ROUND6 デスペレート なんとかなれ
ボクシングの試合まではあと2週間ある。今56kgまで落とせているから、バンタム級の118ポンドつまり53.4kgまであと2kgちょい。タンパク質の摂取を極力キープしてウェイトを落としていく。
飢餓状態には小さい時から慣れっこだからそんなに大変だとは思わない。10才ぐらいから両親が揃って家に居なくなることがかなり増えて何も食べない日が丸2日あることなんてザラだった。一度冬休み中で給食もなく、いよいよとなって思い切って露地栽培の雪を掘って白菜を盗んできたときがある。そんときはそれを少しずつ食べて母親が帰るまで飢えを凌いだ。そのときのことを思うと4〜5kgの減量なんて痒くもない。ただ思い出すと陰性感情が噴き上がってきて異様に不快に感じるけど。
ファーサイにインターバルなしのミットを10ラウンドとスパーを4ラウンド相手してもらった。その後バッグを10ラウンド叩いて練習を終わる。
アイちゃんはジムの隅っこで膝を抱えて椅子に座っている。ジム生の女の子とときどき会話はしているが表情は暗い。
練習終わりのクーリングダウンにタイ式ヨガをしているとショウコお姉ちゃんがジムに顔を出した。
「こんばんは。アイちゃんケイちゃん大変だったね。さっきサトーさんからお話聞いたよ」
ショウコお姉ちゃんの声を聞いたらアイちゃんの表情が少し和らいだ。
「お姉ちゃん、これからアイちゃんマンション戻れないしお店も危なくて行けないと思うんだけど。どうしようかってみんなに相談してたんだ」
焦ってショウコお姉ちゃんに声をかけた。アイちゃんも次いで話し出す。
「ショウコちゃんごめんね。私お世話になりっぱなしなのに迷惑かけちゃった」
「そんなこと気にしないで。さっきサトーさんからもちょっと聞いたんだけど、カオサイさんのお店でお世話になれたら安心だから私からもお願いしてみるね」
事態は解決していないけど安心できる雰囲気になってきた。ホッとする。一息ついた感じがした。
「わあ、サワディーカップ。ショウコちゃん。いらっしゃーい。カオサイショウコちゃん大好きヨー」
カオサイがショウコお姉ちゃんの声を聞いたためかジムの2階からパタパタと降りてきた。ルパンみたいに抱きつく振りをしてショウコお姉ちゃんに笑われながらお尻を叩かれてる。
「さっきケイにも言われたけどマイペンライよ。アイちゃん可愛い。お客さまたくさん来る。ずっと居て良い。お店の空いてるお部屋もある。ずっと居る、良い。でもお給料あんまり出ない」
ショウコお姉ちゃんとアイちゃんが顔を合わせた。安心したのかアイちゃんは笑いながら泣き始めた。鼻水も垂らし始めた。良かった。
練習が終わってみんなでチャーンに向かった。賄いを食べながら今後のことについて色々話した。ファーサイにも身辺警護のこともお願いした。手は出すなよ。と耳元で言い含めたけど、うんうんと聞きながらハンサム顔がにやけていた。心配だ。住み込みのアルバイトで家賃光熱費なし賄い付きで5万円がアイちゃんの手取りらしい。取り敢えず安全にいられる場所さえあれば良いと思う。今はカオサイさんに甘えてお世話になろう。とショウコお姉ちゃんがアイちゃんに同意を求めると頷いて『お願いします』と頭を下げた。
みんなでご飯を食べ終わったら俺はチャーンの手伝いの仕事としてやってる皿洗をアイちゃんと一緒にやった。お皿の場所とか洗剤とかついでに教えておいた。
「ありがとうケイちゃん。私今日セーイチくんがマンションに来たとき死ぬほど怖かったの。ドアをドンドン叩いているのも怒鳴っているのも分かったけど動けなかった。電話も鳴ってるの分かったけど見ることもできなくてケイちゃんに連絡も出来なかった」
ようやく安心したのか皿洗をしながら冷静に今日の出来事を話していた。
「とにかくここはやたら強い人間だらけだから襲われることはないよ。これからのことは落ち着いて考えれば良いよ」
「そうだね。それにしてもさっき食べたあの麺料理なにかな。すごくおいしかったよ」
アイちゃんはパッタイを食べていた。みんな苦手だというナンプラーをドバドバかけて美味しそうに食べていたのを思い出してちょっと笑った。
「パッタイだよね。あのソースはナンプラー‥魚醤って言う魚の塩漬けを発酵させた調味料だよ。みんな苦手っていうけどアイちゃんは好きなんだ」
「うん。美味しかった」
安心してお腹いっぱいになったのかようやくもともとの笑顔になっていた。カオサイに相談して正解だったと思う。
そろそろ俺は帰らなくちゃ。気が重い。あの家も母親の俺を拒絶する態度も、いくつになっても嫌いだ。今日も仲のいいジム生に衛星放送で有料放送しているボクシングの試合をDVDに録ってもらったものを頂いたから、それを観るという目的で帰ろう。
おじいちゃんの遺してくれたビデオで大好きにったなコンスタンティン・チューの息子が世界戦に挑む試合だ。どんなに劣勢な試合でもすさまじい右ストレートで挽回して世界チャンピオンで居続けたチューの息子がベルトを争うなんて胸が熱くなる。
自分に楽しいことが待ってると言い聞かせて家に帰る支度をする。皿を片付け手を拭いてロッカーに入れておいたスマホをショルダーバッグに入れようとしたら着信が30件もあった。アキラからだ。なんでだろう。ショウコお姉ちゃんがジムにいたことわからなかったのかな。わかってるなら電そっちに連絡して声かけてもらえばいいのに。
嫌な予感がして手足が冷たく感じる。体の中心に血液が集まって心拍が増す。ノルアドレナリンが分泌されるのが分かる。不安だ。アキラはハートが弱い。何かあったときにちゃんと正しい選択をして災厄を回避出来ないことが多い。どうしたんだろう。折り返しの電話を架ける。数回コールして、耳からスマホを離し画面を見たと同時に通話になった。
「アキラ、どうしたの。電話出れなくてごめん。お姉ちゃんもさっきまで一緒だったからそっちに連絡すればよかったんだよ」
とにかく安否が知りたい。何もないか、どこに居るのか。
「おお。やっと出たよ。どうもこんばんは」
知らない男の声だ。禍々しさを感じる口調だ。遠慮なく圧力を掛けてくる。汗が噴き出てくるのが分かる。
「どちらさまでしょう。アキラはどうかしたんですか。無事でしょうか」
「取り敢えずさ。これから言うところに君来てよ。誰かに相談するとアキラくんだっけ。これ以降連絡できなくなると思ったほうがいいよ。だから1人で来てね。ボディチェックもするからスマホも置いてきて。もし怪しいもの持ってたらアキラくんに会えないよ」
恐喝されているわけではない。怒鳴りもしないが心理的な脅迫感が強い。交渉慣れしてる感じが汗が目に入ったときのようなひりつきを全身に起こす。
「すぐに行きます。競一がすぐ行くから静かに言うこと聞いてまってろ。とアキラに言っておいてください」
「へえ。俺はリキっていうんだ。これから言うところに車駐めておくからすぐ来てよ」
アキラよ。とにかくすぐ行くけど俺はアイちゃんのトラブルだけで今のところ精一杯なのだよ。
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