第3話

 夫が王城に泊まる夜は、サフィリアは夫人の部屋で眠りに就く。


 誰もいない一人寝の寝台に横たわりながら、サフィリアは、ほうと深く息を吐いた。


 薄闇の中に白い天井が仄かに浮き上がって見えている。その天井には花弁模様の飾り彫りの装飾がなされて、なんでも夫がサフィリアを迎え入れる際に、どこぞの名工を呼び寄せて彫らせたのだという。


 元より城に泊まることの多い文官職。

 妻に娶ったサフィリアが、一人の夜に淋しくないように夫は天井を飾らせた。

 侍女頭のサマンサからは、そんなことを聞いていた。


「ほうぅ」


 もう一度、深い溜め息をつく。春の夜は肌に触れる空気が心地よい。このまま微睡んで眠れそうだと思う。


 一人切りになってようやく誰の目も気にせず溜め息がつける。

 誰もいない宵闇の世界だけが、サフィリアにありのままの姿でいることを許してくれる。


 そこで美丈夫な夫の顔が思い浮かんだ。


 夫は出来た人だ。だから決して口には出さないが、心の中ではサフィリアよりもよほど深い溜め息を吐いているはずだ。


 夫はサフィリアに愛情を抱いているわけではない。彼は、仕方なくサフィリアを妻に娶ったのだから。


「ごめんなさい」


 もう何度呟いたかわからない言葉は、浮き上がる白い花弁に溶けて消えた。



 サフィリア・バイロン・コットナーはコットナー伯爵家の当主夫人である。夫のルクスに嫁いで二年になる。


 ルクスは、今年二十二になるサフィリアよりも四つ年上で、とある夜会で二人は出会った。

 あれが出会いというのなら、夫は随分可哀想だと思う。


 本来なら、ルクスはサフィリアのような妻を得ずとも良かったはずで、まるで事故のような不幸な出会いの末に、「責任を取る」という形でサフィリアを娶った。


 場合が場合であったから、婚約期間なんてものはすっ飛ばして、社交シーズンが終わった時期であるのをよいことに、身内だけのこじんまりとした式を挙げた。


 伯爵家同士の婚姻で、どちらもそこそこ財のある家柄なのに、まるでこっそり隠れるような挙式の有り様が全てを物語っていると思う。


 ルクスは年齢よりも落ち着いて見える。

 一重瞼の眼差しが少しばかり人を寄せつけない雰囲気を漂わせているが、淡い金の髪と鮮やかな翠の瞳が、そんな彼を洗練された姿に見せている。実際、彼は洗練された大人の男性だ。


 そんな彼の妻が自分だなんて。


 再び溜め息が出そうになって、サフィリアは思い留まった。余りに溜め息ばかりをついていては、この美しい部屋は嘆きの間と化してしまう。


 ルクスと婚姻を結んで、もうすぐ二年。婚姻から二年経っても、いまだにサフィリアは逃げ出したくなる。

 どこへ逃げるって?

 彼の元以外なら、どこへでも駆け出して逃げてしまいたい。


 それほど夫が嫌なのかと言われそうだが、そうではない。サフィリアは、ただただ申し訳ないだけなのだ。あの日の責任、その一点で夫の人生を縛っている。



 美丈夫の貴族当主を夫に持つ。そんな幸運を願ったわけではないサフィリアは、華やかな貴族の社交場でひっそり埋もれるような令嬢だった。


 サフィリアは、王都住まいの伯爵家の次女に生まれた。姉が一人おり、その姉は今は夫を得て爵位を継いでいる。サフィリア自慢の女伯爵である。


 幼い頃からサフィリアの緩くうねるブルネットの髪は、侍女の手入れのお陰で艶々だった。なんだったら、今でもサフィリアの唯一の長所だろう。

 あとは消炭色の暗い瞳と白いのか青いのか分からない微妙な肌色の、どことなく地味で陰のある、そんな令嬢がサフィリアだった。


 嫡女の姉も同じ色の髪と瞳であるのに、堂々とした姉は、少女の頃から大輪の深紅の薔薇のように美しかった。


 姉には学園に入学する前から、婿入りを願う令息たちから数多の釣書が届いていた。


「サフィリア。ゲームをしない?」


 あの日、姉は春に入学したばかりの学園がお休みだった。

 姉は朝からサフィリアを部屋に呼んで、サフィリアのうねる髪を三つ編みに結いながら言ったのだ。


 その頃、帝国で『リリちゃん人形』なるものが大人気だった。噂は遠く王国にも聞こえていた。それが濃いブルネットの髪を三つ編みにして分厚い眼鏡を掛けているのだという。


 別名『ガリ勉リリちゃん』と呼ばれているその人形は、帝国大学受験の際に合格祈願に訪れる教会の門前で売られている縁起担ぎの土産品であるらしかった。


 姉はその話を友人から聞いて、「うちには生きたリリちゃん人形がいるわ」と言って、サフィリアを三つ編み眼鏡にして余暇を楽しんでいた。


 今日もそんな風に姉に髪を結われていたのだが、姉はゲームをしようと誘ってきた。


「なんのゲーム?」

「大したことではないわ。カードゲームよ」


 そう言って、姉はその頃には大量に送られてくるようになっていた釣書の束を、うんしょとベッドの下から引き摺り出した。


「これこれ、大判のカードにしようと思って」

「お姉様、そんなことはいけないわ。大切な釣書でしょう?お相手にも失礼よ?」


 サフィリアはそんなことは失礼だと姉を止めた。だが姉は釣書を大きなトランプだと言って、結局サフィリアもそんな姉に流されて、二人はカードゲームを楽しんだ。


 あの時のジョーカーは、一体誰だったのだろう。


「ふうん。この方ね」


 ただ確かに姉は、サフィリアが最後に引いた一枚を受け取り、それからカード、間違い、大切な釣書を開いた。


 その翌週に、姉は一人の青年と婚約を結んで、それが今の義兄である。



 夜気の柔らかな春の宵に、つい懐かしい記憶が甦る。


 美しく利発で聡明な姉にほんの少しでも似ていたら、サフィリアはもっと堂々と夫とも向き合えていたのだろうか。

 いやいや、それは無理だろう。だって中身も地味だもの。


 寝台の中でいやいやと首を振りながら、今宵も城に泊まって戻らない夫のことを思った。





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