第31話
「サフィリア、さあ、手を」
「まあ、旦那様。ありがとうございます」
ルクスが差し出す手の平に、サフィリアはそっと右手を乗せた。途端に手の平ごとキュッと握り込まれる。
「ゆっくり立つんだ。慌ててはいけないよ」
「はい。よっこいしょと」
寝台から半身だけ起こしていたのを、よいしょと床に足をつけた。夫に手を引かれてゆっくりと立ち上がる。
サフィリアの大きなお腹はいつ産まれてもおかしくないほど迫り出して、立つと腹に隠れて足下が見えなくなる。
心配症のルクスは、そんなサフィリアを一歩も一人で歩かせない。サマンサもタバサもいるのに、自分が邸にいるときは、サフィリアから片時も離れず甲斐甲斐しく世話を焼く。
あのぅ夫人、もとい、サフィリアはこうして母になった。翌年に元気な男児を生んだ。
ルクスは王国初の育児休暇を取った。法改正なんてそんなものはされていないし、上司の王太子殿下にもはっきり許可を得た訳ではない。
勤勉に働き貯めに貯めた有給を、サフィリアの出産後に一括取得した。
慣例を根こそぎ無視する暴挙であったが、王太子は何故かこれを許した。彼は妃が懐妊中で、あわよくば自分も育休取っちゃおうと真っ黒な腹の中で考えていた。
これにより正式な法改正が進められ、王国では大陸に先駆けて夫の育休が制定されるのはまた別のお話。
「さあ、皆の者。今日もキビキビ働いて定時に帰ろうではないか」
朝の王太子の執務室。朝礼で声高に宣言するのは、嘗てブラックな職場環境を生み出す先鋒であった王太子本人である。
今、王太子の執務室は、王城で最もクリーンな職場となった。ブラック職場の汚名を返上して、ホワイトな環境として王国のみならず大陸中の諸外国から注目されている。
元より精鋭揃いの王太子の執務室。メリハリつけてキビキビ働けば、何より、出来過ぎ王太子の行き過ぎな改善提案がなくなれば、定時退城は夢の話ではなくなった。
加えて、ルクスが無理矢理勝手に育児休暇を取得したのをきっかけに、王太子はそれを正式に認めて法整備までしたから、今やその改革は大陸のロールモデルとなっている。
「おっ、5時だな。それでは皆の者、お先に失礼します」
王太子は鐘の音と共に、机上の書類を片付けて、袖机に鍵を掛けた。
それからペコリと一礼して、「お先に失礼します」と言ってからスタスタ執務室を出た。
「走っては駄目かな」
「なりません」
もうこの長い回廊を全力疾走してしまいたい。一秒でも、一歩でも早くクラウディアのところに向かいたい。
だが侍従が指差す先に「廊下は静かに歩くべし」の標語が貼られているのを見て渋々諦めた。
王太子ネロ。選ばれし男。
クラウディアには、釣書きをトランプに見立てたカードゲームで選ばれた。引いたのは、引きの強さで有名なあのサフィリアだ。
クラウディアからの愛ではなくてババ抜きで選ばれた自分。
だがクラウディアは、それを最高だと言った。だから王太子も最高だと思ったのだ。何よりこの方式で、第二王子の婚約者もサフィリアが引き当てている。
一国の王子の婚姻が、一夫人の「引き寄せ」で決められるってどうかと思うが、クラウディアいわく、サフィリアの引きに間違いはないのだという。
「私、見たのよ」
「なにを?」
「貴方のカード(釣書き)を引き抜く時に、あの子の身体が光ったの」
「光った?」
「ええ、そうよ。胸の辺りから光りはじめて、それがパァっとあっという間に広がって、あの子、まあるい発光体のようになったのよ」
それは真逆、聖女では?
クラウディアの話に王太子はピンと来たが、同時にあのねちっこく妻を愛するルクスが思い出された。
彼のことなら幼い頃から知っている。あいつは夫人を手放さない。どれほどの罪を被ろうとも、秘して彼女を囲い込むだろう。
「仕方ない」
王太子はルクスを見逃した。その代わり。サフィリアの秘された能力は、これからも有効利用させてもらおうと黒い腹の中で考えた。
どれほどホワイトな職場環境となろうとも、為政者の腹の中とは真っ黒なのだ。
「苦しくないか」
クラウディアが座る椅子の側に跪き、その白魚のような手を握る。愛する妃の顔を覗き込んで、ギロリと睨まれた。
「近過ぎ」
「すまない」
クラウディアはパーソナルスペースを侵害されるのを物凄く嫌う。それは熟知していても、心配せずにはいられない。クラウディアは懐妊しており産み月を迎えていた。
王太子は定時で執務を終えると、真っ直ぐクラウディアの元に駆けつけて、彼女の安否を確認する。そうしてパーソナルスペースを侵害した罪で直ぐさま退室を命じられるのだ。
毎日毎日繰り返される光景に、城に仕える者たちは何も言わない。昨日と同じ今日がある。それは平和な治世に守られている幸福の証なのだから。
明けの明星が瞬いて東の空が白む頃、王国に高貴なお子が誕生した。母譲りの真っ白な肌に父そっくりの青い瞳。ふわふわと金色の髪が生えており、猫目の目元は王太子妃の眼差しを思い浮かばせた。
王国の第一王女マルガレーテの誕生である。その半年前には、コットナー伯爵家に男児が生まれていた。
彼は長じて、母譲りのおっとりとした風貌から穏やかな人物と見せかけて、その内側は父譲りのキレ者となる。
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