第2話

 それからアリアは、「形ばかりの」花嫁になるため、付け焼刃の花嫁修業を施された。

 もちろん、普通の花嫁修業には程遠い。とりあえず普通に歩けるくらいの体にするために――それまでのアリアはしょっちゅう立ち眩みを起こしたりふらついて転んだりしていたので――栄養はあるが味のひどい食事を無理やり食べさせられるところから始まった。マイナススタートにもほどがある。わざわざ不味いものが選ばれたのはもちろん嫌がらせだ。

 それから、ノナーキーの言葉の習得。とはいえノナーキーで話されている言語はトーリアの言語が元になっており、むしろ語尾変化が少ないなど単純化していたので、トーリアで生まれ育ったアリアにとっては文法の習得が容易だった。単語については海に面した国ということもあり諸外国の影響が大きく、トーリアでは使われない単語が多数日常的に使われているようだが、覚えるのにそこまでの時間はかからなかった。

 他にも、トーリアの面目を最低限保つために所作を叩き込まれたり、花嫁衣裳をあつらえたり――ハロルドなどは死に装束だと臆面もなく言ってのけたが――、そうして三か月が過ぎた。

 国をまたいだ王族どうしの婚礼として、三か月の準備期間は短すぎる。だがそこには時間稼ぎをしようとするトーリアの意図があり、それをさせまいとするノナーキーの意図もあり、トーリア側が最大限引き延ばしての三か月だったのだ。

 アリアにとっては、命の刻限にも等しい。ノナーキーに着いてすぐに殺される可能性だってあるし、そうでなくても長く生きていられるとはとても思えない。トーリアが好戦的に再戦の準備を進めているのを見るに、アリアの死は遠からず確定している。

 だからと言って三か月をたとえば六か月や九か月に引き延ばしたいなどとも思わなかった。離宮の掃除や痕の残る折檻からは解放されたとはいえ、相変わらず居心地の悪い環境に変わりはない。王族たちは事あるごとにアリアを貶し、暴言を吐き、痕は残らないように痛めつける。教師として雇われた者たちも事情はあまり変わらず、雇い主たる王族たちの顔色を伺うばかりでアリアには冷たかった。そうでない者もいるにはいたが、すぐに辞めさせられた。針の筵状態を長く続けていたいとは思わない。

 学ぶことが楽しくないわけではなかったが、これもトーリアのためなのだと思うと、遠からず殺される身で身につけるのかと思うと、虚しさが募った。

 いったい、何のために自分はこうしているのだろうと。

 トーリアはアリアを捨てようとしている。ノナーキーはアリアを人質としてしか見ていない。アリアが何を学んでも、この事実の前には無力だ。

 そんな空虚な日々を過ごし――婚礼の日が、やってきた。


 アリアが船と馬車でノナーキーにやって来たのは婚礼の三日前だ。日程にあまりにも余裕がないが、下手にきちんと余裕を取ってアリアがノナーキーの要人と顔を合わせてしまうとぼろが出て突き返されかねないと思われたのだろう。

 トーリアは高地にあり、ノナーキーとの間には山々を挟むため、馬車では通りにくいところも多く時間もかかる。それよりも川を下っていく方が早いし確実だ。ゆるやかに流れる大河を船で下り、平地に出てからは馬車を乗り継ぐ。そうやってアリアはノナーキーに辿り着いた。

 日程に余裕がないので当然、海を見る余裕もない。そんなわがままを許すような状況でもない。死ぬまでには一目見られるだろうかなどと考えながら、アリアは軟禁されるようにノナーキーの城に閉じ込められ、トーリアからついてきた侍女たちによって花嫁らしく仕立て上げられ、婚礼の日を迎えたのだ。

 夫になる人物のことは、ほとんど名前しか知らない。

 第二十二代ノナーキー国王、エセルバート。

 名前以外にかろうじて知っていることはといえば、二十四歳であるということ、王みずから軍を指揮することもあるほどの武人だということ。後者については、そんな冷酷で残忍で好戦的な野蛮人のところに嫁ぐのなんてかわいそうに、とジュリアに哀れまれるていでせせら笑われたり、そんな人にわたくしが嫁ぐなんてごめんですもの、とクラリスから言われたりして知ったことだ。

