第13話 スティッフパーソン
金曜日の帰りの車の中で、リリナに聞いてみた。
「シンレイ先生の資料、仙台の研究室で写真にしたでしょ。ちょっと見せてもらえないかな」
リリナ、
「だめだよ、ニーちゃん。AI研究で一番大事な約束事なの。AI開発用に集めた資料には、どうしても個人情報が混じってしまう。目的外使用は絶対にしない、という原則をちょっと破っただけで、AI研究はどんどん制限を掛けられて、研究が止まっちゃうんだよ」
そう言うと思った。さて、どうしたものか。
土曜日、また青葉教授ご夫婦がお隣にやって来た。すぐにリリナと二人で訪ねて行く。
青葉教授、
「AIドクターの調子いいみたいだね。うちの医局員が、処方箋にサインする以外にやることがないって言ってたよ」
リリナ、
「シンレイ先生の日記や手帳も資料として取り込んでから、人間味が出て、患者さん受けも良くなったみたいです」
青葉先生、
「日記や手帳、見ちゃったの、リリナさん」
おや、青葉教授も絡んでいるのかな。
リリナ、
「私、個人は全く見ていませんよ。箱のままお借りして仙台に送り、機械的に読み込んだあと、箱のまま返送されたものをお返ししただけです」
私、
「ちょっと青葉先生にお聞きしたいことがあるんですが」
ナナさんが急に割り込んで、
「あなた、そろそろ約束の時間じゃない。病院に向かいましょう。片山さん、午後にまた来るから続きはその時ね」
青葉教授ご夫婦は、キャロルさんとマーガレットさんを車に乗せて病院に向かった。
私は、ナナさんも知っているのを確信した。
家に戻り、居間のカーテンを開けて、茶臼岳と朝日岳を見た。二つの山頂を結ぶ稜線が雲で覆われている。北西の強風が吹いているのだろう。深く息を吸い込み、私には知る権利がある、と自分に言い聞かせた。
キャディラックが帰ってきた。私とリリナが、お隣の玄関に行く。青葉先生、ナナさん、マーガレットさんの三人が車から下りて来た。
青葉先生、
「シンレイ先生の酸素飽和度がだいぶ良くなってね、安静剤の投与をやめたから、いつ意識が戻ってもいいように、キャロルさんが病院に残った」
リリナ、
「よかった。ね、マーガレットさん」
私、
「青葉教授にお聞きしたいことがあるんです」
青葉先生、
「今朝もそう言ってたね。まず家の中に入ろうか」
皆で、シンレイ先生の家に入った。朝に焚き付けたソープストーンストーブの薪が赤い
皆が静かにコーヒーをすする。美味しい。私はゆっくりと息を吸い込み吐いた。
私、
「シンレイ先生には、別れた奥さんがいたんじゃないですか」
ナナさん、
「片山さん、わざと内緒にしていたわけじゃないの。怒らないでね。今、病院からの帰りに主人と相談して、全部話してあげようと決めてきたところなの。突然皆を驚かしてもいけないから、マーガレットさんにはもう説明したの」
マーガレットさんがうなづく。
青葉教授、
「片山さんが私の研究室を退職して、那須に来るとなったときから、シンレイ先生は何もかも話していいよと言っていたんだよ。シンレイ先生も、いい機会があったら、片山さんとリリナさんに自分から打ち明けたいと言っていたんだ」
続けて、
「リリナさん、聞いてね。君はシンレイ先生の孫なんだよ」
リリナ、
「そうですか。初めて会ったときから何か感じていました。シンレイ先生と会ったときも、マーガレットさんに会ったときも」
青葉教授、
「シンレイ先生の元の奥様は望月優子さん。耳鼻科医だった。亡くなったのは知ってるね」
ジグソーパズルの最後のピースがはまった。望月優子さん、彼の母親だ。
青葉教授、
「その息子さんが、望月哲郎くん。片山さんの亡くなった恋人だね。リリナさんの父親だ」
私、
「どうしてリリナが私の娘だとわかったんですか」
教授、
「哲郎くんは、朝日岳に登る前にアメリカにいたシンレイ先生に電話連絡してるんだよ。ママが結婚に大反対だけど、もしかしたら恋人の片山アグニさんに赤ちゃんができたかもしれないってね。離婚したあと、初めての哲郎くんからの電話連絡だったらしい」
続けて、
「哲郎くんが朝日岳で滑落死し、相次いで母親の望月さんが亡くなったことに、シンレイ先生は非常に責任を感じてた。いろいろとわけがあってね。そして、もし哲郎くんの子供がいるなら、ぜひ面倒をみたいと考えて、知人に依頼して片山さんを探したんだけど見つからなかった」
更に続けて、
「よく理解していただくため、事件より前の古い話から聞いて下さいね。
シンレイ先生がアメリカに行ったのは、哲郎くんが中学に入る頃。ちょうどその頃、望月さんは甲状腺炎を発症し、病気と子育て、それに仕事で頭がいっぱいになり、電話でシンレイ先生と大喧嘩する日々が続いたそうです。
そのうちに今度は、望月さんが子供のことで興奮すると、両側の脚がうまく動かなくなり、安静剤を飲むと回復するという症状が出た。
シンレイ先生は、自分の出身の神経内科に入院検査を依頼した。下肢の筋電図検査で麻痺は見つけられなかった。担当の若い女医は、望月さんが下肢を動かす時に反対の動きをする筋にも同時に力を入れるのを見つけて、わざと麻痺を演出していると考えて、ヒステリー疑いで精神科を受診させようとした。そのことで望月さんが憤慨して、主治医や看護師と大喧嘩となり、診断がつかないまま退院した。
