ROUND12 ザ ウォーリア いちかばちか
「ケイ、ねえケイ。オーケーイケるネ。大丈夫よ。マイペンライ」
頬を軽く叩かれる。頷いて答える。カオサイがマウスピースを取ってくれた。右耳の鼓膜が裂けてるから周りの音が頭の中で跳ね返るみたいに聞こえて嫌な気分だ。ムーデンが氷水につけて冷やしたアンスウェルで頬と眼尻をクーリングしてくれる。
しくじった。1ラウンドの冒頭で日本拳法君のいきなりの左アッパーが顎に刺さったのだ。自分は右利きのサウスポースタイルなので利き手で力を乗せたパワージャブを突くのが得意だ。どの試合でも頻用している。そこを突かれたのだ。
初手の右ジャブにいきなり左アッパーを合わせられた。思わずダウンしそうになったが踏ん張って持ちこたえた。ただ、アッパーを喰らい目の焦点が合わないうちに切り返しの左フックを右耳に当てられた。そのときに鼓膜が裂けたのだ。
鼓膜は音の知覚をするために受容デバイスとして皮膚の一部が変化したものだ。つまり皮膚なので多少の傷は再生する。だからこの程度の外傷で耳が聴こえなくなるなんてことはあり得ない。しかしながら現時点ダメージはなかなかにデカい。
すぐにプランを変更した。1.2ラウンドはジャブとショートのストレートを主体にしてガードを固めてダメージの回復に努めるラウンドにした。しっかり顎を引いてガードをあげた。日本拳法君は俺の試合をちゃんと研究していたらしい。ありがたいことだ。どんな相手でも油断せず向き合う真面目な奴だということが分かった。良い情報だ。
1ラウンドはどうにかダウンを回避してコーナーに戻るのが精一杯だった。2ラウンドはとにかく回復のためにガードを固めて日本拳法君の目線を追いながらジャブとショートストレートで頭めがけて角度やタイミングの変化をつけながら小さなパンチを出し続けた。1.2ラウンドでこっちのパンチがミートしたのは出したパンチ全体の10%くらいのものだ。今のところ間違いなくフルマークでポイントを日本拳法君に付けられてる。
「セコンドアウト、セコンドアウト」
アナウンスが聞こえてくる。カオサイがうがい水を頭から浴びせてくれる。
「大丈夫、勝ってるヨ」
見え見えの嘘で励ましてもくれた。あはは。全部ポイント取られてるよ。余裕なんて全然ないのに笑えてくる。
コーナーの椅子を持ってカオサイとムーデンがセコンドアウトする。立ち上がると同時にゴングが鳴る。オーケー、だいぶん回復したし『アジャスト』した。日本拳法君がすごい勢いでリング中央に突進して来る。イケる。右のパワージャブを顔の右側面に直線で打つ。ガチン。刺さった。日本拳法君が出した左アッパーは軸がズレて右肩内側をかすめた。すかさず左側にダッキングしながらサイドステップする。バスケットボールのピボットの動きに近い。日本拳法君の体に沿ってさっきと逆のポジション取りをする。
今度は左ストレートを顔の左側面に直線で打つ。これも突き刺さる。ダウンはしなかった、たたらを踏んでよろけながらも持ちこたえた。さすがだ。ただし日本拳法君の目には動揺の色が隠せない。このまま押し切りたい。だがそれ以降、日本拳法君はガードをガチガチに固めてディフェンスに徹したため3ラウンドはそれ以上の山場は作れずに終了した。ゴングが鳴りセコンドに戻る。このラウンドはポイントは取れただろうが、取っても1ラウンド分挽回しただけだしリキと満兄貴に納得してもらうのに判定では話にならないだろう。
ちなみに何でパンチが当たったかというと、いわゆる『盲点』を突いたのだ。ものの例えの盲点ではなく、まさしく解剖学的な盲点だ。目の中心から鼻側に約15°ほどの一点に視神経の束が出ている網膜の穴がある。そこの延長線上が盲点だ。その一点だけものを視覚で捉えることが出来ない。例えば白い紙にペンで直径2cm程の丸を塗ってその角度に塗った丸を動かしていくと見えないのが解る。本当にぽっかりと見えなくなるのだ。
それを日本拳法君の反応や表情から1.2ラウンドを使って効かない小さなパンチを出しまくり推測して角度をアジャストしたのだ。トライアル&エラーの研究結果である。日本拳法君はもう俺のストレートパンチを目で追って躱すことは相当困難になった。
インターバルで青コーナーにもどる。コーナーの色で日本拳法君より格下扱いされているのもちょっと気になるところだ。
「イイねケイ。オーケーヨ。ナックル効かせて。バチン、ブン。カオチャイマイ(分かったか)」
カオサイが大声で指示を出しムーデンは首と目を冷たいタオルでクーリングしてくれる。マウスピースを口の中に戻されながら頷く。もうレーダーとしてのパンチは要らない。これまでの観測データを使ってフルスイングでバチクソに殴れってことを言っているんだ。よく分かるよカオサイ。本旨がばっちり伝わってくる。最高にハイなコミュニケーションだ。ボクシングはこれだから面白い。余裕なんかないのにワクワクしてくる。そうしているうちにセコンドアウトのアナウンスとゴングだ。
4ラウンド目も日本拳法君のガードの隙間を縫ってストレートをガンガン目の周辺に当てる。苦し紛れにパンチを出してきたら半歩分バックステップして盲点にパワージャブとストレートをカウンター気味に合わせる。そのまま4ラウンドも2分が過ぎる。変化が現れる。日本拳法君が目線を下げてパンチを出し始めた。さすがに気づいたか。いや、盲点を突いていることに気づいたのではないにしろ、目に頼るのをやめたようだ。日本拳法君のビデオで繰り返し観て情報を集めたコンビネーションを俺のいる方向に当たれば幸いという精度で次々と振り回してくる。目線はこっちの胸から下あたりだ。4ラウンドの終了10秒前の拍子木が鳴る。そのままゴングも。3.4ラウンドのポイントはこっちのもんだ。ようやくイーブンの状態になった。