(……確かに、体格は良いみたいだけれど……)

 ベールのせいで、隣を歩く彼のことがよく見えない。

 その代わり、アリアの顔も周りからほとんど見られずに済んでいる。婚姻成立までアリアの容貌が分からないようにと念入りに選ばれたベールなのだろう。確かにトーリアでは顔を隠す花嫁のベールが一般的だが、ここまで厳重に隠すものではない。緻密で目の詰んだ美しい布地だが、アリアにとってはほとんど目隠しになっている。エセルバートの腕に腕を絡ませることで、うつむいて足元を確認することで、なんとか転ばずに進めているといったありさまだ。

 祭壇に上るときは段差に少し焦ったが、ゆっくりと確かめるように歩いていたおかげで事なきを得た。

 そして誓いを交わし、エセルバートの手がベールにかかり……


 目が、合った。アリアは思わず息を呑んだ。

(なんて……真っ直ぐな眼差しだろう……)

 アリアのそれとは色味の違う、青い瞳。少し癖のある髪は焦げ茶で、トーリアの王族では見ない色だ。あの国の上流階級では色素の薄い髪や肌が尊ばれ、彼のように濃い色の髪や日に焼けた肌は厭われる。

 馬鹿馬鹿しい、と思う。だってこんなに美しいのに。

 彼の見目は良かった。野蛮というより精悍という言葉がしっくり来る。トーリアでは好まれない色合いの髪や肌だが、これならいいと言うトーリア令嬢はたくさんいることだろう。

 だが、その眼差しはこちらへの不信と猜疑に満ちていた。歓迎する気持ちなど微塵も見えなかった。

(……仕方がないか)

 アリアはかすかな溜息ひとつで諦めた。

 甘い希望を抱いて嫁いできたわけではない。しょせん自分は生贄なのだから。

 拒否する手立てなどなかったし、拒否するつもりもなかった。あの城で生きながら腐っていくような日々を思えば、最後に他国を見てから死ぬのなら悪くないだろうと思ったのだ。

(――でも、ひとつだけ)

 ひとつだけ、心に決めていることがある。

 殺されるその時に、みじめに泣き叫ぶことだけは絶対にしない。

 そう決めている。


「王妃様、ご成婚おめでとうございます! 改めまして、コゼットです」

「……ジルです」

 アリアに頭を下げ、二人の侍女が名乗る。栗色の巻き毛で明るい雰囲気なのがコゼット、まっすぐな黒髪で不機嫌そうなのがジル、二人ともトーリア人だ。

 結婚が決まるまでは――決まってからも――侍女を持っていなかったアリアだが、さすがにそれはまずいとの判断だろう、侍女を二人つけられて送り出された。

 日程に余裕のない道中なので二人とはろくに話さず、そもそもあまり一緒になる機会もなく、アリア自身も結婚式での手順を確認したりと必要なことが多かったので、きちんと名乗られるのは初めてかもしれない。ドレスの着付けや化粧などは二人がしてくれたが、式のことでいっぱいいっぱいなアリアに余計なことを言わない方がいいと判断したのだろう、挨拶したり雑談したりすることはなかった。

 なんとか無事に式を終え、薔薇の浮いた風呂で疲れを癒し、マッサージは断って――治りきっていない傷跡などがあるので――、夜着に着替えて暖かいお茶を飲み、一息ついたところでのことだ。

 花嫁教育が始まってからは風呂に入ることもできるようになったが、あまり浸かりたくない冷めかけたお湯ばかりだったし、花を浮かべることもあるとは想像すらしなかった。トーリアでは清潔さを最低限保てればそれでよく、花嫁として風邪を引かなければそれでいい、風呂とはその程度のものだった。それですら離宮では許されなかったのだ。

 温かく香りのよいお湯がたっぷりと用意されているなんて、肌触りのよい泡の立つ石鹸が充分あるなんて、しかもそれが薔薇をかたどったものだなんて、ものすごい贅沢だ。

(……生贄に対して、最後のはなむけかもしれないけれど……)

