ROUND14 アンド ジャスティス フォー オール 抗いはじめた少年
昨日の夜からずっと雪が降りつづいて朝になっても一向に止む気配はない。長袖のポロシャツは生地が痩せて袖は解れて破けているから、雪風が入り込んで来て前腕まで冷やす。冬用の上着は持っていないから雪の降った通学路を歩いていると学生服が真っ白になる。ウールだから断熱されて雪が溶けずに生地の表面に積もるんだ。
寒くてもいいから晴れていてほしい。空を見上げると四方隅々まで曇天が広がっている。学校に行くときは指定された服と帽子しか身に着けてはいけない。でもそんなものは学生服以外は何も持っていないし、自分で刈り上げた坊主頭がどうしても寒くて仕方ないから指定外の帽子を被っている。
亡くなったおじいちゃんの持ち物だ。赤いエバーラストのハンチングで、ロゴはクラシックスタイル。アメカジの格好良いデザインですごく好きだ。ベロアの生地も暖かく感じて助かる。
僕が自由に使える物はおじいちゃんの遺した持ち物しかない。去年の春にカオサイのジムに行き始めたときは、おじいちゃんの持ち物だったグローブとかリングシューズとかを持って行って使っていた。だけどすぐに『そんな貴重品を練習に使うな』って薬局で働いているというボクシング好きなサトーさんて人がびっくりした顔で止めてきた。
サトーさんは『勿体ないからうちで綺麗にして保管する』と言うので、おじいちゃんの持っていた何十年も昔のウィニングのグローブもリングシューズも全部渡した。その代わりに新しいウィニングのグローブとかシューズ、マウスピース、バンテージ。とにかく練習に必要な物をサトーさんは僕に買ってくれた。あの古い道具はそんな貴重品だったのかな。おじいちゃんのボクシンググッズがなくなったのは少し悲しかったけど、サトーさんはあの道具達を大事にしてくれてるみたいだし、何より新しいグローブやシューズを貰った日は嬉しくて抱いて一緒に寝たくらいドキドキが止まらなかった。
ジムはすごく楽しい。練習はまだついていくのが精一杯だけど毎日行ってる。ジムとチャーンの掃除とかお手伝いで会費の代わりにしてもらってるから毎日やらなくちゃいけない気がするし、チャーンのご飯を食べさせて貰えるのも嬉しい。
反面学校は辛い。勉強は好きなんだけど、いつも学校に居てはいけないような気分になってしまって居た堪れない。辛くても勉強はしたいから楽しいジムのことを考えながら通学路を歩く。そうすると少し気が紛れる。
道も雪で真っ白だ。氷になった水たまりに雪が積もっているところを踏んでときどき転びそうになる。しばらく歩くと降雪が水分を多く含んできてカキ氷みたいな質感のものに変わった。手や顔に当たると痛いくらいに冷たい。
通学路は僕の見る限り学生は誰も歩いていない。その代わり道路は車が多くて踏切も交差点も忙しそうにブレーキランプがチカチカと赤く光っている。
学校が近づいてくると校門近くの路肩にハザードを点けた車がたくさん止まっているのが目に入る。降りてくる生徒は皆マフラーを巻いたり学校指定のPコートやダッフルコートなんかを着ている。それらを目の当たりにしてしまうと自分の格好が見窄らしく見えているのではないかと惨めな気持ちが滲んでくる。それにつれ背中が丸まっていってしまうのが分かる。ダメだ。と、ぐっと胸を張って顎を引く。気力を奪う惨めさに抗う。先生に見つかると取り上げられてしまうから、そろそろハンチングを脱がなくてはいけない。つばを掴んで膝にパタパタと当て雪を払い、バッグの底に押し込んで隠す。
校門をくぐって昇降口へ急ぐ。靴の片方にソールがすり減って穴があいているところがあるから冷たい水が染みている。下駄箱で靴を脱いだときついでに片方だけ靴下を脱いでポケットにしまう。
今日は最初の授業が英語だ。嫌だな。英語は得意だし好きな科目だから1年生のころに3年生までのワークブックは勝手に自分で全部終わらせた。でも英語の授業は嫌いだ。今朝の空模様みたいな気分で教室へいく階段を登る。
「あら。あんたまたそんな小汚い格好して。そんなんじゃ女の子にモテないよ。靴下もまともに履けないんだ」
階段の途中ですれ違った英語の女教師が冷めた表情で僕を睨めつけながらそう話しかけてきた。
「‥おはようございます。汚い格好ですみません」
この女教師は担任だ。僕は別に用事はないんだけど、女担任はこっちの顔を見るたびこんな感じで声を掛けてくる。今日の空模様みたいな気分に、冷たい水が染みてくる靴を履いたまま脱げないような気分も追加された。
「あんたいつも声小さいよね。もっと大きな声で話せないの。気持ち悪い」
うるさい。この人の傍にいたくない。僕はたまらずその場から駆けて離れた。
教室に入ったら恥ずかしいけどストーブの置き皿の上に脱いだ靴下を乾かしたくて置いておいた。英語の授業の前に朝のホームルームがある。だからあの女担任は朝のホームルームに参加して1時限目の英語が終わるまでの90分ちかくも教室に居続けることになる。今日は本当に嫌な日だ。
