-闘技場-コロッセオのサルバドル-救世主-

千寿 扇寿 ちとせ みこと

ROUND1 バング ア ゴング はじまりのカネが鳴る

 すっかりあたりの陽は落ちて公園に人の気配はない。心地よい香りがうっすら残る木製円筒状の公園遊具のなかに寝っ転がって過ごしていた。住んでいる街がまだバブルの残滓があった90年代後半に、ある議員が談合していた工務店に入札情報を漏らしバックペイのために作らせた総高野槙の公園遊具だ。


 作られた理由は卑しいが、その遊具は小さな頃の俺にとってはとても素晴らしい存在だった。柔らかいオーク色のニスが塗られた外観も甘い槙の香りも滑らかな肌触りも全て大好きだった。しかしながら今はずいぶん草臥れている。昔はもっとずっと強く優しい香りで、木材も厚みがあってすべすべしていた気がする。今は削れて痩せ、香りは記憶を頼りに脳内で補完しないと感じられないくらい弱くなってしまった。


 ロードワークの途中でスコールのような夕立に降られたのだが偶然その遊具のある公園の近くを走っていて、何年ぶりなのか分からないけど立ち寄って雨宿りしていた。心地良い香りなのだが子供の頃の記憶が否応なく呼びだされる。香りは厄介なもので意図せず紐づけられている思い出があったりする。


 俺の父親は無役のやくざ者で、ほとんど家に帰らなかった。家にいるときは、たいがいオケラで金もなく酒に酔っている。そんなとき父親に見つけられると高確率で死を予期させるような暴力を振るってくる。だから父親が家にいると、見つけられる前に幼なじみのアキラの家か、この公園まで走って逃げてきた。公園に来たときは必ずこの遊具の中で寝っ転がって過ごした。思い出したくもないことばかりなのだが、香りを補完しようと脳内で記憶を掘り起こすとグリコみたいに嫌なおまけがついてくる。


 雨が弱くなったので公園から出る。小降りになったが水たまりが多い。サイドステップの練習も兼ねて避ける。街の灯がキラキラ反射していて避けやすい。


 時折すれ違う人たちが目に入る。たとえばこの今しがた傘を閉じた男は年齢は50代前半。身長は170cmジャスト。半そで半ズボンだから手足の太さは明確に分かる。大腿の最大直径は25センチ。12.5²×πで約490cm²、下腹がたっぷり出てる。腹囲は90.5cm。皮下脂肪のつき方からして体脂肪25%。体重は76kgで除脂肪体重は57kg、骨量はおよそ体重の15%だから8.55kg。それを引いて、筋量はさらにその40%だから19.38kg。単純な筋量でも165cm58kg体脂肪5%の俺よりずいぶん少ない。脅威にはあたらない。安心する。手に持っているものはビニール傘だから致傷性の攻撃は難しい。ポケットの中はスマホがひとつ。


 これくらいだとだいたい5秒もあれば試算できる。高校生のときに一度、俺がやたら計算が速いことに興味を持たった担任教師が、暇をこいてたスクールカウンセラーを呼んでWISC(知能テスト)を俺に受けさせた。結果はトータルIQは通常上限の130だった。特に知覚推理と処理速度は130をかなり超えていて正確に計測できなかったようだ。俺の頭は授業を受けたり読んだ本で覚えた計算のスケールを使って、目に入る事象を勝手に処理して数値化してしまう。ときどき鬱陶しくなる。目に入る人間を無意識に分析しながらだいたい12.8km毎日走る。


 俺にボクシングを教えてくれる師匠のタイ人カオサイに『1日8マイル(12.8km)走れ。たいへん?アライワ(何言ってんだ)走れ』と、13歳のときに言われてから10年間ほとんど休みなくこなしている。今は走らないと眠れないし気持ち悪い感じがある。時速13km/hで走るとおおよそ1時間かかる。インターバルも含めた世界戦のフルラウンド時間プラス10分。スタミナを養うのにちょうどいい負荷だ。


 ロードワークも折り返しになって街の灯りが遠ざかる。足元が薄らぼんやり見える程度の街灯しかない高速道路下まで来た。そこにあるトンネル歩道をくぐっていく。進むにつれどんどん民家も古く少なくなっていく。俺の家はそんなしみったれたところの外れにある。もう死んでしまった意地悪な大叔母が近所の大工にだまされて建てた欠陥住宅だ。大叔母が死ぬまでは家賃を払って住んでいたのだが、今は会ったこともない遠くにすんでいる親戚が相続していて家屋の持ち主がその人になっている。その人が固定資産税等を払っているらしいが、うつ病で休職中の公務員らしく何の連絡もない。なので今は払う宛先もわからないまま家賃無しで住んでいる。


