第2話 その名はしず

初めて行うことは、相応に手続きもかかる。


まずは母かず実に報告をする。


かず実は、ひよりが早々にバイト先を決めてきたことで両手を上げて喜んでくれた。


バイトの初日は一週間後と決まっていたが、その前日、回転寿司で景気づけにパーっと食べましょうということになった。


続けて学校である。


学校ではアルバイト届という書類を提出することになっているようで、これもバイトに入る前日までに店主と保護者の押印が必要な書類だ。


それらが揃ってようやく手続き終了となるのだ。


そして、マスター・山本つむぎの方でもひよりを出迎える用意をしてくれているようである。


新しいエプロンを前日までに購入し、ひより用のカップも新調してくれたようだった。


そして、当日がやってきた。


あいにく掃除当番の日と重なってしまったが、まだ高校生のひよりの出勤時間までまだ時間がある。


特に用意するものはないので、そのまま学校終わりできてくれて大丈夫と言われていた。


とはいえ、学校は制服でのバイトだけは何故か禁止である。


通学カバンとは別のトートバッグに、着替えは一応入ってはいる。


問題は着替える場所があるかどうかだ。


最悪、トイレでも……と考えていた。


ひよりは出勤するとまず、マスターにそのことを思い切って尋ねてみた。


「ああ!……気づかなくてごめんね。このドアの向こう、ボクの部屋と倉庫があるけど、好きな方使って着替えて。次の出勤までロッカーみたいなもの用意しておくから!」


「ありがとうございます」


ひよりは礼を言って、倉庫に繋がるドアを開けた。


倉庫は薄暗くひんやりとしていた。


かたん。なにもないのに、瓶が、倒れたような気がした。


慌ててそこをみるが、どうもなにもなっていない。


「うん。気のせいだ」少し大きな声を出して、気分を切り替える。


まだ糊の付いたエプロン。黒地のそれは撥水加工が施されており、汚れにくい素材であるらしかった。


「……これはこのバイトの制服です。できたら大切に使ってください」


「はい!」ひよりはどこか誇らしい気持ちになった。



それからは覚えることばかりの連続だった。


まずは掃除全般。飲食店には必ず、トイレも設置されているがその清掃から、床磨きテーブル拭きまで、その後、十分ほどの休憩を挟んで、今度はフードメニューの暗記と続いた。


瞬く間に一時間が経った。


労働とは、こんなに大変なものだったのか。


(父ちゃんお母ちゃん、ごめんなさい)


今まで、働きながら娘のひよりを育ててくれた父母につくづく感謝の念が溢れてくる。


「ふう……」


思わずため息を付いてしまうひよりであったが、マスターは眉を寄せるでもなくそっと微笑んだ。


「……今は、お客様がいらっしゃらないので、セーフ。ですが、お客様の前では控えてくださいね」


「はい!すみません」


確かに、ため息を付く店員はいたら嫌なものである。


(しっかり、しなきゃ)ひよりは、気持ちを引き締めた。


『ふふっ。その調子よ』


「だれっ?」ひよりはまた得体のしれない声を耳元で捉えた。


「……どうか、しましたか?」


グラス磨きをしていたマスターが、一瞬手を止め、心配そうにひよりを見た。


「ごめんなさい。なんでもないんです」


胸が、ドキドキする。ため息をつきかけて、息を止めた。そして残りの息をゆっくりと吐き出す。


「ねぇ、マスター。ここって、なにか、いるんですか?」


「……そうですね、ソレは、いるっていうか……」


その時、唐突に店舗入口のドアが開いた。ドアにつけてあるベルがカランと軽やかに鳴る。


「……いらっしゃい」


「マスター。ただいま」


美少女。である。透明感のある肌。パッチリとした目鼻立ち。長い黒髪は絹糸のよう。


そして、着ている制服は市内一番のお嬢様学校のもの。


(え、ただいまっていった?娘さん?)