 アリアは軽く首を振り、気持ちを切り替えた。考えていても仕方ない。

 二人に向かって微笑む。

「ありがとう。二人とも、これからよろしくね」

 言いながら、内心は冷めている。今のところは何もされていないが、王族が用意しただろうこの二人が突如アリアを虐げ始めてもまったく驚かない。ジルの方は特に、不満だという思いをありありと顔に出して隠していない。アリアかノナーキーか、あるいはその両方か、ひどく気に入らないということだろう。

(トーリアに帰してあげられればいいのだけど……それはそれで責められそうなのよね。侍女としての役割を果たせなかったのかと。それに、帰しても次の誰かが送られてきそうだし……いっそ交代制だと思うことにして、そう仕向けてみる……?)

「……王妃様?」

 考え込んで黙っていたせいだろう、コゼットが心配そうに眉を寄せた。

「やっぱり、緊張していらっしゃいます……よね……」

「いいえ、大丈夫よ」

 結婚式を乗り切ったのだから、初夜も大丈夫だ。人が大勢いた昼間とは違って、今度の儀式は夫になった人と二人だけで行うものらしいが、特に緊張はしない。

 体格のいい人だったし、アリアを殺す動機もある人だから、もしかすると今日がアリアの命日になるのかもしれないが。

 だが、暴力には慣れっこだ。

 確実に暴力を受けると決まっている兄王子たちとの対面に比べれば、まだ緊張せずにいられる。どんな暴力を受けるか想像ができないから、体も震えずにいられる。

 アリアが自然体だからだろう、緊張していないと納得したコゼットが感心したように頷いた。

「そうですよね、お姫様ですもんね。閨教育もばっちりですもんね」

「コゼット!」

 ジルが声を上げて窘めるが、アリアは首を傾げた。

(閨教育って……何だろう?)

 名ばかりのお姫様だったアリアは、自慢ではないが知識があちこち欠けている。閨教育なるものも受けていない。

「あの……」

 それを正直に言った方がいいのだろうか。考えあぐねて声を上げるが、それは遮られた。

 ノナーキー人の女性使用人がアリアの寝室を訪れ、告げたのだ。

「陛下が、お渡りになります」


(……なにか、おかしい)

 結婚式を終え、王女ではなく貴顕をもてなすための晩餐会も王女不在のまま終え、私室に下がったエセルバートは眉をひそめて首を傾げた。

 思い出すのは、王女の様子だ。

 アリア姫は確かに美しかったが、数多くの女性を見てきたエセルバートには分かる。化粧でかなり誤魔化していると。

(誤魔化すこと自体はおかしくないが……その対象がおかしい)

 顔立ちは悪くなさそうだし肌の肌理にも問題がなさそうなのに、なぜかいろいろと塗りたくられていたのだ。……まるで血色の悪さや肌荒れを隠そうとするかのように。

 そういえばやたらと細かったし、口付けのときに触れた頬は丸みがなかった。互いに嫌だろうからとふりにとどめた口付けだが、妙なところが印象に残っている。

(……蛮族の国に嫁いでくるからと精神的にやられたのか?)

 トーリアがノナーキーを見下しているのは知っている。と言うより、あの国はたいがいの国を見下している。気位が高いのに国力が低い、落ちぶれた名門貴族のような国なのだ。

 とはいえ、それでも国は国だし、王族は王族だ。王女が生活に不自由するはずもない。食事は贅を尽くしたものだろうし、眠る時間がないほど忙しいわけでもないだろう。精神的に負荷がかかったせいだと考えるのが最も自然だが、どうも腑に落ちない。

(王女の……あの眼差し)

 まっすぐにこちらを見上げた、自分のそれよりもさらに深い青の瞳。トーリア王家のロイヤルブルー。

 自分より七つも年下の、まだ少女と言っておかしくない年齢の姫君のそれに、エセルバートは隠しもせずに敵意をぶつけた。殺気こそなかったが、厄介だと思っている眼差しをそのまま向けた。

