【短編小説】星を摘む翻訳者たち ~愛はチャットの向こうに~
藍埜佑(あいのたすく)
第1章 静寂を破る電話
午後三時の陽光が、桜木志帆のマンションの小さな書斎に斜めに差し込んでいた。机上には十九世紀イギリスの児童文学『秘密の花園』の原書が開かれており、その隣には辞書と参考資料が整然と積み重ねられている。志帆は万年筆を手に、一語一語を慎重に選びながら翻訳作業を進めていた。
彼女にとって、この静寂こそが至福の時間だった。
人の声も車の音も遮断された空間で、原書の作者と対話を重ね、日本語という言語の可能性を探求する。三十五歳になった今でも、言葉の魔法に心を奪われる瞬間は変わらない。
志帆は大学で英文学を学んだ後、出版社に就職したものの、人間関係の煩わしさに耐えきれず三年で退職した。
以来十年間、フリーランスの翻訳家として古典的な児童文学や文芸作品を手がけてきた。クライアントとの連絡は基本的にメールかチャット。編集者との打ち合わせも最小限に抑え、できる限り人と直接関わらずに済むよう工夫していた。
そんな彼女の平穏な午後を破ったのは、携帯電話の着信音だった。
画面には「風の丘の家 村田園子」と表示されている。志帆の心臓が一瞬跳ね上がった。二年前、姉の葉子が交通事故で亡くなって以来、この施設からの連絡は志帆にとって重いものでしかない。
「もしもし、桜木です」
「お疲れさまです。風の丘の家の村田です。お時間いただけますでしょうか」
受話器の向こうから聞こえる村田園子の声は、いつものように穏やかで温かい。しかしその奥に、何かを伝えなければならないという使命感のようなものを志帆は感じ取った。
「はい、大丈夫です」
「実は栞ちゃんのことでご相談があります。最近、他の子供たちとの関わりが少なくなってきていて……」
志帆は目を閉じた。栞――亡き姉の一人娘。八歳になったばかりの少女は、母親を失ったショックから立ち直れずにいる。志帆は月に一度、施設を訪れて栞と面会していたが、毎回言葉を交わすのがやっとという状況が続いていた。
「どのような様子なのでしょうか」
「お部屋で一人でいることが多くて、食事の時間以外はほとんど他の子と話をしないんです。職員が声をかけても、返事はするのですが……心ここにあらず、といった感じで」
村田の言葉に、志帆は胸が締め付けられる思いがした。姉の葉子は明るく社交的で、いつも人に囲まれていた。その娘が今、心を閉ざして一人でいる。
「それで、お願いがあります」
「はい」
「週末里親制度について、以前お話ししたことを覚えていらっしゃいますでしょうか」
志帆は椅子にもたれかかった。週末里親――金曜日の夕方から日曜日の夜まで、施設の子供を一般家庭で預かる制度。村田は以前、選択肢の一つとして軽く触れたことがあったが、志帆は即座に不可能だと感じて話を遮っていた。
「栞ちゃんには、施設以外の居場所が必要だと思うんです。もちろん、無理にとは申しません。でも、桜木さんなら……」
「私には無理です」
志帆は反射的に答えた。
「子供の世話なんてしたことありませんし、そもそも私は人と暮らすのが苦手で……」
「一度だけでも構いません。まずは一度、栞ちゃんと週末を過ごしてみていただけませんか」
村田の声には、押し付けがましさが全くない。それがかえって志帆を追い詰めた。断る理由はいくらでも思いつくのに、断ってしまったら栞がどうなるのかという不安が頭をもたげる。
「少し考えさせてください」
「もちろんです。ただ、栞ちゃんにとって、桜木さんは唯一の血縁者なんです。彼女なりに、お母さんの面影を桜木さんに重ねているように思います」
通話を終えた後、志帆は机に向かったまま動けずにいた。原書の活字が滲んで見える。姉への罪悪感と、自分には荷が重すぎるという恐怖感。その狭間で、志帆の心は激しく揺れていた。
窓の外では、夕暮れが静かに近づいている。いつもなら翻訳作業を続けるはずの時間だったが、今日は一文字も進まない気がした。
志帆は本を閉じ、キッチンでコーヒーを淹れた。マグカップを両手で包み込み、湯気を見つめながら考える。自分に何ができるのか、何をすべきなのか。答えの出ない問いが、心の中でぐるぐると回り続けていた。
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