空をたがやす
望月ゆい
第1話 逆転した世界で
ある日、空と地が逆転した。
十年前にそれは突然起こった。上の地面には森や畑が広々と浮かび、下の空には都市ができた。広い海はたぷたぷと落ちてくることなく、太陽の光は足元から人々を照らす。人々はそれを「逆転」と呼んだ。逆転から十年が経ち、すべてが日常となった。
リョウはパイロットだった。今は飛ばない。それでも空にすがりつくようにドローン整備士として働いている。かつて飛んでいた頃の記憶を時折、思い出す。初めて雲を突き抜けた日の、あの圧倒的な静けさ。音もなく、ただ機体だけが空を切り裂いていく。あのとき自分は、本当に自由だったと思った。なのに今は、空を憎んでいる。こんなことをした神を殴り飛ばしたい。冷たい部品を扱いながら、空を見ることなく、空に触れている。
夜に窓を開け、地上を見上げる。ドローンの機械音が降るように聞こえてくる。まぶたには「正しい空」が残っている。雲が浮かび、星が輝き、月が照らしている。もうそれはどこにもなかった。
空はリョウのものだった。しかし、空はみんなのものになった。飛行機やドローンはこの時間でも所狭しと飛び交っている。
扉がどんどんどんと強く叩かれた。
女が立っていた。日に焼けた肌に、風の匂いが印象的だった。
「リョウさんですか?」
リョウは答えない。彼女は手に持った紙袋を掲げ言った。
「じゃがいも、食べたくありません?」
フライパンを見つけ、皮をむいて切り始める。油がはじけ、香ばしさが部屋に広がる。フライドポテトを作るようだ。ぐぅ、と腹が鳴る。逆転で、もっとも人々を悩ませたのは食料の確保だった。リョウもここしばらくは少しの雑穀と人工肉、サプリメントしか口にしていない。
「ヒサって言います」
丁寧にじゃがいもをあげながら彼女は口を開いた。
「農家なんです。でもうちのドローンが壊れちゃって。特殊なものだからどこも直せなくて困っていたんです。でもリョウさんならって紹介されて」
「…それで、食べ物で釣る気か」
いちばん効果的でしょう、とヒサは冗談交じりに笑う。山盛りのフライドポテトを乗せた皿を机に置く。結局、リョウは空腹に負けた。それは、ほくほくとしていて甘く、風の味がした。
「…美味い」
ヒサはにこりと笑う。笑顔の奥に逆さまの太陽を見た気がした。
倉庫に転がるドローンは見たことのないものばかりだった。一目見ただけでこれを作った人間は天才だと感じるものたちだった。
「母が設計して、父が作ったんです。上の地面でも使えるように作られていて」
水撒き用、収穫用、耕運機などと説明を受ける。ヒサの声は、かつて上昇気流の中で聞いたあのざわめきを思い出させた。
「畑に行きましょう」
実際に見てみないと空の人にはイメージがわかないですよね、とヒサは言う。
逆さまの畝。空から垂れ下がる茎や葉。野菜たちが下からの日差しによってきらめく。
「耕すときには土が落ちてきて泥まみれ。水をまけば息ができないほど水が降ってきます。重心を崩せば収穫のときに空に落ちちゃいますね」
「逆転」の農業はリョウの想像を超えていた。
「わたしの両親は農作業中の事故で亡くなりました。父は水撒き中に逆さの水に足を取られて。母は収穫用ドローンが暴走したときに空から落ちて。でも…」
畑を愛おしそうに見つめながら続ける。
「美味しいんですよ。地面で育てた食べ物って」
静けさが、妙に心に残った。彼女にとって「食べ物」には「生きる」よりも深い意味があるかもしれない。
「夢があるんです」
ヒサは言った。
「わたし…地上で育てた野菜を、空の都市でも当たり前に食べられるようにしたいんです」
トマトをもぎとりリョウに渡す。ヒサの手は、生きた手だった。爪の奥にまで泥が入り込み、指先には無数の小さな傷がある。日に焼け、乾ききった肌が逆転の陽にきらめいていた。
「どうぞ」
トマトは水分を十分に蓄えて弾けそうだ。しゃくっと歯が立った。「逆転」前を含めてこんなものは食べたことがない。胸の奥にしみこんでくる。空が落ちたあの日、自分が何を失ったのか、ようやく思い出せた気がした。
「どれからだ?」
ヒサが不思議そうな顔で見つめてくる。
「どのドローンを直せばいい」
体が熱くなる。空を飛んだ時のような熱だ。こんな気持ちになったのは「逆転」が起きてから初めてだ。飛んでいた頃、雲の上を滑るように進む機体の振動が好きだった。遠くに小さな光を見つけると、そこに誰かがいる気がして孤独じゃなくなった。
「まずは収穫用ですね!」
リョウは足元に目を向ける。空を見た。下から指す光が温かい。
空をたがやす。
この空で生きる意味が、あるかもしれない。
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