マサイの美容室

珠野 休日

第1話 マサイの美容室長屋 


 夕暮れも近づいた午後五時、インドセンダンの木の下に、マサイの美容部員たちが集まって輪をつくる。

 いでたちはさまざまだ。

 たいていは赤が基調の長い布を、右肩からたすき掛けにしたり、両肩から垂らして胸の前で交差させたり、たすき掛けの上から別の一枚をショールのように巻いたりしている。赤一色だけでなく、赤と紫や、赤と白を組み合わせたチェック柄だとか、青や緑の布を身につけている者もいる。

 首や足首にはビーズの飾り。

 はいているのは、車のタイヤから作ったサンダルだ。

 手には杖を持つ者もいる。

 そして、丸刈りのマサイのほかに、結った髪を腰のあたりまで揺らしているマサイたちがいる。彼らは年齢組エイジグループでモラン、すなわち戦士の若者たちだ。

「ジャンプ、はじまりますね!」

「うんっ。超ラッキー。ナイスタイミングで居合わせたよ!」


 ン、ン、ドゥムドゥム、ンンドゥムドゥム、という声が響きはじめる。身体の奥底から出てくる、声ではないような声。身体じたいが、ドラムみたいな楽器になっている。

 ン、ン、ドゥムドゥム ンンドゥムドゥム

 仲間の声に合わせて、土ぼこりをあげながら、ひとりがジャンプを開始する。

 両足をそろえ、背筋をまっすぐに伸ばし、地面と垂直にジャンプ!

「姿勢が悪いジャンプは、はなしにならないっていいますね」

「わかる。見て! あの高さ!」

 最初に跳んだ若者にかわって二番目に跳んだ少し年長のマサイは、一メートル近くはあるかと思われる垂直跳びを繰り返す。ジャンプが頂点に来るとき、首を前後に揺らすのだが、どうしたらあんな不思議な動きができるんだろう。わたるは膝を抱えて見入りながら考える。まわりを取り囲んでいるマサイたちは、笑ったり肩を組んだりして、いかにも楽しそうだ。

 ンンドゥムドゥム ンンドゥムドゥム

 ンンドゥムドゥム ンンドゥムドゥム

 ンンドゥムドゥム ンンドゥムドゥム

 そのうちモランのひとりが口から泡を吹きだした。ジャンプの輪に加わっていない二、三人のマサイが走ってきて、泡を吹いている若者を取り押さえ、抱きかかえる。

「うわわわわわ。どうしたの? あれ、ノアじゃない?」

「ほんとだ、ノアだ。大丈夫かな?」

 コンクリートの基礎部分から腰を上げかけた日本人ふたりを、ヌルが制止する。

「アチェニ!(放っときな) 興奮しちゃって、あのまま道路に飛び出すと危ないから、仲間が押さえてるってだけ」

 ふたりは顔を見合わせた。ノアには申し訳ないと思ったが、顔を見合わせながら、笑った。

 自分たちの短い物差しでは通用しない世界が、自分らのまわりに果てしなく広がっていた。

 たぶん、それが、世界。



第一章 マサイの美容室長屋


 半島のつけ根から街へ戻るフェリーの右下を、ダウ船が、帆に風をめいっぱいはらんで、滑るようにすすんでいく。

「ハバリっ?」

 やあ、とか、どう? って意味のスワヒリ語を、両腕を伸ばして、真っさおな空に向かって叫びてえ。日常から解放された感いっぱいで、悠生ゆうきわたるは、フェリーの甲板から身を乗り出す。

 夏休みがはじまった。

 それはこよみの上で夏休みなだけで、航にとっては貴重な調査期間のはじまりだ。

 昨日の夕方、航は、鮮やかなピンクやオレンジのブーゲンビリアが咲き乱れるダル・エス・サラーム空港に降り立った。日本から、中東ドバイ経由でまる一日かかってたどり着いた、東アフリカはタンザニア連合共和国の首座しゅざ都市である。

 今朝は早くから、気温と環境に身体を慣らす目的で、乗り合いバスや三輪オート、はてはフェリーに乗って、市内のあちこちを、あてもなく動きまわっていた。

「ウェウェ 二 ムチーナ?(中国人?)」

「ハパナ(いや)」

「ウナトカ ワピ?(どっから来たの)」

 天井があるためうす暗く、アフリカ系やアラブ系、それからインド系の、日本人よりもずっと肌の色が濃い人々がひしめき合っているフェリーの甲板の上で、ちぢれ毛のアフリカ人男性が、興味深げに声をかけてくる。

 暗いところでアフリカ人に会うと、目の白さが突出して目立ち、ドキッとすることが多かったのだが、かなり慣れた、と航は思う。

「ナトカ ウジャパニ(日本から)」

 へえっ、という感嘆の、クーンベッ、という単語を声高くはりあげて男は、白目をくりくりさせた。

-これからぼくは三ヶ月近く、このダル・エス・サラームで社会学の現地調査をする。

 甲板に吹きわたる風に向かって顔をあげた航は、大学院博士課程前期の一年生になった二十三歳だ。


 半島から入り江をはさんだ中心街へ戻った航は、乗り合いバスを使って、マサイ民族が集まる美容室長屋へと急ぐ。ぐずぐずしてると夕方になっちゃう。長屋の扉が軒並み閉まっちゃうからな。そう思いながら、屋外テーブルが並んだバーの前を通り越し、長屋のはじまでさしかかったところで、航はうしろから声をかけられた。

「こら、きさまっ。着いたそうそう、こんなところで油売るなっちゅーのっ」

 強い日差しの下、日傘も帽子もかぶらない無防備な姿で近づいてきた東洋人は、そうだとは思っていたけれど、やっぱり明香里あかり先輩だった。航はほっとすると同時に嬉しくなって、街路樹のインドセンダンの木の下で、ちょっと小躍りしながら叫んだ。

「ちわっす、明香里先輩」

「先輩はやめんかぁ」

 そう言われてもさ。ことばづかいからしてミリタリー仕様の年上女性に、なんて敬称をつけたらいいんだろう。航は困った。

「大島明香里……、さん」

「なんでフルネーム?」

「ええと、明香里さん……」

「だいたいそれでよろしい。うちの学校、伝統的に『先生』とか『先輩』とかつけないじゃん。みんな『さん』づけだよ」

 それでも明香里の態度からじゅうぶんに上下関係は伝わっている。

「じゃあ、吉田先生は?」

「あ、吉田先生は先生だからね」

 意味わからん、と思いながら航は、自分と明香里の指導教授である吉田よしだまさにかんして、みなが先生と呼んでいるのはなぜだろう、と考えた。それは、柔和で温和な吉田先生に、「さん」づけだと本当の意味での敬意が表せないと、みんなが感じているからだろうな、と航は思った。

「宿舎に戻っていなさそうだからここかなあって、ね」

「あ、はい。さっきまで半日、街うろついてました。それで今、ここに着いたばっかり」

 そう言いながら時間を確かめると、午後三時半だった。

 明香里とは同じ宿なのだが、敷地がバカ広いうえに、女子寮と男子寮は食堂をはさんで反対側にある。一週間前に到着してすでに資料収集をはじめている明香里は、昨晩帰りが遅く、航とは出会えていなかった。

「ハバリ ゼヌ?(ごきげんいかが? みなさん)」

 明香里がちょっとだけかしこまって、長屋の軒先に座って髪を編んでいるマサイやタンザニア人女性たちに、挨拶をはじめる。

 彼らは口々に、絶好調、だとか、まあまあだ、と答えている。

「アカーリ、あなたも結いなさいよ、髪。料金はまけてあげる」

 プラスチック製の白いガーデンチェアに座り、女性客の髪を結っているヌルが、ショートボブの明香里に、営業の声がけをする。ヌルはアラビア語で光を意味するという。ムスリマ、すなわちイスラム教徒の、体格の良い三十代の女性だ。

「ありがとう。だけどごめん。ラスタは重くてハゲちゃう」

「ハゲ」という単語にみんなが反応して笑いがおこった。さすが明香里先輩だな。人心じんしん掌握しょうあくじゅつにたけている、と航は感心する。

「アフリカで髪洗うのも水があってこそでさ、いちど断水しちゃえば、バケツ一杯で全身洗わなくちゃいけないから、わざわざ髪、短くしてんのに、ラスタに結っちゃったらそれこそシラミわいちゃうよ」

 明香里は日本語でちゃっとまくしたてる。理解できているのは航ただひとりだから、彼に向けて言っているのだ。

 ラスタとは、「ラスタファリ運動」、「ラスタファリアン」、「ラスタピープル」などの単語の略で、ジャマイカで発生したアフリカ回帰主義とそれを実践する人々を指す。

 彼らは菜食主義をひょうぼうし、レゲエ音楽家のボブ・マーリーに代表される「ドレッドロックス」と呼ばれる髪型をしている。身体に刃物をあてることを禁じる教えによって、髪の毛をからめて房状にしたヘアスタイルだ。

「いってみれば『京都河原町のジュリー』でしょ?」

「誰っすか? それ」

「は。知らないのっ? 伝説のホームレスさんだよ」

 し、知らない。航はビビる。

「一九六〇年代から八〇年代にかけて、京都四条河原町を徘徊していたホームレスの男性でさ、洗わないからべっとべとになって貼りつきあった髪が、腰ぐらいまであったんだよ」

「見たんですか? 先輩」

「先輩、やめろや」

 そう指摘して明香里は続ける。

「見たことあるわけないじゃん。だってあたし今年二十七歳だよ。その頃はまだ、種になってもなかったよ!」

 航たちの会話が理解できず、ヌルはもう、自身の仕事に集中している。

 つまりここでいうラスタとは、「ドレッドロックス」風の髪型のことなのだ。

 ただし、アフリカの女性たちは、ラスタにするのに自毛を用いない。人工のつけ毛、つまりヘアーエクステンションを用いるのだ。

 エクステを少量ずつ、直径五ミリほどにカールした自毛にくくりつけてから、細く長く三つ編み様に編み込んでいく。実際には三つ編みでなく、長いピースをより合わせているのだが、細く長ければ三つ編み同様、それなりに手間ひまはかかる。 そして手間をかけた編み込みは、ロングヘアの、とってもステキなスタイルに仕上がるのだ。

「あの細いエクステで頭部全体しあげるのにどれくらいかかると思う? まる三日だよ」

「ま、まる三日…。おまけに三人がかりですよね」

「そう。大のマサイの男たちが、朝から夕まで作業してまる三日!」

 航には見慣れた光景になったが、八軒続いているブロックづくりの商業用長屋には二十人ほどのマサイの男たちがたむろし、数人のタンザニア人女性美容師とともに、二、三人ずつのグループをつくって、お客である女性たちの髪を結っている。

 なぜ彼らが美容師をしているのか。それは、戦士たちもドラッドふうに髪を結うから。髪を結う技術を持っているから。そして貨幣経済の現世、小金を稼がなくてはならないから。ただ、それだけの理由だ。


 マサイの美容室長屋へ来るとアフリカへ来たな、と航はしみじみ思う。

 目の前は幹線道路で、日本製中古車や、これも日本製の乗り合いバスが、砂ぼこりをあげながら疾走していく。

 コンクリートの基礎部分に腰をかけている明香里が、思い出したように尋ねた。

「ヌルーっ、彼らいる?」

 ヌルは編み込みの手を休めずに顔をあげて聞き返した。

「彼らって誰よ」

「ワタルのマブダチ、タラシーとジョン」

 勝手に航の親友にされているタラシーとジョンは、どちらもマサイ民族の男たちだ。ヌルは少し考えてから答えた。

「タラシーは、今日は見ないわ。この時間だからもう、夜警の仕事に向かっちゃってんじゃない?」

「タラシー」はマサイ民族名だ、と、本人が教えてくれたことを航は思い出す。

「女たらし」と発音するときの「ド・シ・ラ」的な下がり調子ではなく、「タ」を基本の音とすると、「ラ」を上げて「シー」はラと同じ音域で発音するアクセントだ。いっぱうジョンは欧米由来の名前である。

「じゃあジョンも今日は寄らないか」

「ジョンなんか長いこと見てないわよ。大卒エリートだからさ。お忙しいんじゃない?」

 ヌルはつんと嫌みを言い、それからまた髪結い作業に戻る。

「あっ、そうだ。ヌル。おみやげ」

 航がそうつぶやいたとたん、彼女はバッと顔をあげた。まわりのマサイや女性美容部員たちも、視線をあげたり聞き耳をたてたりする。航は、筆記用具や現地で調達した通信機器を入れてある小ぶりな肩掛けかばんから、ビニールの買い物袋をひっぱり出し、そこから花柄のくしと色ペン十二色セットを選んで、ヌルに手渡した。

「アーサンテッ、ワタール」

 満面の笑みをたたえて礼を言うヌルの表情を確認しながら、こういうときだけめちゃくちゃ愛想がいいぞアフリカ人、と航は思うのだ。それから、同じ仕事部屋の女性ふたりにマニキュアを一本ずつ、マサイの美容部員三人にノート一冊と鉛筆一本をセットにして渡す。

「アサンテ(ありがとう)!」

「アサンテ サーナ(どうもありがとう)!」

お礼の合唱のなか、隣と隣とそのまた隣まで配ったら、三十個ほどのおみやげはすぐになくなってしまった。

「百均でしょ」

 明香里が、けけけ、と笑いながら指摘する。

「はい。しめて三千円とちょっと」

「いいよね~。それで居場所が確保できるんだもんね~」

「買収っちゃあ、買収ですけど、気は心。肝心なのは心づかいです!」

 後ろめたさを払拭ふっしょくするように、航はつとめてきっぱりと答えた。

 現地調査をする人々、すなわちフィールドワーカーの間では、次の人が困るから、物で釣るのはやめましょう、という不文律ふぶんりつがある。「アイツはくれたのにアンタはなんでくれないの」という負のループが生じるし、悪くすれば調査結果にも影響が出てしまうおそれがあるから。

「でもぼくはここで休憩がしたいんだ」

 航が修士論文のテーマにあげているのは都市交通である。炎天下、調査がうまくいくときもいかないときもあって、そんな時、少しだけ気分をかえられる場所がここ。

 高さ七十センチくらいのコンクリート基礎の上に、日本でむかし塀に使われていたものと同様のブロック壁に、トタン屋根が敷かれた六畳ほどの部屋が八つ並んだ長屋は、自治体が建てて貸し出しているものだという。店子たなこオーナーはマサイだったり、美容師の女性だったりする。

 前面を全開にできる鉄扉はあるが、窓はない。八つのうち一軒は自動車の部品を扱う店舗で、あとの七件はすべて美容室だ。

 店内外では伝統衣装を着たり、Tシャツにズボンをはいたマサイが混在しながらたむろして、ゴザの上に座っている女性の髪を結っては、日当を稼いでいる。

 おみやげを渡して挨拶をするのは常識だ。それでいくぶん自分の居場所が確保されるのなら。航にはそういうもくろみがある。

 コンクリートの基礎部分に腰をおろし、足をぶらぶらさせながら、一日の行動の反省をしたり、翌日の計画を立てたりする場所。

 ホームシックになった時、ちょこっと立ち寄って、髪を結っているマサイたちとスワヒリ語で雑談したり、つちぼこりのたつ道路を行き交う人々や車を、ただぼうっと眺めたりする場所。

 それが、航にとっての居場所、「マサイの美容室長屋」だ。


「あ。ジョンからメッセージが来ました」

 ブブッ、と振動した携帯を確認すると、航空会社のオフィスにいるジョンからだった。

「なになに? 『ワタルがダル・エスに無事到着してくれて、ぼくとしてもうれしい。明日は日曜でお休みだから、教会に行ったあとの午前十時半に、センターのゲートで待つ。サファリをおごってくれ。そして、アカリも連れてくるように!』……」

 だ、そうです、と言って航は明香里に携帯の画面を見せた。明香里は、たいして見たくもないがな、と言いながらあさってを向く。

「センター」とは、航と明香里が常宿としている教会に併設されたゲストハウス「ムシンバジセンター」のことで、サファリとはビールの銘柄である。

「また、『アカリっ、今年こそぼくと結婚してくれっ』、とか騒がれますね」

「うーん。ま、彼だけじゃないからねえ、軽い調子でそういうこと言うの」

 本気にしていない明香里だが、まんざらでもなさげに、げへへ、と笑いながら言う。

「日本ではひとっつもモテないあたしがだよ、アフリカじゃ、モテまくりだよ」

 そして、こういう表現は語弊ごへいを含むかもしれないけれど、と前置きしながら、

「日本人女性のみなさーん、ここへ来れば少なからずモテますよぅ、と叫んでも、詐欺罪にはあたらない」

と、わけのわからないことを言った。そして、男性はどうなんだろう、と、まじめな顔に戻って考えている。

「みずからこくれば、百発百中、なのかも。やってみ?」

 明香里のその下世話な発言に航はことばを失うが、考えるところもあった。ぼくにとっちゃあ、告りたい相手がいるかどうかが問題なんだろうなあ、と。


「はあぁ、まったく。航をつうじて、ミョーな人たちと知り合っちゃたよ」

 明香里は航と同じ大学院の、博士課程前期の二年生である。社会人を一年間経験したあと、ODA活動に二年間従事してから進学したので、航より一学年だけ上だが、齢は四つ違う。別大学から進学した航は明香里と、アフリカ地域研究のゼミ内で知り合った。

 アフリカ研究はそこそこ人数も限られており、地域別では、知り合いの知り合いが知り合いになってしまうという現象がよくおこる。それからみな、好むと好まざるにかかわらず、よく現地を訪れるため、知らせ合ってもいないのに街でバッタリ出くわす、なんてことも頻繁に起きた。

 航はそれ以前、別の大学の学部生の時からすでに、東アフリカに足を突っ込みはじめていた。それは母親の弟で、自身の叔父にあたる牛首うしくび信和のぶかずが、五十歳になる現在まで長年にわたり、タンザニアのキリマンジャロ山のふもとで、植林に関わるNGO活動を行っている関係からであった。

「あんたもちっとは日本の外を眺めてらっしゃい!」

 小学校教員の母は言った。そのとき航の眼はテンになった。姉のなぎさもそう言われて、高校生の夏休み、インドネシアへ飛ばされていたから。

「でも、ハマった」

 姉の渚は言う。姉は父親と同じく、中学校の教師になった。今は同業の夫と、おさない子どもふたりと暮らしながら生活に業務にと、あくせく働いている。

「おかげで日本の外を見ることができたし、日本を外から見ることもできた」

「でしょ? だから航はアフリカに行かそうと思ってるの。このあいだ帰国したノブに実家で会ってそのことを伝えたら、おうおうおうおう、だって」

「おかあさん、その、ノブおじちゃんのオウオウって、どんな意味よ」

「大歓迎、って意味じゃない?」

 テキトー言うなっ。航は怒った。でもウチは、めすライオンが子どもを崖から突き落とす家系らしく、大学一年の夏には、ノブおじちゃんのもとでのボランティア旅行を組まされていた。

「ハマった」

 家系的にハマる家庭でもあったようだ。

 キリマンジャロのふもとの斜面で、村人とともに、航は必死で植林用の苗木を植えた。汗や泥で顔を真っ黒にして作業を終えた航に、こんがり焼けた食用バナナを差し出しながら、叔父の信和は言ったものだ。

「いちどアフリカの水を飲んだ者は、きっとまたアフリカへ戻ってくるよ」


 バオバブがそびえ、ブロック塀やトタン屋根がつらなる裏道を通りぬけて、航と明香里は徒歩でセンターへ帰り着いた。つい先ほどまでふたりは、美容室長屋の前ではじまったマサイジャンプに見入っていたのだ。ふたりの顔見知りのノアが、興奮してトランス状態になり、口から泡を吹いたのには驚いたけど。

 約束した午後七時に、カンティーン、すなわち食堂で落ち合うことにする。教会内でセミナーを受ける地方からの宿泊客や欧米からの旅行者などで、朝はビュッフェに行列ができるが、夕食の時間帯はたいていすいている。

「なんにする?」

「あ、ぼくはやっぱワリで」

 ワリとは米飯だ。

「そうねえ。あたしもやっぱワリかな。それとクク」

「青野菜つける?」

 食堂のコックのひとりが明香里に尋ねる。

「あ、はいはい。それとショウガ味のソーダ、お願いします」

 三つほどくぼみのついた銀色のトレーに、ご飯と鶏肉、それから、炒められた状態のムチチャといわれる青菜が盛りつけられる。

「どうしようかなあ、どうしようかなあ」

 航は、クク、すなわちこんがりと揚げられた骨付きの鶏肉にするか、それともムチュズィというトマトベースの牛肉煮込みソースにするか迷った。

「決めました。ごはんと牛肉ソースと、豆とコーラで!」

 なんだか米飯以外、東アフリカの定番食だ、と航は思った。

「じゃ、とりあえず、お疲れーっ」

 ふたりはテーブルをはさんで、瓶の飲料水をぶつけあった。

「明香里さんはウガリ、食べないんですか?」

「食べられはするけど、やっぱ米だよ」

「ぼくもそうです。こんなとき自分、日本人だなって思っちゃいます」

 ウガリとは乾燥させたとうもろこしを粉状にして湯で練った、東アフリカの主食だ。見た目はもちだが伸びたりはせず、おわんを逆さまにして盛ったようなそれを、指で小分けにして手で二、三度ぎゅっぎゅっと握り、汁や豆につけて食べるのが東アフリカ流だ。

