自分を守るために逃げることは、間違いなく正しいことです
塾で働き始めて、僕の心配は杞憂に終わった。
ヨミに教えるのと同じ要領で授業をする。それだけでよかったみたいだ。
むしろヨミよりも理解力がある生徒もたくさんいた。なんて言ったら彼女に怒られるだろうか。
「はい、
中学生の女子に、採点したプリントを返却する。
「やったー。じゃあ間違ったとこ、もう一回やってみます」
篠田さんは、明るくて元気で、こちらが話したことをしっかりと聞いてくれる、とても教えやすい女子生徒だった。
入って間もないタイミングで彼女を担当することになったのは、僕に対する塾長の気遣いだろう。
「うん。それが終わったら、こっちね」
「えー、もう疲れちゃいました。西野先生、ペースが速いですよー」
西野先生、と呼ばれるのはなんだかくすぐったい。
「ごめんごめん。篠田さんが優秀だから、つい」
「マジで? じゃあ頑張っちゃおうかなー」
篠田さんは嬉しそうに笑う。
その素直さが微笑ましかった。ヨミにも見習ってほしい。
もちろん、素直な生徒もいれば、一筋縄ではいかない生徒もいる。
生徒の半分は中学生で、中学生といえば、思春期、そして反抗期である。
とはいえ、塾に遅刻してきたり、授業中にスマホをいじったり、くらいがせいぜいで、理不尽なことで言いがかりをつけてくる理解不能な顧客や、大きなミスを何も聞かされていない僕のせいにする同僚に比べれば、それはもう、とても可愛らしいものだ。
生徒たちは雑務を僕に押し付けて一時間以上タバコ休憩に行ったりしないし、電話で取引先に高圧的な態度を取ってありったけの罵声を浴びせたりもしない。
仕事というものに対してあれほど苦手意識を抱いていたのが信じられないくらいに、僕はまあまあ上手く馴染めていると思う。
塾長も誉めてくれた。
「生徒たちからの評判もとてもいいよ」とのことだった。
それがお世辞なのかどうかはわからないけれど、少なくとも面と向かって怒られたり、わざと見せつけるようにイライラされたりはしない。
前の職場が異常だったのかもしれない。最近になってようやく、僕はそのことを理解した。
頭ではわかっていたつもりだったが、心のどこかで、やっぱり僕に忍耐力がなさすぎたんじゃないか、とか、大人はみんなああいうのを我慢して生きているんじゃないか、とか思っていた。今は、そういった考えもほぼ完全になくなった。
ブラック企業は全部潰れてしまえばいいのに。
こうして僕は、精神的にもある程度安心して生活ができるようになった。
立場としてはアルバイトだが、週に四日ほど授業が入っていて、月に十万円程度は稼げる計算た。
貯金もまだあるので、しばらくは問題なく生活できるだろう。
しばらくは、だが。
しかし、先のことを考えすぎて、今がおろそかになってはいけない、ということはすでに学んだ。
自分のペースで、ここからまた頑張っていこう。
「西野先生、入ったばかりなのに、すごいですね」
事務スペースでお茶を飲んでいると、柔らかくて穏やかな声が耳をくすぐる。
「え?」
「生徒たちからすごく人気ですよ」
話しかけてきたのは、
長めの黒髪はサラサラで、落ち着いた雰囲気を纏っている。
派手な華やかさはないけれど、内側から美しさがにじみ出ているような人だった。
言葉遣いや所作も綺麗で、とても聡明なことが、初めて話してから五分も経たずにわかった。
「西野先生は、間違えても優しく教えてくれるって、生徒たちが嬉しそうに言ってました」
まるで自分が優しくされたかのように、朝江さんはにこやかに笑う。
「それはたぶん、舐められてるんだと思います」
平均で三回くらい授業をすると、子どもたちは僕に対してタメ口になっている。
この大人には逆らわない方がいいだとか、この人はある程度砕けても大丈夫だとか、子どもたちはそういう判断がとても上手い。昔の僕はそういった器用なことはできなかった。もちろん今もだけど。