マスターはひよりの疑問が手に取るようにわかるため、苦笑をにじませた。


「……ボクにこんなに大きな子供はいませんよ。さあ、お客様にお冷をお出ししてみましょう」


少女はさも当然のように、カウンター席の奥の席を陣取った。


彼女の定位置でもあるようだ。


「あんたが、高校生バイトちゃんなわけね」失礼な物言いである。


「安心しな。ここは守られてる。そう簡単に潰れたり、しないから」


そう言ってニッコリ笑うと、ひよりが運んできたお冷を飲み干した。


「ごめん。もう一杯ちょうだい。喉、乾いちゃって」


「……しずさん。また、連れてきちゃってますか」


「どうしても、人数多いところ通うもの。仕方ないよ」


しず、と呼ばれた少女は男の子のように肩をすくめた。


(え?何の話?──連れてきたって、なにを?)


マスターとしずの横顔を見開いた目で、交互に見返すひより。


「え。マスター。まだ、ここのこと説明してないの?」


「……実は、まだ、なんです」


「そっか。それはそれでいいんじゃない?いつかわかるよ。」としずはひよりを見上げると、「大丈夫」と笑った。


(なにが、大丈夫なの???)


ひよりは、驚愕する。


気を取り直して、しずの手元にある空になったグラスにステンレスのウォーターピッチャーから静かに水を注ぎ入れた。


その時、不可思議な説明のつかないことが、起きた。


しずも飲んでいないし、誰も触っていないのに、注いだばかりのグラスの水が掻き消えていた。


グラスの中をのぞき込んでも、水滴ひとつ残っていなかった。


ただの“乾いている”とも、少し違う。


(……最初から、何もなかったみたい)


ひよりの背筋に、スッと冷たいものが走った。


「……本当に喉が乾いていたんですね」


「だから、そういったじゃん」


「え?え?」


わかっていないのは、ひよりだけだった。


「……さて、しずさん。今日はなにを召し上がる?」


「そりゃ、いつものをお願いします」


「……かしこまりました」


マスターは冷蔵庫から食材を取り出し、ガス台に向かうと、一心不乱に料理を作り始め、瞬く間に三人前が出来上がった。


「……日替り定食、おまたせしました。今日のメニューはチキンの香草パン粉焼きです」


「やったー!これ、ほんと大好きなんだよね!!」


香ばしい香りが、店内隅々に拡がっていく。


香ばしいパン粉をまとったチキンソテーからタイムとローズマリーの爽やかな香りで食欲をそそる。


小鉢の中には、かぼちゃとひよこ豆のサラダ。


汁物は、たまごとトマトの中華スープで喉を潤せる。ふわふわのたまごが口の中でほどける絶妙なスープ。


ご飯は、十五穀米ご飯。しずのために用意されているとのことだ。


そして、この定食にはデザートもある。


レモンゼリーのミント添えだ。


ぷるんとした食感が楽しくて、いつまでも食べられる。


マスターはしずの横、カウンター席の空いているところにも、定食を置くとひよりに座るように促した。


「……これはうちのまかないです。冷めないうちにどうぞ食べてしまってください」


「え、まかないって、こんなに豪華なんですか?」


「……他の店で勤めたことがないのでわかりませんが、うちはこうしています」


「そうそう。これは、私のリクエスト、なんだよね。って、マスター。これはやっぱり事前説明できないわー」


「……そうだと、思いました。ボクも」


マスターとしずは笑い出した。


ひよりは首を傾げるばかりだった。


「……しずさんは身寄りのない方で、一緒にご飯を召し上がってくださる方がいないということで、ここに通って頂いています」


「そうそう。もう4年になるかな。懐かしい話だよね。全く」


「……そう、なんですね」


「あ、そうそう、私のことはしず、呼び捨てでいいから、ね。ひよりん」


「ひよりん……」ひよりは自分を指さした。


「そ。ひよりん」


端正な顔がウィンクを仕掛ける。その爆発的威力ときたら、たまったものではない。



食事を終え、しずが帰宅する頃には、ひよりの初アルバイトも終了時間を迎えた。


「……お疲れ様でした。初日、いかがでしたか?」


「えと、覚えること、たくさんで大変でした」


「……案外、多いものでしょう?」


「それより、マスター。あの。ここって」


「……ああ、皆様、ひよりさんを歓迎していますよ。良い人がきてくれた、って」


(やっぱりか……)


「……普通の方は、案外、気づかなかったりもするんですが、ひよりさんは感受性の高い人なんだと思います。だから、わかる」


「わかる……わかっちゃったんですね。私」


「……安心してください、おっかないことは起きません。多分──」


(多分ってその含みは何?)


怖すぎて、言葉にならなかった。

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