第22話
その日、ルクスは城に泊まっていた。
ここ最近では珍しく、だがどうにも急ぐ案件があるとかで明日まで帰ってこない。
ルクスが不在の夜は、サフィリアは自室で就寝する。そんな静かな夜には、必ず考えるのだ。
「いつ申し上げればよろしいかしら」
それはルクスへの離縁の申し出であった。
サフィリアは、ルクスを相当の人格者だと思っている。あれだけねっとり愛されていながら、彼の気持ちに気づいていない。
「ごめんなさい、旦那様」
だから、こんな一人きりの夜には、夫の足枷だと思う自分を悔やむ。
一人きりの夜は長い。長い夜には色んなことを考える。夜なのだから寝れば良いのに、残念ながらサフィリアはショートスリーパーだ。
長い夜こそじっくり色々考える。そしてじっくり考えた結論が正解だった試しがない。
「亭主元気で留守だった」
全て東国の格言通り、今日も平和な一日だった。だが、サフィリアの心の中には小さなさざ波が立っていた。
「いつ見ても綺麗な方だわ」
城に泊まるルクスの為に、サフィリアは着替えと差し入れを届けに行った。それは彼が城に泊まる日は毎度のことで、今日も面会を申し込み待合室に向かったところでルクスを見つけた。
旦那様、そう声を掛けられなかったのは、夫が一人ではなかったからだ。
ルクスは女性と一緒だった。
その女性のことは、サフィリアは知っている。彼女は文官でルクスの同僚だ。ルクスからも紹介されていたし、サフィリアも何度か挨拶を交わしている。
ここは王城の回廊で、二人は仕事の話をしているのだろう。夫は邸では見せない
そんな二人にサフィリアは、声を掛けることができなかった。そのままくるりと背を向けて、まるで逃げ出すように待合室に駆け込んだのだった。
たったそれだけのこと。けれど胸の奥に立ったさざ波は、邸に帰ってきてからもなかなか静まることはなかった。
ルクスは優秀な文官だ。そしてキリリとした美丈夫だ。
「本当なら、あんな方が相応しかったのだわ」
一人っきりの夜に一人で考えることに、最適な答えは見つからない。
華やかな姉や王太子妃クラウディアや、夫の同僚の女性文官や、サフィリアの周りにはそんな大物が揃っていたから、自然とサフィリアは自分を小さく見る。
もう随分前に心は決まっていた。覚悟だってちゃんとある。
それでこの夜は、いつまでもこうしていては駄目なのだという、それこそ最も駄目な
「あのぅ」
来た!あのぅ夫人。
司祭は磨り硝子の向こう側の伯爵夫人に呼び掛けられて、条件反射的に帰ってくれと思った。
この夫人、ほんと面倒くさい。話を聞けば聞くほど迷宮に迷い込んだ気持ちにさせられる。
この夫人の突撃(毎日)を辞めてもらうには、彼女の抱える問題を解決に
なにせ夫人は、自分で練り上げた迷宮ワールドで堂々巡りをする天才だ。
なにせ自分を夫を不幸にしている
毎日毎日皆勤賞で告解に訪れるこの夫人を止めるには、やはり自分が出張らねばならないのか。
どうか
サフィリアが、ああでもないこうでもないと昨日と一ミリも変わらない告解を述べるのを聞き流していると、どうも気が済んだのかヒョイと椅子を持ち上げる気配した。椅子を片付けているのだろう。
帰るのか?帰ってくれるのか?
「あのぅ」
何!?
「実は申し上げたいことがございましたの。ですが、ワタクシこの後、お茶会がございまして、残念ながら時間切れなんですの。そういう訳で明日改めて参りますわね」
散々いつも通りの話を並べて、サフィリアは肝心なことを言えずにタイムアップとなった。
サフィリアの気配がすっかり消えたのを確かめて、司祭は告解部屋を出た。
窓から馬車寄せを見れば既に馬車はなく、夫人はどうやら帰ったようだった。
「やっと帰ってくれた」
やれやれと、司祭は一仕事終えたような気持ちになる。
なんだろう。あの絶大なる陰のパワー。 自分のことを
なのにあの自己肯定感の低さと言ったら。
司祭は男の顔を思い浮かべた。
「欲しくて手に入れた妻だろう。何をあんなに誤解させて、二年も拗らせたままにしている?」
いやいや多分その前に、なんとも危うい潔さを発揮して、明日にでも離縁に持ち込む決意をしそうだ。あの凶暴なる陰のパワー。多分、本気になった彼女は誰にも止められない。
「姉仕込みの行動力が仇になるとは」
司祭は、ここにはいない男に向けて語りかけた。今ごろ何も知らずに、人生初めて我がものにしたいと願った令嬢を、奇跡のように娶ることの叶った幸福に溺れているのだろう。
「遅い初恋って、恐ろしいな」
夫人の優秀さは有名だ。年齢が離れている自分でも知っている。優秀な姉の陰に隠れているが、あんなキレ者早々いない。
可愛い妹を、そこいらの能無しボンボン貴族令息に嫁がせはしないのだと、姉は妹の縁談を片っ端から蹴散らしていた。それも貴族の間では有名な話だ。
難攻不落な姉が認めた男。
人を寄せつけない冷たい空気を纏った男。
その男を陥落させた女性が、あの毎日毎日「あのぅ」と迷宮ワールドを背中に背負って告解に訪れる。
「なんだ、その修羅」
心の避難場所である教会にいながら、司祭はとんだ厄災を背負い込んだような気持ちになった。
一層のこと、どこか遠くの教会へ逃げ出したくなった。
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