残った。
翌朝、冷蔵庫を開けた佳恵は息を呑んだ。
昨夜の写真が、変わっていた。
同じ家族のはずなのに、父親の顔は微妙に歪み、母親の目は不自然に大きく、赤児の肌は赤紫色に変色していた。
背景の家の窓には、ぼんやりとした人影が映り込んでいるように見えた。
佳恵の心臓が早鐘を打った。
「見間違い…きっと見間違いよ」
自分を落ち着かせようと呟いたが、写真に触れようとした瞬間、冷たい電流のような感覚が指先から全身を走り抜けた。
「ひっ…!」
手を引っ込め、勢いよくドアを閉めた。
その瞬間、背後でかすかな声が聞こえた。
赤児の声だった。
振り返っても、誰もいない。
寮の管理人によれば、大規模修繕のため、かつての入居者は別棟に移り、
佳恵がこの部屋に越してきてからまだ三ヶ月。
彼女以外、この棟に住む者はいないはずだった。
その夜、佳恵は眠れなかった。
冷蔵庫のモーター音が、いつもより大きく、不規則に響く。
時折、ガタッと何かが動く音が混じり、彼女は布団の中で身を縮めた。
翌日、意を決して管理人に相談したが、
「そんな写真、見たことない。前の住人が貼ったんじゃない?」と軽くあしらわれた。
「前の住人って、どんな人だったんですか?」
管理人は一瞬顔を曇らせ、「普通の家族だったよ。ただ、奥さんが育児ノイローゼで、急に引っ越した。よくある話だ」と答えた。
その言葉が、佳恵の不安をさらに煽った。
夜が更けるにつれ、異変は増していった。
冷蔵庫のモーター音が、まるで誰かが囁くような不気味なリズムに変わった。
「ぶぶ…ぶぶぶぶっ…」
恐る恐るキッチンに立ち、冷蔵庫のドアを開けた佳恵の目に、さらなる恐怖が飛び込んできた。
写真の家族はさらに異様だった。
父親の顔は完全に崩れ、口元が裂けたように広がり、母親の目は真っ黒に塗りつぶされている。
赤児は、まるで佳恵を指差すように手を伸ばしていた。
「やめて…!」
冷蔵庫を閉めようとしたが、ドアが動かない。
冷蔵庫の奥から冷たい風が吹き出し、髪に何かが絡むような感覚がした。
風の中に、かすかな声が混じる。
「閉じ込めないで」声ではない。
頭に直接響くような、ぞっとする感覚だった。
後ずさり、キッチンの床にへたり込んだ瞬間、背後の壁からドン、と重い音が響いた。
振り返ると、壁に這うような影が揺れていた。
「誰!? 誰なの!?」
叫び声は部屋に虚しく響いた。
答えの代わりに、冷蔵庫のドアがゆっくりと開き始めた。
足が凍りついたように動かない。
写真が、ゆっくりと剥がれ落ちる。
その裏には、備え付け冷蔵庫特有のモーター点検口の蓋があった。
写真は、まるでそれを封印するように貼られていたのだ。
蓋をよく見ると、小さな指らしきものが挟まっている。
モーター音が激しくなる。
「ぶぶっ…ぶぶぶぶっ…」
次の瞬間、蓋が外れ、床に落ちた。
そこには、干からびた赤児の姿があった。
佳恵はその赤児と目が合った。枯れた唇が動く。
「ぶぶっ…ぶぶぶぶっ…」
それはモーター音ではなく、赤児の口から発せられていた。
その瞬間、佳恵の意識は闇に落ちた。
ふふふ、皆様、いかがでございましたでしょうか。
冷蔵庫のモーター音に紛れた赤児の囁き、写真の裏に隠された過去の断片…
世の隙間には、こんなにも不気味な物語が潜んでいるものでございます。
19話目を終え、残るは81話。
このヤモリ、世の隙間を這いずり集めた物語の幕を、そっと閉じさせていただきます。
次なる話で、またお会いいたしましょう。
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