ホームルームではいつも女担任がまずクラスの生徒を誰か1人批判して晒し上げる。それは決まって反論できない気の小さい虐めに遭っている生徒だ。それが終わったら誰かを褒める。それは打って変わってクラスの中心人物で女担任の言うことを忠実に聞く生徒で、先に晒し上げを喰らってた生徒を虐めている加害者だ。
始業の鐘がなって程なく女担任が教室に入って教卓の前でこちらを向いて止まる。
「グッモーニンエブリワン。ハワユー」
ガラガラッと生徒が椅子を引く音が教室の中で響く。
「グッモーニン『ミズ』サトウ。ウィアーファインサンキュー」
ガラガラギィ。着席でまた椅子が鳴る。
「今日は残念なお知らせがあります。もう2年生の1月も終わるのに3者面談が終わっていない人が1人残っています。個人の名誉のためにファーストネームのイニシャルしか言いませんがそれは『K』くんです」
皆ひそひそと話して僕の方を見てくる生徒もいる。
「『K』くんは私の出した課題もやらないし保護者の方に学校行事の連絡もしないから保護者の方は誰もPTAの活動に参加しません。何の抵抗のつもりなのか修学旅行のお金も一度も積んでいませんでした。一括で払えば参加できると言ってあげたのに結局修学旅行も不参加でした」
嘘だ。課題は必ず出しているけど女担任は『気付かなかった』と言って添削しないで返してくる。お母さんは僕が何を言っても面談には来ないし、お父さんが家にいるときに話しかけたら必ず殴られるからそもそも何も頼めない。修学旅行のお金なんかも一括で払えるわけがないのは知っているはずなのに。
「それに。だらしないこと極まりない。床に落ちているシャーペンの芯を拾って摘んでノートをとっていることもあります。私見ました。あぁみっともない。嫌がらせなのか今日も汚い靴下をわざわざストーブの近くに置いてます」
‥されは事実だけどおじいちゃんが使っていた文房具はもう全部使い切ってしまって何もない。リサイクルショップに売れるものも、もうほとんどなくなってしまった。一度サトーさんにそのことを話したら文房具がひと通り入った新品のペンケースを買って寄越してくれた。でも学校に持っていったら女担任が『指定の文房具じゃないから持ってくるな』と言ってきたので、学校へは持っていかずに家で使っている。
ストーブの安全柵には他の生徒もマフラーや手袋をピンチで留めて乾かしている。僕はその中に混ぜて汚れた靴下をピンチで留めるのが気が引けたからストーブの底にある置き皿の近くに置いておいただけだ。嫌がらせをするつもりは全くない。
少し前までホームルームの吊るし上げは僕じゃなかった。母子家庭で痩せて背の低い男子生徒だったが1年生の春休み明けから不登校になってしまった。こんなに嫌な気分にさせられているとは分からなかった。自分のことで精一杯で気付かなかった。その男子生徒に声を掛けてあげれば良かったな。と今さらだけど思う。
女担任がヒートアップしてベラベラ喋り続けてる。他の生徒は次第にざわめき始めて
「ケイだよね」
「ケイやばいな」
と、どんどん声も大きくなり僕の名前を聞こえるように出してくる。
「はい。ほら、私はイニシャルしか言ってませんよ。特定の誰かと決めつけてはいけません。ね、ケイくん」
女担任が慇懃な口ぶりで笑って近寄ってくる。自分は加害者ではない。と僕に対する嫌がらせ行為を否定する材料を頑張って拵えているようだけど幼稚さを感じて尚更気に障る。
今度あの母子家庭の男子生徒の家に行ってみよう。会えたらこの女担任のことをすごく悪く言ってあげよう。少しは気が晴れると思う。
続いて女担任の目の前でよく僕のことをからかってご機嫌とりをしている学級委員長が褒められる番になった。
ひとしきりそいつを褒めて、ようやく授業が始まった。最初に先週のテストが返された。それを見てびっくりして思わず女担任に質問した。
「あのこれ、多分どこも間違っていないと思うんですけど何で70点しかついてないんですか」
間違えようのない難易度の問題だった。話し掛けたくない女担任に自ら声を掛けたのは、話し掛ける嫌悪感を超えるほどの理不尽に対する怒りを覚えたからだ。
「なに突然。大きな声出せんじゃん、普段から出せよ」
「そんなこと関係ないでしょ。そんなことより何でこのテストこんなに間違いつけられてるんですか」
女担任が露骨に舌打ちをして答える。
「何言ってんだか。作文でdislikeとかhateなんて使っていいと思ってるの。I don't like でしょ。get itってなに。understandでしょう。私はそんな言葉教えてないから間違ってんのよ」
「‥」
呆れるあまり返す言葉もなくなった。
