第6話 宵山の誘惑と貴船の鮎

「中田さん、祇園祭はどうしはるんですか~?」


サキチが、上目遣いで僕を見つめた。

夕方シフト、客の途絶えたタイミングを捉えて彼女はいつの間にか僕の横に来ていた。


サキチは、この春から新しくバイト先に入ってきた立命館の一回生だ。

大阪の京阪沿線から衣笠まで通っているという彼女は、本当の名前は紗季子と言うのだが、

人懐っこい性格と、中学生みたいなその小柄さと童顔からすぐに古参連中からの愛されいじられキャラの立ち位置を確保し、皆からサキチと呼ばれるようになった。

もちろん石田三成とは無関係だ。


もしかしたら一つ年下の舞子より小柄かも知れない。

舞子が洋風のお人形としたら、サキチは和風の人形、例えれば京人形がショートカットになったような感じで、タツヤなんかは時々、「おい、そこのコケシ」なんて呼んだりもしていた。


「もう~!西村さん、誰がコケシですかぁ~。こんなキュートなコケシどこにいます?」


先輩からのイジりにも物怖じせず笑いながら返すサキチは、あっという間にバイト先のマスコットみたいになった。



「ん?祇園祭?宵山は行くで」


「え~?カノジョさんとですか?」


「そんなん居てへんよ。親戚の子を連れてったげんねん。去年連れてったらエラい気に入ってな」


「へ~、カノジョさんとやないんやったら、私も連れてって下さいよ~。行ったことないんですよ~」


天然の甘え上手と言うんだろうか、サキチは誰にでもこんな調子だから、僕もつい


「ええかもな。多分年も近いし、1回訊いてみるわ」


と安易に返事をしてしまった。

まあ、舞子にも同年代の友達ができるのもいいかも知れない。

──そう思ってしまったのが、後から思えば甘かった。


◇    ◇    ◇    ◇


「あ、ハルくん、なんか大きな封筒きてたよ」


バイトから帰ってきた舞子がそう言って分厚い白い封筒を渡してくれたのは、八坂さんの夏越大祓に出かけた日の夜だった。

内定先の出版社の名前が印刷されている。

開封すると中身はその出版社が出しているグルメ情報誌の最新号だった。

そう言えば、内定者にはこれから毎月最新号の見本誌を送ってくれると言ってたっけ。


『京の涼、川床で味わう

貴船・鴨川・高雄──夏の床完全ガイド』


見るからに涼しげな清流に出された川床とその卓に並んだ鮎の塩焼きの写真の上に、そんな文字が白抜きで並んでいた。


「わ!すごい素敵!中見てもいい?」


舞子が大きな目を輝かせた。


「ええよ~」


僕はそう言いながら台所に立ってコーヒーサーバーに氷をたっぷりと入れて、ケトルを火にかけ、深煎りの豆を挽いた。

カリンカリンに焼いた深煎り豆を極細挽きにして、ホットのときよりも注ぐ湯を細くゆっくりと落とすと、とても美味しいアイスコーヒーができる。

冷凍庫の製氷皿の氷があっという間になくなって、1日に1回、2杯分しか作れないのが残念だけど。


舞子はソファベッドに寝転んで、食い入るようにページをめくっていた。


「いいな~、こんなの1回行ってみたいね」


「うん、けど、学生にはちょっと手が出えへん値段やろ?」


「ホントだね~。わ、ランチでも5000円からだって!」


「うん。その雑誌、お金持ってる食道楽の大人向けの雑誌やからな」


と、あるページで舞子の手が止まった。


「ハルくん、なんかお手紙みたいな封筒が挟まってるよ?」


そう言って手渡された白い封筒の中身を取り出してみると、


『貴船川床 鮎ランチご招待券』


と書かれたカラーのチケットが2枚出てきた。

もしかしたら読者プレゼントとかで編集部が用意していたものが紛れ込んだのかも知れない。


「ん~、明日会社に電話してみるわ」


僕はそう言ってチケットを封筒に戻し、舞子との連絡板にしているコルクボードの端っこに押しピンで留めた。


────


「あ、それ、内定者へのプレゼントやね。」


早朝の鴨川人形流しパトロールから帰ってきて二度寝をした後、会社に電話をかけると、そんな返事が返ってきた。

人事部長によると、掲載しているお店がぜひにとご招待券を10組分出してくれて、それを内定者に見本誌を送る時に同封したらしい。


「都合のええ時に予約入れて彼女とでも行ってきたらええよ。あ、けどな、祇園祭の宵山、宵々山、巡行の日と、お盆とかはあかんで。いくらお店のご厚意や言うても、さすがに書き入れ時に迷惑かけたらウチの雑誌の看板に傷つくわ」


「分かりました。ありがとうございます!」


「ほな、8月20日の内定者オリエン、待ってるで!」


8月20日というのは、本来の就職協定では学生の会社訪問を受け入れてもいい『解禁日』で、でもこのご時世にそんなものを律儀に守っている会社なんてなくて、みんな春から会社訪問を開始してゴールデンウィーク明けには内々定が出始める。

一応名目上の解禁日には、せっかく内々定を出した学生が他の企業に取られないように自社に集めるのが一般的になっていて、それは学生の間では『拘束日』と呼ばれていた。


「舞子、昨日の雑誌に載ってた川床のお店、行けるで!お昼の鮎コース!」


「えー!?うそ!?すごーい!いいの!?」


「うん。『空前の売り手市場』てやつやな」


「やったー!」


「えっとな、さっき天気予報で来週の後半は梅雨の晴れ間で快晴や言うてたから、その辺どうやろ?」


「ランチだよね?バイトは夕方5時からだから、いつでも大丈夫だよ」


「ほな…ゼミのない金曜日でええかな?」


「うん!楽しみー!」


その日から金曜日まで、掲載されているそのお店の記事を一言一句、写真のレイアウトも覚えてしまうまで2人で何度も何度も見返したのは言うまでもない。

ゴローちゃんはそれが気に入らないのか、開いたページの上にわざわざ寝転びに来ては抱き上げられ、またやってきてという攻防を何度も繰り広げた。


◇    ◇    ◇    ◇


金曜日は天気予報の通り朝から快晴だった。


「ちょっとシナコさんとこ行ってくる!出発までには帰ってくるから!」


そう言って舞子は朝から出かけてしまった。

じゃあ出町柳の駅で待ち合わせ、と伝える。


「あれ?貴船って山の方でしょ?車で行かないの?ハルくんが珍しいね」


「ああ、この前大家さんに今度貴船の川床行くて自慢したら、今の時期はただでさえ細い山道が車増えて渋滞するから電車の方がええって教えてもろたねん」


「そうなんだねー」


僕は出る時間まで、去年買って積んだままだった「ダンス・ダンス・ダンス」を読んで時間を潰した。

ユキはなんだか舞子みたいだ。


いい時間になって、ゴローちゃんのボウルにカリカリを入れてその横の水を新しく取り替えると、出町柳のホームに向かう。


舞子の姿を探す。


「おっまったっせ!」


とぴょんぴょん跳ねながら近づいて来た舞子はいつもの舞子では無かった。

普段着ている半袖Tシャツにデニム短パンではなく、ダークブルーに白い小花柄という、ローラアシュレイの上品なワンピースに変わっていた。

垂れ耳ウサギみたいに結んでいた髪も、両サイドの髪を三つ編みにして後ろで一つにして、白いレースのリボンで結ぶ、というお嬢様らしいