第5幕 いつもの日常

 教室に入ると、レオノーラが静かに佇んでいた。


 彼女の瞳には、どこか諦めにも似た影が差している。

 その様子に、クラウスの胸に微かなざわめきが生まれた。


 ――いつもなら、こう言われるはずだった。


「遅かったですね。王太子としての自覚が足りないのでは?」


 皮肉混じりに、肩をすくめながら。

 それが、彼女との“いつものやりとり”だった。


 だが今日は、違った。


 レオノーラはわずかに首を傾け、柔らかな声でただ一言告げる。


「……おはようございます」


 それだけだった。

 表情も、声音も、とても穏やかで――けれど、どこか遠い。


「……おはよう。レオノーラ」


 クラウスは戸惑いを隠せないまま、返礼する。


(なんだ、今の……?)


 妙にしおらしいその態度。

 いつもの“とげとげしさ”が消えていることが、かえって居心地悪く感じられる。


 まるで、長く付き合った楽曲のリズムが、知らぬ間に一拍ずれていたかのような違和感。


(……どうして、こんなに静かなんだ?)



 最近、ふとした瞬間にレオノーラの姿を探してしまう。気づけば、彼女ばかりを目で追っている。


 だが――それは許されないことだ。


 彼女は私の婚約者で、幼馴染で、……好きな相手だ。


 それの、どこが“許されない”というのだ。

 誰の許可が要る? 何のために?

 いったい誰に、何を、咎められている?


 頭の奥でぐらりと意識が揺れた。


 気づけば、目の前にはフィオナが立っていた。


「これ……調理実習で作りすぎちゃって」


 彼女は小さな包みを差し出しながら、少し恥ずかしそうに笑った。まるで花の蕾のように、あどけなく、可憐な笑顔。


 可愛い。確かにそう思う。誰が見ても愛らしい少女だ。


 それなのに――どこか違う。何かが噛み合わない。


(……こんな時、レオノーラなら)


 ――「王太子が、毒味もせずに食べるなんて、言語道断です!」


 ぴしゃりと、少し怖い顔で叱ってくるあの声が、記憶の奥でよみがえる。


 そうだ。いつもなら、あの皮肉交じりの忠告が聞こえてきたはずだ。


 なのに、今は――何も言わない。

 どこにも、いない。

 気づけば、彼女は“この場面”に存在していない。


 その不在が、胸の奥にじわりと痛みを残した。

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