守宮の会談絵草紙
をはち
守宮の会談絵草紙 プロローグ「羽音の夜」
真っ赤な目を眠そうにこする彼の口癖は、いつも同じだった。
「夜中に何度も蚊の羽音に起こされるんだ」
その言葉は、夏の風物詩のように軽やかに響くものだった。
誰もが聞き流す、ありふれた不平のはずだ。
だが、僕にはどうにも違和感があった。
五月にその話を初めて耳にした時から既に半年以上が過ぎ、季節は二月の厳しい寒さに閉ざされていた。
どんなに生命力の強い蚊でも、この凍てつく冬を生き延びるはずがない。
都会のマンホール下で越冬する蚊の話を耳にしたことはあるが、
普通のアパートの一室でそんなことが起こるとは思えなかった。
雪が連日降り積もり、窓の外は白く息を潜めるような冬だ。
奇跡的に蚊が生き残ったとしても、こんな寒さで飛び回るなど想像もできなかった。
「本当に蚊なんですか?」
ついに我慢できず、僕は彼に問いかけた。
彼は手にした缶コーヒーを一気に飲み干し、血走った目を僕に向けた。
「ああ、蚊だよ」と一言。
気だるげに体を引きずり、僕の視界から消えていった。
それが二ヶ月前のことだ。
それ以来、彼は僕の前に姿を見せなくなった。
僕の唐突な疑問が、彼を不快にさせたのかもしれない。
そんな思いが頭を離れず、自責の念に苛まれながら、眠れない夜を重ねていた。
他人から見れば取るに足らない話かもしれない。
だが、当事者にとっては、胸を締め付ける大きな問題なのだ。
彼もまた、同じように傷ついたのではないか。
そんな考えが、僕の心を重くしていた。
ある日、独りうなだれていた僕の耳に、聞き慣れた声が飛び込んできた。
「やぁ!」
顔を上げると、そこには見違えるほど生気に満ちた彼が立っていた。
僕は慌ててあの日の無礼を詫びようとしたが、彼は手を振って制し、唐突に口を開いた。
「やっぱり蚊だったよ。いや、ちょっと違うかな」
彼の話は意外な方向に転がった。
「あの後、バイクにはねられてね。ぼんやりして車道に飛び出した自分が悪いんだけど、
結局入院することになったんだ。病院には蚊なんていないだろ? おかげでぐっすり眠れて、体力も戻ったってわけ」
彼はそこで一息つき、目を細めた。
「でもさ、退院したその夜、また聞こえたんだよ。蚊の羽音が」
僕は息を呑んだ。
彼の言葉は、まるで日常の裂け目から覗く異界の話のようだった。
「病院にいる間、初めて気づいたんだ。あの羽音が、ずっと当たり前だと思ってたことが、
実は異常だったって。君があのとき言った言葉が、頭に浮かんでさ」
彼は電気をつけ、部屋を見渡したという。
だが、蚊などどこにもいない。
数日間、羽音に悩まされながら部屋の隅々を探し回った。
そして、ついに見つけたのだ。
壁の隅、天井近くに、干からびた大きなヤモリを。
「ヤモリ?」
思わず口を挟んでしまった僕に、彼は「まぁ、聞けよ」と手を振った。
「そのヤモリの鼻先、ほんの十センチ先に、蚊がいたんだ。
まるでヤモリに狙われてるって知ってるみたいに、飛び立とうとする姿のまま、干からびて死んでた」
彼の声は静かだったが、どこか不思議な熱を帯びていた。
「おかしくないか? 普通なら、干からびるのは片方でいいはずだろ。
なのに、捕食者と獲物が同時に干からびてるなんて、ありえないよな」
僕は頷き、考えを巡らせた。
一年前か、あるいは二年前か。
まずヤモリがその壁で干からび、死んだのではないか。
そこに、知らずに蚊が止まった。
ヤモリの姿に気づき、恐怖に凍りつき、逃げることもできず、そのまま命を落とし、干からびたのではないか。
僕の推測に、彼は静かに頷いた。
「その二匹を見たとき、蚊がなんだか哀れでさ。ヤモリを壁から剥がして、蚊に『もう大丈夫だぞ』って声をかけたんだ。
変な話だけどな。息を吹きかけて、そっと剥がそうとしたんだけど、蚊の足が壁に食い込んでて、動かないんだよ。
よっぽどヤモリから逃げたかったんだろうな。力いっぱい踏み込んだ足が、壁に張り付いたままだった」
彼はそこで言葉を切り、遠くを見るような目をした。
「何か、供養してやりたくなってさ。線香に火をつけて、煙を当ててやった。
すると、ふっと力が抜けたみたいに、蚊がハラリと床に落ちたんだ。でも、探しても亡骸は見つからなかった。
きっと、成仏したんだろうな。あいつ、長い間、暗闇の中でヤモリから逃げようと、必死に羽音を鳴らしてたんだよ。
それ以来、羽音は聞こえなくなった」
僕は黙って話を聞き、ただ頷いた。
彼は缶コーヒーを飲み干し、「かったるいなぁ」とボサボサの頭をかきながら、どこかへ歩いていった。
僕は彼の背中に、ふと皮肉を込めて呟いた。
「また蚊の季節になりますね」
彼の背中は、答えず、ただ遠ざかっていった。
雪の降る街角に、かすかな線香の香りが漂っているような気がした。
どうやら、蚊のヤツは成仏したようですね。
線香の煙に包まれて、ふっと消えていきました。
ええ、羨ましい限りです。
私ですか?――まだ、成仏しかねておりまして。
どうやら、百の怖い話を語り終えることで、ようやく成仏できるらしいのです。
今後とも、お付き合い頂けたら幸に御座います。
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