 それを、あの娘は――怯えもせずに受け流したのだ。

 しおらしく目を伏せてはいたが、まったく怯えていなかった。恐怖しているなら体の緊張となって表れるはずが、それがなかった。

 あの娘は――悪意に慣れすぎている。

 心が強いとか、そういう精神的な話ではない。単純に体が慣れているのだ。

「…………まさか、身代わりか?」

「えっ!? なになに、どういうことですか!?」

 エセルバートの独り言に対して、素っ頓狂な声を返したのは側近のダスティンだ。同い年なうえに乳兄弟なので気安く、付き合いも長いため王に対してもこの調子だ。

(しかし……瞳のロイヤルブルー。トーリア王家の血筋であることは間違いないし、仮に王女ではない身代わりだとしても希少な存在だろう。そんな人材がいたとして、ここで投入するだろうか? 捨て駒として? 蔑んでいるノナーキーに?)

「……いや、ないな」

「それ、僕に言ってるんじゃないですよね!? こっち見て言わないでくださいよ!?」

 ダスティンの悲鳴じみた抗議は無視する。

「いやー……しかしお姫様、お人形みたいでしたねー……」

「それについては同感だ」

 昼間の彼女を思い浮かべているらしいダスティンの言葉にエセルバートは頷く。

 自分の結婚式だというのに、期待も羞恥も歓喜も不安も嫌悪も、あの青い瞳には何も浮かんでいなかった。

 ひたすら、空虚だった。

 どんな娘が来るかと思ったが……あれは諦めですらない。最初から希望を持ってさえいなかったのだから。

 トーリアの王城で……彼女はいったいどんな教育を受けてきたというのだろうか? 閉鎖的で古い国だから、いろいろなしきたりがあったり厳しかったりしたのかもしれない。

 そんなことを考えていたら、ちょうどダスティンがこんなことを言い出した。

「トーリアの……夢の城のお姫様かあ……。ちょっとそそるものがありますよね」

「ない」

 にべもなく否定し、軽く溜息をつく。

 イメージ戦略なのだろうとは思うが、近年トーリア城は「夢の城」などと呼ばれ始めた。

 多くの人々が行き交う城だというのに緑があふれんばかりに豊かで、花々の花期が長く、しかも大きく美しく咲くのだという。

(馬鹿馬鹿しい、そんなもの主観でしかないだろうが。……だが、あの国は少し、特殊だからな……)

 気にかかることがないでもない。トーリアは古くからの精霊崇拝を受け継いでいて、賢者と呼ばれる者が王家に助言をしたりすることもあるという。近年その風習は廃れているようだが、王が男系なのも祭祀王であるからという理由だからとか何とか。

 古式を守る、古い王国の王女。夢の城の姫君。……かわいそうな、生贄の娘。

 ふう、と溜息をつく。それをダスティンが見咎めた。

「お疲れですか? ……用意させた薬湯は効きませんでしたか」

「効かなかった。勧めてくれたのに悪いが」

 もともと眠りが浅いたちだったのが、最近は不眠がひどい。

 武人王などともてはやされて呼ばれることもあるが、戦いの勘は我ながら鋭いと思うが、戦争から帰ってくるといつもこうだ。

 そもそもトーリアが、昔はこのあたり一帯がすべて我らのものだったのだからなどと訳の分からない理由でナイダル川の権利をすべて主張し、難癖をつけてきたことから始まった戦争だ。河口部分を擁するノナーキーとしては断固として認めるわけにはいかなかったのだ。力で分からせたはずだがまだ納得がいっていないらしい。

 トーリアの、この地方で最も古い国であるという自負はかなりのものらしく、かつては広かった領土の大部分を失ってもなお王族の気位の高さは変わらない。

 だからかなり警戒していたのだ。どんな高慢な姫君が来るのかと。

 誓いの場で、毒などで自殺されることも危惧していた。そういった事態に備え、密かに医師を近くに待機させていた。いずれ死ぬ運命にある姫君とはいえ、トーリアがノナーキーに下ったという事実を象徴する婚姻だから、その場で死なれるのはうまくなかった。

