第24話
教会からの帰り道。サフィリアは馬車の中で考えていた。
サフィリアは、こう見えて有能である。
だが、その才能は彼女が無意識のうちに発揮される。熟考している時には、大抵良くない方向へ行く。
何故、姉の下で彼女が有能でいられたのか。それは姉という絶大なる信用を寄せる、疑いようのない大いなる存在の下にいて、サフィリアが何かを案じたり考える必要がなかったからだ。
姉の執務を手伝う時にはほぼ無意識。能力を遺憾なく発揮するのに、サフィリアは無の境地にいた。
伯爵夫人となってからも、慣れれば家政は大体生家と同等のもので、一度覚えてしまえば無の境地で成し得た。
何度も言うが、サフィリアは有能である。だがそれは、なんにも考えていないから発現し、成し遂げられることだった。
現在、サフィリアは離縁についてを絶賛考え中で、考え過ぎているのだから上手くいく訳がない。
本人ばかりはそれに気がついていないから、物事とは考えれば考えるほど精度が高まると信じている。
今も離縁に向けて己は何をすべきか、揺れる馬車の中で熟考していた。
「そうだわ。時間は有限、無駄に手間取ってはいけないわ。先ずは離縁誓約書にサインをして、それから旦那様からもサインを頂戴したなら可及的速やかに邸を退出せねばならないわ。立つ鳥は後を濁さないって言うじゃない。であれば、サイン→速攻退去。これしかないわね」
向かいに座るタバサに聞き取れないほど小さな声で独り言を呟く。
馬車は緩いカーブを曲がった。遠心力で体が
「何事も前準備って大切よね。料理長なんて前の日からスープを仕込んでいるのだし、ならば私も前の日には用意万端整っていなければいけないわ。今日は先ず離縁誓約書にサインをしといて、それから身辺整理についてをシミュレーションしましょう。そうして明日には最短最速で荷造りするのよ。旦那様がお出掛けになったら直ぐに」
スープと離縁を並べるのはどうかなと思うも、彼女にとってはどちらも同じくらい大切なことだった。
独りぶつぶつ呟くサフィリア。彼女はそんな自分を心配げに見つめる侍女の視線に気づかない。
ぶつぶつ呟きながら、悩ましい表情を浮かべるサフィリアに、タバサは心の奥底から同情した。
最近、ルクスは帰りが早い。休暇だって取れるようになっていた。タバサが発動した王太子への呪詛は効果を上げて、その上タバサは王太子妃付きの護衛騎士と婚約までした。
タバサは今、女の幸せの絶頂にいる。だがその幸福とは、全て目の前の主人、サフィリアから齎されたものだった。
そのサフィリアが悩むこととはきっと、旦那様のことだろう。では、その旦那様を悩ませる奴は誰?
それってやっぱり王太子よね。やっぱり殿下、呪詛しとくべき?
呪詛を得意とする聖女の末裔は、このままでは違う才能を開花させる瀬戸際にあった。
全ての切っ掛け、着火ボタンはサフィリアへの同情と献身で、方向違いの二人の熱意は王家を崩壊へと導き始めていた。
だが、神は人類を見捨てなかった。
もしかしたら、毎日毎日繰り返されるしつこいほどの告解に、もういっぱいいっぱいになっていたのかもしれない。
兎に角、神は手を差し伸べた。神の秘蔵っ子・秘密兵器「司祭」を城に差し向けた。
神の遣いである司祭がルクスを訪ねたのは、翌日のことだった。
「可怪しいわね」
サフィリアは、そこでペン先を確かめようと、側にあったメモ用紙にくるくるくると円を描いた。
「インク、出てるわ」
じゃあ大丈夫、とばかりに気を取り直して書き始めて、
「ええ?どうしたのかしら」
もう一度、先ほどのメモ用紙に今度は名前を書いてみた。
「書けるわ。どうしちゃったのかしら。紙質?」
そこで手元に広げていた『離縁誓約書』を両手で持って日の光に翳してみた。
誓約書は確かに厚手の紙で、内容が内容なのだから当然と思える上質紙である。
「どうして書けないのかしら」
離縁誓約書に署名しようとしたのだが、どうにもペン先の調子が悪い。
仕方なくペンを変えたりインクを変えたり、あれこれ試してみるのだが、そのうちサインを書き込もうとすると手に震えまで起きてしまった。
それはまるで見えない手に手首を掴まれ、自由を奪われるようにも思えた。気の所為か、『愛は返却不可』と女神様の声が聞こえた気がした。
「やだわ、リウマチ?」
サフィリアは若年性のリウマチを疑った。もしや若年性の痴呆であるかもしれない。だってサインが書けないのだもの。
「どうしましょう。でも諦めては駄目よ。必ず書くのよサフィリア」
サフィリアは腹に力を込めた。東国の書物によれば、腹には胆力の源があるのだという。臍の下にあるその場所は、呼吸を整え意識を集中することで、精神が整い集中力が増すのだという。そうして整えられた精神は、岩をも通す力となるのだとか。
サフィリアは、そこで一旦ペンを置いた。瞳を閉じて呼吸を整え、臍下5センチに意識を合わせる。
程なくして、身体の中から光が湧きだし、それは直ぐに身体を突き抜け外に漏れ出た。
全ては飽くまでもサフィリアの脳内イメージであるのだが、サフィリアは素直な気質なので存外、容易くイメージできた。
そのうち光はサフィリアをすっぽり包み、サフィリアごと、まあるい発光体のようになって光った。
今だ!
サフィリアはそこでペンを持った。渾身の一撃とばかりにペン先を署名欄に押し当てた。そのまま一気に「サフィリア・バイロン・コットナー」と書き記した。
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