守宮の会談絵草紙 第十二話「湯飲みの記憶」

ふふふ、皆様、ようこそおいでくださいました。


このヤモリ、世の隙間を這いずり集めた物語をお届けするストーリーテラーでございます。


さて、12話目となる今宵のお話は、家族の温もりが宿る湯飲みに秘められた物語でございます。


お盆の帰省、懐かしい笑顔と静かな家、その中に漂うかすかな湯気の記憶が、皆様の心をそっと揺さぶるでしょう。


残る物語はあと88話、このヤモリが成仏するその日まで、どうぞお付き合いくださいませ。



【湯飲みの記憶】



お盆の暑さが肌にまとわりつく。


東京から電車とバスを乗り継ぎ、ようやくたどり着いた実家は、今年も変わらぬ佇まいで私を出迎えた。


玄関の引き戸を引くと、懐かしい畳の匂いと、どこか埃っぽい空気が鼻をつく。


リビングでは、母さんが台所で鍋をかき混ぜ、香ばしい味噌の香りが漂っている。


父さんがテレビの前でビールを片手に大声で笑い、引きこもりの兄貴が部屋の隅でゲームのコントローラーを握っている。


足元では、猫のタマが私のすねに体を擦りつけ、喉をゴロゴロ鳴らした。


「よお、帰ってきたな! 遅えぞ!」


父さんの声が、いつものように耳に響く。


「ほら、美咲、早く手を洗って。ご飯できたよ」


母さんがエプロンで手を拭きながら笑う。


私はカバンを下ろし、テーブルについた。


兄貴は無言でチラリと私を見たが、すぐに画面に戻る。


タマが膝に飛び乗り、柔らかい毛が私の手に触れる。


いつもの実家だ。


変わらない、家族の時間。夕食は賑やかだった。


母さんの煮物は絶妙な甘さで、父さんの昔話は何度聞いても同じオチ。


兄貴は相変わらず無口だが、時折母さんの料理に手を伸ばす。


食事が終わり、お風呂に入って、子供の頃の部屋で横になると、懐かしさに胸が温かくなった。


翌朝、目が覚めると、家が静かだった。


カーテンから差し込む朝日が、畳に淡い影を落としている。


時計は七時を指しているのに、母さんの台所の音も、父さんの新聞をめくる音もない。


タマの鈴の音すら聞こえない。私はリビングに降りた。


誰もいない。テーブルの上には、昨夜の食器がそのままだった。


「母さん? 父さん?」声を上げてみたが、返事はない。


兄貴の部屋を覗いても、布団は乱れたままで誰もいない。


畑に出たのかと思ったが、引きこもりの兄貴が外に出るはずがない。


不安が胸の底でざわめいたが、なぜか理由がわからない。


携帯を手に取ると、電波が弱く、誰とも連絡が取れない。


しばらく庭を眺めていると、玄関の戸がガラリと開いた。


「美咲、どこ行ってたんだよ!」父さんの声だ。


振り返ると、母さんが買い物袋を下げ、兄貴が不機嫌そうに後ろをついてくる。


タマが私の足元にすり寄り、鈴がチリンと鳴った。


「え、誰もいなかったんじゃ…」言葉を飲み込んだ。


母さんが笑いながら台所に立つ。父さんがテレビをつけ、いつもの喧騒が戻ってくる。


私は、さっきまでの不安を忘れた。


家族団らんが再び始まり、笑い声が家を満たした。


だが、その朝も同じだった。目覚めると、家は静寂に包まれている。


誰もいない。食卓には、昨夜の湯飲みがそのまま残り、なぜか埃が薄く積もっている。


不安がまた胸を締め付けたが、昼になると家族が戻ってくる。


「美咲、ボーッとしてんなよ!」父さんが笑い、母さんがお茶を淹れ、兄貴が無言でゲームを続ける。


タマの鈴がチリンと鳴る。私は、朝の不在をまた忘れた。


そんな日々が、お盆の終わりまで続いた。


毎朝、家族がいなくなる。毎昼、家族が戻ってくる。


私はその繰り返しに慣れ、違和感を押し込めた。


お盆最終日の夜、いつものように家族はリビングに集まっていた。


父さんがテレビで時代劇を見ながら笑い、兄貴がゲームに没頭し、タマが私の足元でゴロゴロと喉を鳴らす。


母さんが台所から湯呑みを手に現れ、静かにテーブルの上に家族分の湯飲みを並べた。


「はい、みんな、お茶」と穏やかに微笑みながら、丁寧に一人ひとりの湯飲みに熱いお茶を注いでいく。


湯気が立ち上り、ほのかな茶葉の香りが部屋に広がった。


父さんが「うまい!」と一口飲み、母さんが「ゆっくり飲みなさいよ」と笑う。


兄貴は無言で湯飲みに手を伸ばし、タマが私の膝で丸くなる。


私はその温かな光景を、なぜか強く胸に刻んだ。


翌朝、目を開けると、家はひどく静かだった。


カーテンの隙間から差し込む光が、埃の粒子を浮かび上がらせている。


リビングに降りると、テーブルの上に家族分の湯飲みが整然と並んでいた。


湯気が、かすかに立ち上っている。


私は息を飲んだ。


記憶の底から、冷たい真実が這い上がってくる。


今年は新盆だった。


私は、家族の墓参りのために帰省したのだ。


半年前、豪雨の夜、避難中に道が崩れ、父さん、母さん、兄貴、そしてタマまでが一瞬で奪われた。


あの事故の日、私は東京にいた。


生き残ったのは私だけだった。


家の中を見回す。畳は色褪せ、壁にはカビの跡。家具には埃が積もり、まるで何年も人が住んでいないようだ。


なのに、テーブルの湯飲みだけが、まるで今使われたかのように温かい。


震える手で湯飲みに触れると、指先に微かな熱を感じた。


チリン。背後で、タマの鈴が鳴った。


振り返ると、誰もいない。だが、ソファの隅に、父さんの古い眼鏡が置かれている。


母さんのエプロンが台所に掛けられ、兄貴のゲームコントローラーが床に転がっている。


私は、家族がそこにいたことを知った。


そして、彼らがもうここにはいないことも――


湯気の立つ湯飲みを握りしめ、私は泣いた。


家族は、今年のお盆も、私を待っていてくれたのだ。




ふふふ、皆様、いかがでございましたでしょうか。


湯飲みの温もりに宿る家族の記憶、去った者たちの優しい気配は、皆様の胸にも確かに響いたことでしょう。


このヤモリ、世の隙間を這いずり集めた12話目の物語の幕を、そっと閉じさせていただきます。


残るは88話、成仏への道はまだ続きますが、また次のお話でお会いいたしましょう。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る