 結果として杞憂だったわけだが……むしろ死人の方が雄弁なのではないだろうかと思えるほど、王女は空っぽだった。

 えぐみが舌に残る薬湯を遠ざけ、白湯を飲む。酒を呷りたいところだが晩餐でかなり飲んだのでここは我慢する。

 正直に言って、眠りを改善するこの薬湯が効いたのか効いていないのか分からない。まあ目に見える変化はなかったのは確かだし、味が嫌いなのも確かなので飲む理由がない。せっかくダスティンが勧めてくれたのに悪いが、安眠はこれではもたらされそうにない。

「……ところで」

 薬湯を片付けながらダスティンが聞く。

「初夜は、どうなさるんです?」


 アリアはベッドの端に腰かけて王を待った。

 夜の儀式である初夜は、昼の儀式である結婚式とは違い、衆目の中で行われるものではないし、決まった手順もないという。言われたことに従えばいいらしいので用意もいらないと思ったのだが、何か必要だったのだろうか。閨教育なるものがどういうものなのか聞きそびれたが、どちらにしろ今からでは間に合わない。

 アリアが知っている男女間の知識はといえば、男性が許可なく女性に、特に胸や腰や唇に触れることが大変な失礼であるということくらいだ。そうした接触は性的なもので、女性側に屈辱をもたらすものらしい。

 アリアの体つきはお世辞にも娘らしくはないので――結婚式のドレスは相当量の詰め物をして誤魔化していた――、嫌がらせをしてくる兄王子たちもそうしたことはしてこなかった。

 それが、アリアのためを思ってではないことは確かだ。単に食指が動かなかったのか、母親や姉妹たちから軽蔑されることを恐れたためか、アリアへの嫌悪感ゆえか。

(そういえば陛下も、唇への口付けはなさらなかった……)

 軽く顔に指が触れたくらいで、唇は重ならなかった。

 これで結婚の誓いが交わされたのかどうか分からないが、交わされたと周囲は認識したはずだ。儀式は滞りなく終わった。

 ぼんやりと、美しい室内を見回す。

 寝台の傍に豪奢なランプが置かれ、暖かな明かりが辺りを照らしている。

 薄い紗がかけられた天蓋つきの寝台は、そういえばこういうものを幼い頃に見たことがある気がする、と記憶を呼び覚ました。小さい頃はとてつもなく大きな遊び場だと思っていた気がするが、成長してから見るとそこまで大きなものではなかったと妙な感慨を抱く。

 壁のタペストリーはおそらく海の様子を織ったものなのだろう、河を下るために使ったものとは随分と様子の違う船が、水をかき分ける様子が躍動的だ。河の水の色とは違う、海の水の濃い青が美しい。

(船旅……もっとしていたかったな……)

 トーリアの者に送り届けられたので、当然のごとくアリアに便宜が図られることはなかった。出された食事も保存食ばかり、それであっても離宮での食事とも言えない食事よりはだいぶ上等なものだったが、停泊時に使用人たちが自分たちで釣った川魚を食べたりしていたのは羨ましかった。

 結婚式の後には晩餐会があったらしいが、出席は歓迎されない雰囲気だったのでこちらから辞退した。

 式の最中にも感じていたが、トーリアから来た花嫁に対する不信や嫌悪が強い。花婿からばかりではなく、会場の誰からも、アリアは歓迎されていなかった。

(みんな……知っているのかもしれないわ……)

 アリアが名ばかり、形ばかりの花嫁になることを。

 いずれ殺される、人質で生贄の娘だということを。

 茶番だ、と思う。トーリアもノナーキーも、為政者たちはそのことを承知していながら、こんなふうにしているのだから。

 最後の晩餐かもしれないと思いつつ果物だけいただき、湯を使い、案内された部屋に下がって侍女に髪などを整えられ……王の訪いを告げられた。

 その侍女も退出し、薄暗い室内に自分ひとり。窓の外には夜の帳が降りていて、様子がさだかに分からない。海が見えるのか、それとも木々が生えているのか、建物が見えるだけなのか……

 ……そっと、窓に手をかけたときだった。

「――逃亡か?」

 その声に、ゆっくりと振り返る。昼間見たきりの、夫となったノナーキー王エセルバートが腕を組んでしかめ面をしていた。なぜか小脇に分厚い本を抱えているが、儀式で使うものなのだろうか。