インターバルでコーナーに戻るときにアイちゃんがジムの関係者席に見えた。ファーサイもいる。今まで気付かなかった。ようやく周りを見る余裕が出てきたのだ。なんとリキと満兄貴も関係者席に居る。こんな奴らそこの席に座らせちゃだめだよ。まったく。ファーサイが案内したのかな。コーナーに座って口に入れられたうがい水をごくごく飲む。もっとくれとジェスチャーする。
「ケイ、そんなに飲んじゃダメ」
わかってる。でもイレギュラーはあったにしろ勝利の下地はやっとこさ出来上がった。口渇感は判断力を下げるからもう少し水が欲しい。ムーデンがカオサイに『飲ませろ』と言っている。
「少しだけネ」
とカオサイがゆっくり口の中に水を入れてくれる。セコンドアウトのアナウンスが響く。
5ラウンドが始まると喝采が鳴り響きざわめきが起こる。いい試合だ。日本拳法君はこのラウンドも目線を下げて突進して来る。ガードは固いままだ。それなら。とガードの上からガツガツ殴りつける。日本ではあまり主流ではないのだがタイやアメリカではガードする腕を敢えて叩く戦法がある。
ガードする腕を叩かれながらも日本拳法君はワン・ツーアッパーとワン・ツーフックを頻用しだす。得意なコンビネーションに偏ってきた。今だ。
日本拳法君が目線を下に向けたままワン・ツーの初動に入った。その瞬間に俺は左足のつま先を外側に向けて踏み出し右膝を浮かせた。右足底のソールはマットからは離さない。日本拳法君は今、こっちの胸から下つまり下半身をメインで見ている。ワン・ツーアッパーの動作の予定だったようだがアッパー予定の左手が自身の腰のあたりで、まるで『蹴りを払う』ように掌を返して止まっている。その瞬間に渾身の右フックを左テンプルに打ち込む。続いて左ストレート、左ストレート左ストレート全部当たる。もう一発。と思ったところでレフェリーが割って入った。ダウン。カウントはしない。レフェリーが手をクロスする。TKOだ。やった。青コーナーを振り返るとカオサイとムーデンが揃ってガッツポーズで雄たけびを上げている。ザ・ファンクスみたいだな。
関係者席を見るとリキとファーサイは腰を振って踊りながらハイタッチしている。満兄貴は立ち上がって拍手をしている。アイちゃんは泣いてる。アキラは‥いないか。チケットあげたけどやっぱり来るのは無理だったか。リキと満兄貴も居るし来なくて良かったかもしれない。そういえばミワDr.もきっとどこかの客席に居るのだろうけど見つからない。
ようやく立ち上がってセコンドに支えられている日本拳法君に近寄って肩を抱いた。赤コーナーにも行って一礼する。
作戦は上手くいった。日本拳法君は全日本のチャンピオンになったくらい競技に浸かっていたから1年や2年でその下地は消えない。だから視線を下に落とした状態で、ムエタイ仕込みのミドルキック『予備動作』を演じたことにで体が反応したんだ。しかもこっちがムエタイの現役プロ選手だなんて情報は誰も知らない。尚更驚いたのだろう。
あくまでも予備動作でつま先の角度を変えて踵を浮き上がらせただけだからルール違反でもないし、なんならこっちが不利な体勢だ。ミドルキックの予備動作に反応してくれずにパンチを出してこられたら不安定な足元ゆえに堪らえる事ができずにそのまま尻もちをついてダウンを取られる。いちかばちかのだまくらかしだ。
青コーナーに戻るとカオサイとムーデンが両側から抱きついてくる。
「ケイ。お前やったネー。マイチャイミライ(信用ならないね)」
ムーデンが言う。この人たちにはすぐバレるとは思ってた。
「ケイ、すごく良いヨ。グッド」
カオサイはだまくらかしも含めて丸ごと褒めてくれた。行儀は悪いがファールではない。ルールの範疇で勝つ可能性をあげる行動は称賛されるべきだ。とカオサイはいつもそういった内容の話をする。
自分の名前の勝ち名乗りを聞いてまた頭を下げる。日本拳法君はスター候補だったからアンダードッグの俺が勝ってしまったためあまり客席からは称賛はない。逆に応援してくれた皆が会場で目立つ。アイちゃんファーサイ、リキと満兄貴も見える。あ、ようやくミワDr.見つけた。立ち上がった小さなおじいちゃんが拍手してる。嬉しくなって両手を降ってミワDr.に挨拶をする。
カオサイが拡げてくれたロープをくぐりタラップを降りた。どうだったろうか。どうにかKO勝利にはこぎ着けたが序盤の劣勢もあった。ダメージも大きかった。顔は赤く腫れて、右の鼓膜も裂かれた。どうだろう、良い試合だと思ってくれたかな。受験が終わった浪人生みたいな心境でリストをテープ固定されている青いグローブをじっと見つめた。
控室に帰って固定のテープを切ってもらっていると、控室のテーブルの上に花束と赤い水引が置いてある。グローブを外して、まだ骨が軋んで強張る手で水引を取って見ると『ミワ イチロー』と活字のようにきれいな時で書かれている。中には5万円も包まれていて、小さなメモに『いつも見ていますよ頑張りましたね』というメッセージがあった。ミワDr.はいつもこうして断ることもできないお祝いを渡してくれる。
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