「あたしさ、あさってからンジョンベに現地調査に入るけど、あっちも食事は豊かなんだよ」

「修道院ですか?」

「そう。ここよりももっと隔絶されてるけど、いいよ~。涼しくって」

 明香里はおもにジェンダーに関して、アフリカ人修道女を対象に調査をしている。日本人はアフリカと聞くとたいてい、どこも暑くて大変なんじゃない? と言うが、涼しいところもあるのだ。ノブおじさんの拠点になっているキリマンジャロ周辺も冷涼だし、隣国ケニアの首都ナイロビは長そで暮らしである。ンジョンベは、昼は半袖、夜はセーターか厚いジャケット、と明香里が説明してくれた。

 ただし今ふたりのいるダル・エス・サラームは、海岸地域の低地なので、暑い。赤道以南のため季節は日本と逆で、八月は、温暖化のため四十度越えがザラになった日本よりも涼しいのだが、それでも日差しはきつい。

「ここからどれくらいなんですか? ンジョンベは」

「八百キロあるから、車で十時間以上かかっちゃうかな。で、さらに奥地のイミリワハまで行くから、移動に十二時間は要する、たいてい」

「ひえっ。バスですか?」

「いいや。神父が運転するシスターたちの車に同乗させてもらう」

「気をつけてください」

「そうね。運が悪けりゃどこかで簡単に死ぬもんね。ふふっ」

 ジェンダーを研究テーマに選んでいる明香里を前にして、こんなことは面と向かって言えないと黙ってはいるが、航は、日本人女性はすごいなあ、と思うときがある。たったひとりで奥地まで出かけて、無傷で戻ってくる明香里のような女子たちを、何人も知っている。吉田昌美先生もそうだった。

「でも、卵焼きだけは、砂糖味で食べたいかな」

 明香里がぽつりと言った。

 ああ。航は、トレーにあてるスプーンの音を極力おさえた。

 明香里さん、むこうでは、もしかして、ちょっと孤独?

 航は少し下を向いた明香里に、そんな気配を感じとる。

 日本から遠く遠く離れた場所で、たったひとりになって、なにに役立つのか、本当に役立つのかわからないテーマを追って、アフリカ人たちとともに過ごす日々。忙しいし楽しいけれど、ひとりになって星空を見あげたときの、えもいわれぬ孤独。そんな感情を航は、少しずつだがわかるようになっていた。

 今は学生だから帰るところもあるけれど、そうじゃなかったら……。そうだ。ノブおじちゃんはどうしているんだろう。ぼんやり考えていた航の目の前で明香里が、飲み終わったソーダの瓶を、トン、とテーブルに置く。

「で、荷物あずかって欲しいんだ」

「へ?」

「三週間のあいだ~。この通りっ。お願いしますっ」

 スーツケースひとつだという。

「お安い御用ですよ。ただし……」

 航は交換条件をつけた。

「明日十時半にジョンが来るから、一緒に海岸のカフェに行きましょう!」

 え~っ、と渋った明香里だったが、まあ、仕方がないなあ、と、ひとくち残ったごはんに青菜を添え、スプーンですくって口に運び、皿をきれいにした。

「で、どこだって?」

「センターのメインゲートに十時半」

「じゃ、十一時でいいね」

 航は思わず、あはっと笑い声をあげてしまった。

「そうっすね。彼らはジャストの時間に来ることなんてないですもんね。十一時でいいですかね」

「いや。万が一、定刻に来たらかわいそうだから、あんたは十時半」

 そんな無体な、と嘆く航を明香里がせかして、ふたりは食堂を出た。たいして星は見えなかった。教会で行われる結婚式の、大音響の披露宴もなかったので、静かな夜だった。これからは夜警たちの仕事時間だ。

 タラシーもどこかで夜警の仕事についているのかな。航は夜空を見上げながら考えた。

 明香里は左に、航は右に、じゃあ、明日、といって手をあげながら夜道を分かれる。

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