シンレイ先生が何とかなだめようとしたが、すべての責めを負うこととなり、何とか一時帰国した時に、離婚届に捺印せざるを得なかった」
一呼吸置いて、また青葉先生が話し出す。
「ここから私が登場するんですよ。私は当時、糖尿病研究班のリーダーをしていた。そこに成人発症型の糖尿病患者として望月さんが来た。いろいろ検査すると膵臓を攻撃する自己抗体によるものだとわかった。甲状腺炎も同じように自己抗体で起きているのも判明した。望月さんの病状は、自己免疫疾患だと診断したが、病名まではわからなかった。
その後、私はサンディエゴに留学した。そこでシンレイ先生に出会った。シンレイ先生に興味深い患者として望月さんの話をすると、驚くことに別れた奥さんだという。そしてシンレイ先生が、しばらく考え込んでから、
『やっとわかった。スティッフパーソンだ。スティッフパーソンに下肢限局型があるんだ』
と、正確な診断を下したんですよ」
青葉先生はコーヒーを一口飲んでから、
「精神病ではなかったんです。神経伝達も自己抗体で障害されて、精神的な興奮で筋肉が硬直してしまう病気だったんです。
シンレイ先生は、そのことを望月さんに伝えようとしたが、もう彼女には先生の話を聞く耳がなかった。
その数年後にあの事件が起きた。事件現場に車で駆けつけようとした望月さんに、多分発作が起きた。そして車が転落して、望月さんも亡くなった。
話は長くなりましたが、そういうことです」
私、
「青葉先生、よくわかりました。お話してくれてありがとうございます。私が青葉先生の研究室の秘書になったのは偶然ですか」
ナナさん、
「本当に偶然なのよ。うちの主人が知っていたのは、望月さんの病気のことだけ。シンレイ先生が日本に帰り大学に勤務していたときも、大学退職後に二葉会宇都宮病院で院長をしていたときも、全く昔の話は出なかった。
ところが二年前に、シンレイ先生がもう七十五なので、ストレスの多い院長職を辞めたいと言い出した。辞めてどうするのか聞いたら、那須で暮らしたいと言うの。そこで主人が、望月さんとお子様が亡くなった朝日岳が見える那須ですか、と聞いたら、今主人が話した昔のことを、やっと私達に話してくれたのよ」
続けて、
「ちょうど二葉会で那須塩原に健診センターを作る話が進んでいた。どうしてもレントゲンを読んでくれる常勤の医師がいる。そこで私が付属の小さな診療所を作り、シンレイ先生にのんびり働いてもらおうと思ったの。
神様のご配慮なのか、とんでもない偶然なのかはわからないけど、片山さんも、うちの青葉に大学を辞めて那須で暮らしたいと相談したでしょ。シンレイ先生に、受付事務だけじゃなくて経営も全部任せられる有能な事務員候補がいますよ、と片山さんのことを紹介したら、なんとシンレイ先生が探し続けていたその人だということがわかったのよ」
ここでナナさんが一呼吸おいてコーヒーを口にした。そして、続けて、
「四月に、片山さんがシンレイ先生と働き始めた。背がすらっと大きな美人で、はっきりと物を言い、仕事ができる片山さんを見て、シンレイ先生が、さすが哲郎が好きになっただけのことはある、と感心していたわよ。ただ、子供がいるのかどうかがさっぱり分からない、と言っていたの。
そして八月に、リリナさんがやってきた。誰が見たって片山さんと姉妹のようにそっくりのお嬢さんが現れた。シンレイ先生をモデルに、AIドクター作りたいって言ってね。その姿を見て、シンレイ先生涙が止まらなかったそうよ。
片山さんが歌舞伎を見に行っていた同じ日に、シンレイ先生は仙台のリリナさんのお母さん、神田アクアさんを訪ねたの。そして、片山さんがリリナの産みの母で、自分がリリナさんの祖父であることを確かめたのよ。
アクアさんに、こんなに立派にリリナさんを育ててくれて本当にありがとう、と感謝を伝えたそうよ」
アクアも知っていたのか。私が仙台に行った時にいただいた、那須の紅茶は、シンレイ先生のお土産だったのか。
私、
「いろいろありがとうございます。スッキリしました。なんだか泣きたいぐらい嬉しい」
リリナ、
「私も嬉しいです。自分のことがやっとわかった」
家の前にタクシーが止まる音がした。キャロルさんが帰ってきた。
キャロルさん、
「目を覚ましたわよ。シンレイさん、退院したいと大騒ぎ。一晩は様子を見てからということで、調子良ければ明日の退院となります」
私、
「よかったですね」
青葉教授、
「いま、リリナさんがシンレイ先生のお孫さんだという話をしていたところです」
キャロルさん、
「そうでしたか。私は、クリスマス前に主人からその話を聞いていました。いずれ自分から説明するというので、私は黙っていました」
読者の皆様へ
ここまでお読みいただき感謝いたします。
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