神霊先生 臨死体験とAIドクター

神尾信志

第1話 シャンプーおばけ

 八月の午後三時、いつも通り患者が途切れた。四階にある診療所の待合室に、西日がカッと入り急に暑くなる。

 その待合室で、看護師のスースーが、パンパンに白衣を膨らました体を前かがみにして、高木美帆のスケート練習よろしく、右に左に大股に体を移動させては深く膝を曲げる運動を始めた。ミシュランウーマンのエクササイズ、いつ白衣のボタンが弾けとぶかとはらはらさせられる。

 私、

「スースーさん、ミッドシティのランチのあとでよくそんなに体が動きますね」

 スースー、

「スキーのインストラクター、続けたいしね。夏の運動が勝負なのよ。スクールの人が来ても、還暦の祝いの連絡があったことは内緒だよ、片山さん」

 暑苦しいからやめてくれない、ってところが結局今日も伝わらない。

 那須でも夏は暑いのだ。そんなことをつぶやいたら、聞きつけたシンレイ先生が、そりゃキューリでも夏は暑いよ、と寒いジョークを言うに決まっているから、ここは我慢だ。

 それにしてもシンレイ先生が名付けたスースーの呼び名はひどい。私ならアッチッチと名付けたいところだが、鈴木鈴子なんだから、せめてリンリンぐらいにして欲しかった。

 先生は、診察室の大きなモニターを眺めながら、一階二階の健診センターの胸のレントゲンをチェックしている。カラーシャツにきっちりネクタイをして、襟をゆるめたりはしていない。寿司屋よろしく髪を短く刈り上げて、すごくおしゃれなおじいさんだ。きっと昨日の休診日に、泌尿器科に行っただけじゃなくて、散髪屋にも行ってきたに違いない。ダジャレさえ言わなきゃ、イケオジジなのに、惜しい。

 スースーの動きが目の端に入るのが気になるが、リリナが押し付けていったAI文字起こしをチェックすることにした。

 こちらがリリナに頼んだのは、診療時の録音だけだったのに、そんなんじゃメモリー消費が膨大になるよと言い出して、自分が研究中のAI文字起こしを押し付けていったのだ。

 リリナが仙台に帰る前に、しつこく繰り返した注意点は、

「テキストの緑文字のところをチェックして欲しいの。AI が変換に迷ったところが緑。ニーちゃんが訂正してくれたら、その部分が赤文字に変わって、AI が自己学習する材料になるんだからね」

ということだった。

 姪のリリナは、いまだに私をニーちゃんと呼ぶ。そろそろもっと大人の言葉遣いをしてもらいたいものだ。

 緑文字、緑文字、意外と少ない。休み明けだったから午前に十八人午後に四人、当医院にしては受診者が多かったのだが。

 ありゃこの緑文字、庄司さんとの会話だ。庄司さんは八百屋のおばあちゃん、先生のファンクラブの筆頭だ。指のササクレでも、クシャミをしてもすぐに飛んでくる。

 庄司さん、

「先生、また散髪したの、月に二回は行ってるんでしょ。一人暮らしで暇だから」

 この庄司さんの質問に返す、先生の言葉に緑文字があった。

「そうだよ、三発に二回行っても六発行ったとは言わないけどね」

 ちっとも笑えない。「三発」は散髪、訂正、訂正。

 先生の昭和ジョークは、算数ネタが多過ぎる。今朝も私の東京土産を頬張りながら、

 先生が、

「和泉庄のきんつばか、また歌舞伎かい。アリの夫婦に子供八匹」

 二足す八で十、黙ってアリガトウって言えばいいのに。アリが十なら、トンボはハタチか、全く。


 リュウくんがマキちゃんと一緒にやって来た。まだ四時、いつもより早い。リュウくんは、スースーの孫、小学校四年生だ。

 私、

「まだおばあちゃん帰れないんだよ。勉強しててくれる」

 リュウくん、

「そうじゃないよ。マキちゃんを連れて来たんだよ。先生に診てもらいに。目が痛いんだって」

 成長したものだ。特別支援学級に通うリュウくんが、児童館ののびっこクラブで開かれる囲碁教室に通い出してから、急に集中力がついて来たなと感心していたら、いつの間にか他人のことまで心配できるようになっている。私の目にちょっと熱いものが込み上げて来る。

