守宮の会談絵草紙 第八話「細身の神」

ふふふ、皆様、ようこそおいでくださいました。


このヤモリ、世の隙間を這いずり集めた物語をお届けするストーリーテラーでございます。


さて、今宵は第八話「細身の神」。


夏祭りの喧騒の中、欲望のままに食を楽しみ、さらなる欲望に突き動かされた少年の物語。


細身の神の恩寵は、肉を削ぎ、魂をも飲み込む禁断の誘惑。


少年の影は、果たして何を映し出すのか。


百話の物語を語り終え、成仏へと近づくこのヤモリ、


さぁ、皆様、奇妙な世の隙間への幕開けでございます。




【細身の神】



米加田満、17歳。


皆から「ミッチー」と呼ばれる高校生は、ふくよかな体型がトレードマークだった。


だが、痩せたいと思ったことは一度もない。


食べたいものを食べたいだけ食べる――それが彼の信念だった。


野菜中心の生活? そんなものはミッチーの世界には存在しない。


待ちに待った夏祭りの夜。


ミッチーは縁日の引換券を握りしめ、神社の境内へ向かった。


焼きそばの香りが漂う屋台には長蛇の列ができていたが、彼は焦らない。


並ぶことすら祭りの楽しみだと知っている。


「ミッチー、また来たの?」と顔なじみの屋台のおじさんが笑う。


「もちろん! 今年も三つ!」ミッチーは焼きそばを受け取り、ベンチで一気に平らげた。


「おじちゃん、今年は一段と美味いよ!」


次はたこ焼きの屋台。


「おばちゃん、たこ焼き三つ!」


「ミッチー、ほどほどにしなよ」とおばちゃんが呆れ顔で言う。


「たこ焼きは祭りの主役だろ。ちゃんと食べなきゃ罰が当たる!」


軽口を叩きながら、ミッチーはたこ焼きを瞬く間にたいらげた。


だが、祭りの本番を前に、突然の腹痛が彼を襲った。


「痛っ…まだそんなに食べてないのに…そういえば、便秘で5日出てないな。」


せっかくの縁日で腹痛なんて最悪だ。ミッチーは神主のもとへ急いだ。


「神主のおじさん、お腹痛いんだ。薬ない?」


「ミッチー、食べ過ぎだろ。社務所は人でごった返してるから、本殿の棚に救急箱がある。そこから勝手に取って使ってくれ。」


「大丈夫、本殿なら慣れてるよ!」


ミッチーは本殿へ急いだ。


神社の本殿は、勾玉のご神体が鎮座する神聖な場所だが、特別な夜だけ扉が開け放たれている。


そこにはもう一つのご神体があった――痩身を司る「細身の神」の小さな石像。


古びた伝承によれば、この神は過剰な肉体を削ぎ落とし、完璧な姿を約束するとされている。


かつて飢えに苦しむ時代、村人たちは細身の神に祈りを捧げた。


神は、痩身を願う者から削ぎ取ったものを蓄えていたとも言われる。


その蓄えが、まるで肉を分け与えられたかのように、 村人にわずかな糧と生き延びる力をもたらしたという。


石像の表面は滑らかで、どこか不気味なほどに細く、まるで肉を持たない影のようだった。


その傍らに置かれた薬箱には、「細身の神の恩寵」と呼ばれる丸薬が収められているとの口碑が残っていた。


丸薬は、痩身を求める者に神の力を授けるとされ、しかしその代償は誰も語らなかった。


ミッチーは古めかしい木目調の薬箱を見つけ、「癪、疝気、渋利腹」と書かれた小箱に目をとめた。


「渋利腹」は腹痛の薬だと直感した。


箱には「一回一丸、白湯にて服すべし。一服一丸限り。二丸服すれば、身を損ずる恐れあり」と記されている。


ミッチーは丸薬を一つ飲み、間もなく襲ってきた便意にトイレへ駆け込んだ。


久々の解放感に高揚しながら、彼は「この薬、すげえ!」と呟き、薬箱をこっそり持ち帰った。


夏休み中、ミッチーはその丸薬を飲み続けた。


すると、驚くべき変化が訪れた。長年の肥満が消え、まるで別人のような体型に。


鏡に映る自分に、ミッチーは目を奪われた。


「これが…俺?」夏休み明けの学校は彼の変貌で大騒ぎだった。


「ミッチー、めっちゃかっこよくなった!」


「どうやって痩せたの?」


同級生の賞賛に、ミッチーは有頂天だった。


初めて浴びる脚光の甘美な響きに、彼の心は酔いしれた。


だが、話題はすぐに薄れ、注目は別のものに移った。


あの喝采をもう一度味わいたい、もっと目立ちたい。ミッチーはそう願った。


だが、丸薬の効果は止まったままだった。


そこで彼は、箱に記された禁忌を無視し、丸薬を二つ飲み始めた。


効果は即座に現れた。体がみるみる細くなり、まるで肉が溶けるように消えていく。