クラス全体から笑い声が起きる。さすがに今日はもう帰りたいけど給食食べて帰らないと練習出来なくなる。給食のおばさんにいつも残ったパンと牛乳も貰ってるからそれもなくなると辛い。少なくともそこまでは我慢しないと。せっかく午後は数学の先生にお願いしようとしていた教えてほしい問題のピックアップ集も作っておいたけど、お願いするのはまた今度にしよう。
この嫌で嫌でしかたない場所から意識をそらして、給食の時間が早く来るようにしたい。どうしても辛いときにやる取っておきの手段を使う。おじいちゃんがよく話してくれた大好きなサルヴァドール・サンチェスというボクサーの話を集中して思い出すことだ。
サンチェスはお金持ちの家に産まれたわけではなかったけど、勉強がすごくよく出来たみたいだった。ボクシングはアカデミーに通ったような上手なものではないけど17歳でプロになってから対戦相手をことごとく倒して、ついには念願の世界チャンピオンになった。サンチェスはファイトマネーをたくさん稼いで、その金で医科大学に通って医者になるのが夢だと雑誌のインタビュアーによく語っていたとも聞いた。だけど彼は医者になる前に交通事故のせいで23歳で死んじゃったみたい。
でもそれはおじいちゃんに言わせると、サンチェスの魂があまりに燦然と輝いていたから天使が自分たちの仲間と間違えて天の教会に連れて行ってしまっただけなんだそうだ。だからサンチェスの夭折は悲しむことじゃなくて、天使を勘違いさせるくらいの魅力のあるスターだったって証明だ。って言ってからいつもサンチェスの話を終わらせてた。
おじいちゃんの好きなサンチェスの話を何回も聞いているうちに僕もサンチェスが大好きになった。おじいちゃんの話は何でも好きだったけど、とりわけサンチェスの話は大好きだ。思い出すだけでワクワクするし勇気も湧いてくる。
サンチェスの話を思い出しているうちに英語の辞書をなんの気無しに開いた。サルヴァドール・サンチェス。多分英語じゃないから載ってない。それに人名だ。『S』の索引をペラペラと捲る。『savior』セイヴィアという単語が目に付いた。サルヴァドールに似た語感だ。救世主、救済者だって。最後まで読むと(仏)sauveurセラヴィ(西)salvadorサルヴァドール‥
え。サルヴァドール‥。いた。辞書のその1節を何度も読み返した。何でだかさっぱり分かんないんだけどまぶた一杯に涙が溜まってきた。まわりにバレないように袖のほつれたポロシャツを摘んで目の上にそっとあてた。生地がボロだからよく涙を吸ってくれる。
なんだサンチェスは救世主だったんだ。だからおじいちゃんはあんなにサンチェスのことが好きだったのかな。涙を全部ボロ布に吸わせ終わったら自然と口角が上がってきた。胸の奥がぽかぽかと温かくなる感覚もある。こんな気分で居られるなら給食の時間なんてあっという間に来てくれるな。と思う。
それから何度もsalvadorの文字を読んでおじいちゃんの話を思い出していたら、どんどん心の中の曇天が晴れて濡れた靴も乾いていった。‥でもそこですかさず女担任が僕の表情に気付いた。
「あらあんた。何にやにやしてんの。自分のテストの間違いを指摘されて、至極当然の理由だって理解できたから嬉しいのかしら」
女担任はものすごく嫌そうな顔で座っている僕の顔を見下ろしている。知っている。この女担任は僕のお母さんと同じなんだ。僕が楽しそうにしているのが嫌いで、僕が嬉しいと思うことを邪魔するのが楽しいんだ。
そんな奴の機嫌を損ねないように、見つからないことを願いながらこそこそ避けているのが馬鹿らしく思えてきた。自然と口が開いた。
「ねえ、先生はサルヴァドールってスペイン語は知ってる。英語だとセイヴィアだって。ふふ、知らないよね」
僕は女担任の顔をしっかり見据えて、背筋を伸ばして快哉とにこやかに話してやった。
「え‥なになに‥。ちょっと‥このガキ」
女担任は一瞬で顔を真っ赤にして、手に持っていた教本を頭上に振りかぶった。それ以上あがらないくらい真っすぐに伸ばした手に背表紙をこっちに向けた教本が握られている。刹那それが思い切り僕の頭に叩きつけられた。冷たい外気に当たっていたせいで髪の根が締まった頭皮から一拍おいて温い血が流れてきた。クラス中がざわめく。
それから数日経っても女担任の暴力は何の問題にもならなかった。僕は誰にも暴力を振るわれたことを話さなかったし、両親はそもそも僕が怪我したからといって興味はない。女担任はクラスの中心人物と口裏を合わせて、僕が不注意で転んだ。ということにしたらしい。ただそれ以降女担任からの直接の嫌がらせはなくなった。ひたすら無視をされるだけの後ろ向きな方法に変わった。無視されるのも面白くはないけど今までよりずいぶんマシだ。母子家庭の男子生徒に、このことも教えてあげよう。また学校に来れるようになったら、そのときは僕は味方だってことも。
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