 囲碁教室を開いている関さんのお孫さんが、五年生のマキちゃん。いつもなら診療の終わる五時に合わせて、彼女がリュウくんを医院まで送ってくるのだ。

 そこへスースーが顔を出して話しかける。

「マキちゃん、三階の眼科じゃなくていいの」

 マキちゃん、

「眼科には通っているけど、よくならないんです」

 リュウくん、大きな声で割り込んで、

「だってシャンプーおばけが悪いんだもん」

更に続けて、

「マキちゃん、一人でお風呂なんだけど、シャンプー始めると後ろに誰か立っているから、目が閉じられないから、シャンプー目に染みて、目が真っ赤になるんだって。結局、おばけなんだよ」

 本当だ。マキちゃんの両目が真っ赤だ。


 診察室からシンレイ先生の声、

「おーい、こっちに入って。先生がいい目薬出してあげるぞ」

 ピント外れな先生の言葉に、私が大きな声ではっきりと言う。

「目薬出したって効くもんですか。おばけよけスプレーでもあれば別ですけど」

 先生、

「ありゃりゃ、まずまず、こっちこっち」

と手まねきする。スースーが二人の背中を押して、診察室に入って行った。

 一応マキちゃんを受診者として受け付けた。市の助成制度で自己負担ゼロだけど、先生が薬を処方するかもしれないし。

 マキちゃんの電子カルテに、AI文字起こしで診察室の会話が打ち出される。リリナがなかなか上手くやってくれている。リアルタイムで打ち出される会話文を見ていると、皆の表情まで見える気がするから驚きだ。

 マキちゃん、

「五年生になってから、一人でお風呂に入ってるんだけど、ある時シャンプーのときに私が両手で頭を洗っていたら、誰かが背中に垂れた私の髪を持ち上げて洗い出したの。エッて目を開けて後ろをむいたら、誰もいなくて、背中に髪がパチャッと落ちてきて、それでギャッとなって」

 リュウくん、

「ええっ、オッカねぇ」

 先生、

「そりゃびっくりするわ。見えないおばけ、かってにマキちゃんの髪を洗ったんだね」

 そして続けて、

「ちょっと待てよ。そのおばけ、とっても親切とも言えるぞ。そのまま洗ってもらったら。マキちゃん楽じゃないの」

そう来たか、シンレイ先生。

 リュウくん、

「変なこと言わないでよ、先生。髪洗いババアと一緒にお風呂に入りたい子供いないでしょ」

 リュウくん、そのとおりだよ。

 先生、

「えっと、そのおばけ、ババアなの」

 リュウくん、

「そりゃそうでしょ。女の子の髪を洗うジジイなんていないでしょ。ジジイじゃただの変態だ」

 リュウくんわかってるね。

 マキちゃん、

「髪を触られたのはその時一度だけなんだけど、それからもシャンプーのときにいつも誰かが後ろに立ってる気がして、目をつむれなくなったんです。それで目が真っ赤になってきて」

 そりゃ大変だ。

 先生、

「妖怪、髪洗いババアは髪を洗うのをやめたのか。でも、黙って立っている。じゃ、そこはほっといて、シャンプーの時にかぶる王様のカンムリみたいのあるじゃん。あれだめかな。それとか、水泳用のゴーグルは、どう。結膜炎治ると思うけど」