「年下の人から舐められることも、才能のひとつだと私は思います。あ、もちろん、良い意味でですよ」
普通だったら、それを皮肉だととらえてしまいそうだが、上品な笑顔を浮かべる朝江さんが言うと、まったく皮肉に聞こえない。実際、褒めてくれているのだろう。たぶん。
「はは、ありがとうございます」
朝江さんは週に三日ほど出勤していて、そのうち二日は僕と出勤日が重なっていた。
授業準備のときに少し雑談をしたりするのだが、彼女は結構ミステリアスな人だ。
ある日の会話で、僕はそれを知った。
「西野さんって、ここで働く前は何をされてたんですか?」
「ここにくる前、ですか?」
前の会社のことを思い出して、見えない傷痕が痛んだ気がした。
「あ、ごめんなさい。答えたくなかったら答えなくて大丈夫です」
「いえ、大丈夫ですよ。普通に社会人をしてました」
普通に、という自分で発した言葉が刺さる。その普通さえも満足にできなかったのだと、勝手に責められている気持ちになった。
「そうだったんですか。だからすごくしっかりされてるんですね」
「しっかりなんてしてないですよ」
上手くいかない人生に打ちのめされて、死のうと思っていたくらいですから。
「朝江さんはずっとこちらで塾講師を?」
「いえ。私も働き始めたのは去年からです。その前は、色々と他のことを……」
「色々……というのは?」
「はい。その……」
朝江さんは口ごもる。
「あ、すみません。話したくなかったら、全然」
「こちらこそごめんなさい。私から質問しておいて……」
「いえいえ。そんな」
「まあ、簡単に言ってしまうと、働いてなかったんですよね」
「そうだったんですか」
さっきみたいにならないように、相槌だけにとどめておく。
「はい。人間、働かなくたって、どうにかなるんですよね。特にこの国では、色々な理由で働けない人向けの制度も充実してますし」
「たしかにそうですね」
一度仕事をを辞めてから、僕もそのことを実感した。
贅沢はできないが、最低限、生活していくことはできる。とてもありがたい国だ。
もっと早く気づいていれば、と思わなくもないが、それを言っても仕方がない。
「何が正しくて何が正しくないのか。そもそも正しい答えがあるのか。人生って、そういうの、たくさんあると思うんです。だけど、自分を守るために逃げることは、間違いなく正しいことです」
他の人の発現だったら、怪しいセミナーにでも勧誘されるんじゃないだろうか、と警戒してしまうようなことも、朝江さんが言うと、耳に心地よくスッと入ってくる。柔らかくて穏やかな声のおかげかもしれない。
「朝江さんって、声、綺麗ですよね」
つい、そんな発言をしてしまう。
「え?」
「あ、すみません! つい、思ったことがそのまま口に出てしまって……。失礼しました」
セクハラになってもおかしくなさそうな発言を、慌てて弁解する。
「いえ、とても嬉しいです」
うつむいて、頬を染める。
そのしぐさに、不覚にもドキッとしてしまう。
「では、そろそろ授業なので」
僕が何も言えずにいると、朝江さんはプリントを抱えて立ち上がり、教室へと向かった。
塾で働くうちに、心に塗られていた不安の色が、どんどん薄くなっていった。
周りがどんどん内定をもらう中、僕だけ就職先が決まらなかったときも、やっと就職できた職場で成績が最下位になったときも、黒い雲のような何かが僕の胸の中にあった。
そして退職したときも、解放されたと感じていた一方で、社会というものから取り残された不安を感じていた。
だけど、世界は想像よりも優しかった。
世界は僕たちを不幸にしようとしている、なんてヨミは言っているけれど、自分を不幸にしているのは、実は自分自身なのではないかとも思えてくる。
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