 家の中に入ると『もったいない』という理由で8月中旬だというのに冷房もつけず灯りも消して横になりながらスマホでゴシップ記事を読んでいる母がいる。まだ50代だが人工透析をしていて顔色はいつも悪く70の婆さんみたいだ。


 父親は何年か前にどこの誰だか知らない女のアパートに転がり込んで1人で死んで居るところを発見された。循環器不全という曖昧な病名を後に付けられた。つまり死因もはっきりせずよく知りもしない場所で野垂れ死んだのだ。俺はそんな父親は当然嫌いだったけど、この母親も大嫌いだ。父親はひたすら俺に暴力を振るった。だが母親は暴力の他に俺の心理を本能的に読んでいたのか心を傷つけようと選んで卑しい言葉を吐いていた。ときには無関心を装い無視をした。とにかく俺はそんな母親が嫌いで仕方ない。だけど俺がそんな母親でも見捨てたら、俺も両親と同じような非情な人間になってしまう。そんな気がする。だから入院が必要なときは保証人にもなるし身の回りの世話もする。胸糞悪いけど俺は両親と同じ人間になりたくないから見捨てない。儀式的なものだけど面倒をみている。


 母親は俺が帰宅したことに気づいても反応はない。

「ただいまお母さん」

俺が声をかけてようやくこっちを向いた。ただそれだけ。暗い部屋の中でも分かるような血の気のない顔でも表情は険があって俺を拒絶しているのが分かる。


 母親は俺がトレーニングするのをすごく嫌う。13歳のころ家の近くに、タイ人の元ボクシング世界チャンピオンであるカオサイがジムを開いた。そこに俺が通うようになったとき『力をつけられたら困るから行くな』と俺に言って放った。

 つまり、いずれ暴力で俺をコントロールしようとしても格闘技で抵抗されそれが出来なくなるかもしれないから嫌だったらしい。俺はそれまで、いや今に至って父母に暴力を振るったことはない。父母の暴力に抵抗すらしたこともない。だけど、いつか反撃されるのではないかという後ろめたい気持ちが母親の心の何処かにあったのだ。そのときの母親からぶつけられた嫌悪感はずっと忘れられない。


それでも13歳の俺は、そのカオサイに頭を下げて『どうにかして習いたい』『何でもするから教えて』と鼻水垂らして泣きながら喰い下がった。会費が払えない代わりにジムの掃除とその会長カオサイが持っているタイ料理屋『チャーン』がジムの裏にあるので、そこの手伝いをする約束で通わせてもらえるようになった。まあとにかく母親は俺のことが嫌いで、俺も当然母親が大嫌いだ。


 ロードワーク用のウェアを脱いで風呂の残り湯にさらしてジャブジャブと濯いだあとにバケツに入れて下屋まで持っていく。それをハンガーにかけての物干し竿に引っ掛けてる。水が激しく滴り落ちるが構いやしない。下屋の床板は穴だらけだしアルミサッシはガタついて隙間だらけだ。まるで屋外と変わらない。何より洗濯機を使うと母親の機嫌が悪くなる。舌打ちをしながら『水と電気代がもったいない』『死ね』なんかを俺に聞こえるように、あえて独り言のように呟く。とても居た堪れない気持ちになる。だからこれでいい。どうせ夏だから明日の日中には乾いてる。


 風呂はウェアの洗濯と変わらない。残り湯を浴びて終わりだ。シャワーはついていない。部屋は、というか居てもいい場所はガレージ跡にスノコを敷いた場所だ。冬は寒く夏は暑い。断熱材もないから今はサーキュレーターの風を一晩中体に当てて寝てる。今どき珍しいぶら下がりの裸電球を捻って灯りをつける。19型のテレビに貰い物のDVDプレーヤーを繋げてあるからジムの友人がくれるWOWOWエキサイトマッチの録画ディスクを再生できる。毎晩それを観て好きな選手の動きをトレースしてから寝る。風呂の湯を浴びただけだしどうせ暑くて寝てる間に汗だくになるから、知ったことかとパンツ1枚でせっせと動く。30分ほどしてやめた。なんだかイライラする。サウル・アルバレスが2階級も下のチャンピオンと防衛戦をする。なんていう腑に落ちない試合を観ていたせいもあるし、明日は病理学のテストがあったからでもある。テストだから、とあらためて勉強していない。


 「通学路で教科書読み直すか」

自分に言い聞かせるように呟く。熱くて火傷しそうな裸電球を消して布張りのハンモックチェアに腰掛ける。疲労のためなのか夜に目を閉じて横になると即死的に眠ってしまう。ここ何年も夢なんてみなくなってしまった。


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