鏡に映る自分は、まるで彫刻のように鋭い輪郭を帯びていた。


「もっと…もっと肉を消したい」とミッチーは呟いた。


だが、周囲の視線は変わり始めた。


「ミッチー、痩せすぎじゃない?」


「なんか…病気みたいだよ。」心配の声が聞こえる。


だが、ミッチーはそれを嫉妬だと誤解した。


「みんなくそくらえだ。俺はもっと目立つんだ!」


ある夜、鏡の前に立ったミッチーは異変に気づいた。


頬はこけ、肋骨が浮き上がり、腕はまるで枯れ枝のよう。自分の体が、まるで他人のもののように感じられた。


「…何だ、これ?」初めての不安が胸をよぎる。


トイレに行くたび、体重が減っていることに気づいた。


いや、減るというより、肉そのものが削れている。


便器に流れるものは、ただの排泄物ではない気がした。


まるで自分の体の一部が、トイレに吸い込まれているような…。


ミッチーは恐怖に震えた。だが、丸薬を飲む手を止められなかった。


あの脚光を取り戻したい。もっと痩せたい。その欲望が、彼の理性を飲み込んでいった。


夜ごと、鏡に映る自分の姿はさらに異様になっていく。


ミッチーは知らない。石碑に刻まれた痩身の祈りを捧げ続けた者の末路を――


皮膚は粉をふき、薄紙のように剥がれ落ち、 目は落ちくぼみ、骸骨のような微笑みを浮かべていた。


それは、神に肉を捧げた者の“祝福された姿”とされた。


友人たちは彼を避け始め、教師たちは心配そうに声をかけ、親は病院へ連れて行こうとした。


だが、ミッチーは聞く耳を持たなかった。


「みんなくそくらえだ。俺は完璧になるんだ!」


ある朝、ミッチーは自分の腕を見下ろした。


血管が浮き上がり、皮膚の下で脈打つ様子が透けて見える。


指を動かすたび、骨が軋む音が聞こえた。


トイレに行くのが怖かった。が、便意は容赦なく襲ってくる。


我慢すればするほど、腹に刺すような痛みが走る。


「もう…我慢できない…」


彼は震える足でトイレに向かった。


その日、学校のトイレに駆け込んだミッチーは、便器の前に座り込んだ。


体が軽い。あまりにも軽い。便意とともに、何かが体内から抜け出ていく感覚。


排水音が響くたび、彼の体はさらに縮こまるようだった。


ふと、床に落ちた自分の影を見た。


そこには、人の形をしていたはずのものが、細く、歪んだ輪郭で揺れている。


まるで、影そのものが彼を嘲笑うように――


「やめろ…やめてくれ…!」


ミッチーは叫んだが、声は掠れ、ほとんど聞こえない。


トイレの個室の壁が、急に狭く感じられた。


自らが殻を抜け出し、何かが溢れ出す――そんな感覚。


部屋そのものが彼を締め付けてくるようだった。


鏡のないこの空間では、自分の姿を確認する術がない。 それが、かえって恐怖を煽った。


自分がまだ「人」として存在しているのか、確かめる術がない。


最後の便意が来たとき、ミッチーは抵抗する力を失っていた。


体が震え、冷や汗が額を伝う。


便器に流れる音が、まるで自分の命が吸い込まれる音のように聞こえた。


視界がぼやけ、意識が遠のく――「俺は…消えるのか…?」


そのトイレのドアは、二度と内側から開くことはなかった。


翌日、ミッチーの不在に気づいた同級生が、トイレの個室を覗いた。


そこには、ミッチーの制服とカバンが、まるで主を失った抜け殻のように放置されていた。


便器の中には何も残っていなかった。


だが、床の隅に転がる小さな薬箱に、その者の目は釘付けになった。


「細身の神の恩寵」と書かれたその箱を、影のような手が拾い上げた。


暗闇の中で、かすかな音が響く――小さな丸薬が、喉を滑り落ちる音。


静寂の中、その者はただ、じっと薬箱を見つめていた。


まるで、新たな欲望が目を覚ますのを待つように。





ふふふ、皆様、いかがでございましたでしょうか。


細身の神に祈りを捧げ、肉体を削り続けた少年の末路。


トイレの個室に響く排水音は、命そのものが流れ落ちる音だったのか。


薬箱は、新たな欲望の影の手に渡ったようで御座います。


このヤモリ、世の隙間を這いずり集めた第八の物語の幕を、そっと閉じさせていただきます。


百話の物語を終え成仏するまで、残りは九十二話。また、次の隙間でお会いいたしましょう。

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