 薄暗がりの中でも分かる。不機嫌そうだ。アリアはゆるゆると首を横に振った。

「いいえ。何か見えるかと思って……」

「面白いものはあるまい。目を楽しませるものが欲しいなら、絵や彫刻を運ばせてやろう。護衛をつけて、城の中にある美術品を楽しむのもよかろう。トーリアの姫君にはみすぼらしく映るかもしれんがな」

「いえ、そんな……」

 アリアが最上級のものに囲まれていたのは幼い頃だけだ。離宮の目ぼしいものはとっくに持ち去られて目を楽しませるものもなく、ひたすら掃除に明け暮れていた日々が長い。だがもちろん、エセルバートはそのことを知らないだろう。アリアは表向き、病弱なため離宮で静養していた姫君ということになっている。離宮の中まで訪れるのは王族だけだから、それが真実ということでまかり通っている。

 目を伏せるアリアに、エセルバートは面白くもなさそうに鼻を鳴らした。

「私はそなたに情けをかける気などない。安心したか? 失望したか?」

「いえ……」

 アリアはあいまいに首を振った。情けをかける気がない。つまり、容赦をする気がない……いつか殺す、ということなのだろう。安心したわけではないが、失望したわけでもない。まあ、そうだろうなと思っただけだ。

 アリアの淡白な反応に、エセルバートは少し眉をひそめたようだった。なおも言った。

「そなたは自分の立場を理解しているようだ。だから分かるだろう。子ができたら哀れなことになると」

 子供ともども殺される、ということだ。今すぐ懐妊したとして、おそらく産み月が来る前に状況がそうなる。子供は生まれることなく母親と一緒に殺される。

 そのことは分かるのだが、どうやって子供を授かるのか、そこが分からない。推察するに、口付けが関係あるのだろうとは思うが、確かめられる雰囲気でもない。

 情けをかける気がない、というのは、そのことも指しているらしいとは察した。

「つまり……初夜の儀式をなさらない、ということでしょうか」

「儀式……? ……まあ、そうだな」

「かしこまりました。陛下の、仰せのままに」

 アリアは頭を垂れた。

 エセルバートが戸惑う気配が伝わってくる。

 だがアリアは、言われた通りにしているだけだ。夜の儀式は、夫に従っていればいいと。儀式自体をしないというのなら、アリアはそれに従うだけだ。

 しばらくそうしていると、戸惑った声が降ってきた。

「……いつまでそうしているつもりだ」

「陛下のお許しがあるまで。仰ることに従うようにと言われておりますので」

「…………。……なら、休め。……私のことは気にするな」

「はい、かしこまりました」

 アリアが顔を上げて長椅子に座ろうと向かうと、ちょうどそちらへ体を向けていたエセルバートがぎょっとした顔をする。どうやら椅子で本を読むつもりだったらしい。

「休め、と言ったのだが?」

「ええ。ですから休ませていただきます」

「……眠れないのか?」

 アリアはきょとんとした。眠らないのか、ではなく、眠れないのか。そもそも、眠ってよかったのか。

「寝台は陛下がお使いになるのではないのですか?」

「どうしてそうなる! だとしても、女性に椅子を使わせておいて自分だけ寝台で眠りこけることなどできるわけがなかろう!」

 どうしても何も、ここはノナーキーの王城で、その主君が部屋を訪れたのだから部屋を使う権利があるのはそちらだ。アリアはごく自然にそう考えたのだが、エセルバートは妙な顔をしている。

「ええと……私が寝台を使ってもよろしいのでしょうか?」

「使え。使えるものならな」

 エセルバートは皮肉っぽく言ったが、このくらいの嫌味は嫌味とすら思わない。立派な寝台に寝転んでみたくて、じつはずっとうずうずしていたのだ。

 ありがとうございます、と礼を述べて寝台に横たわり、前かけを引き寄せた次の瞬間、アリアは眠りに落ちた。やわらかで極上の肌触りの寝具を楽しむ間もなく、疲れが一気にやってきて意識を押し流した。


 部屋にアリアのかすかな寝息が響く。

 エセルバートは思わず呟いた。

「……なんなんだ、こいつは?」

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