そうはずしますか、先生。

 リュウくん、

「先生、そういうことじゃないでしょ。マキちゃんは、おばけにいなくなって欲しいんだよ」

 リュウくん、フレーフレー。

 シンレイ先生、

「だったら、那須ユゼン神社のお守り効くんじゃないかな。魔物を那須与一が、矢でビシッと仕留めてくれるよ」

 リュウくん、

「先生、魔物じゃないでしょ。妖怪、髪洗いババアは、親切なおばけだよ。マキちゃんは、いなくなって欲しいだけ」

 マキちゃん、

「そう。私はいなくなってほしいだけ。やっつけなくていい」

 リュウくん、

「わかった」

と言い出して、リュウくん続けて、

「お願いすればいいんだよ。おばけ、親切なんだから、頼みを聞いてくれるでしょ」

 先生の声が急に優しくなり、

「なるほど、なるほど、一周回ってよく考えてみると」

おじいちゃんが一周回ったら目が回るよ。友蔵心の俳句、がよろける姿が目に浮かぶ。

 先生続けて、

「親切おばけだから、お願い聞いてくれるかもね」

 リュウくん、

「きっとお願い聞いてくれるよ、マキちゃん」

 また先生、

「じゃ、お願いの仕方を考えてみよう。親切なおばけが立っている。でも、マキちゃんはいなくなって欲しい。親切おばけは、マキちゃんがまだ小さい子供だと思って、お世話やこうとしちゃうんだから、

『マキはもうりっぱにお姉さんになって髪も一人で洗えるようになりました、もうお風呂の時にそばに来るのはやめてください、見られるのも恥ずかしいんです』

って言えばいいんじゃないかな」

 リュウくんがマキちゃんに向かって、

「マキちゃん、今のオマジナイ、僕が紙に書いてあげる?」

 マキちゃん、 

「もう覚えたから大丈夫。今日お風呂でやってみる」

さすがしっかり者、マキちゃん。

 やっとスースーが口を挟んで、

「そうだね、それがいいよ、それがいいよ」

と言いながら、二人の背中を押して診察室から出てきた。

 診察室で椅子に座ったままの先生が、こちらに向かって笑顔を見せながら、深々と頭を下げるのが見えた。どうして。


 スースー、

「リュウくん待っててね。おばあちゃん、着替えてくるから。マキちゃん、大丈夫、のびっこクラブまで一人で帰れるね」

 マキちゃんが挨拶し、

「ありがとうございました。さようなら」

と診療所から出てゆく。

 スースーが付け加えるように解説する。

「関さんの奥様、去年亡くなったでしょ、七十で。マキちゃんのママ、下の子がまだ目が離せない三歳だから大変なのよ。マキちゃんのことまで、かまっていられないからね。これぐらいのことは起きるのよ」

 リュウくんが、待合室の窓から、東那須野大通りの歩道を歩くマキちゃんを見つけて手を振った。マキちゃんは、それとは気づかずにやがて弥六通りに曲がり姿が消えた。夏の太陽が西に傾き、黒滝山のシルエットが美しい。

 着替えたスースーが出てきて、リュウくんを連れて帰って行った。

 さ、私も帰ろう。

 シンレイ先生が、診察室から出てきて

「さっき待合室に、マキちゃんを迎えに来ていたご婦人は誰だったの」

と言い出す。

 ドッキリしながら私が、

「やめてくださいよ、脅かすの。誰も来ていませんよ」

 シンレイ先生、

「そうだったっけ。歩道を歩いて帰るマキちゃんの後ろを、ずうっとついて行ったご婦人だよ」

どこまで本当なんだか。まだまだついて行けない。


 数日後、三歳の妹と手をつないで、マキちゃんがママと一緒にやって来た。バターのいとこをスースーに差し出しながら、

 マキちゃんのママ、

「ありがとうございました。あれからマキの目がすっかりよくなりました」

 スースー、

「ありがとう。また太っちゃうは」

 あんたが独り占めするんじゃないよ。

 シンレイ先生が、診察室から出てきて、

「マキちゃん、お願いしてみたんだね」

と尋ねると、マキちゃんが答えて、

「はい、お風呂で大きな声でお願いしたら、おばけ、消えてくれたんです」

 シンレイ先生、

「そりゃよかった。お祈り効いたね。

 ありゃ、ポニーテールのシュシュにテッポウユリが刺してあるぞ。妹さんもテッポウユリを持っている。かわいいね」

 マキちゃんのママ、

「今、おばあちゃんのお墓にお盆前の掃除に行って来たんです。そしたらおばあちゃんのお墓の周りにだけ、テッポウユリが咲いていたんです。それをこの子達にわけてもらったんですよ」

 マキちゃん、

「おばあちゃんの大好きだったお花」

と言って、自分のポニーテールに手を当てた。





読者の皆様へ

 ここまでお読みいただき感謝いたします。

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 引き続きご笑読、お願い申し上げます。

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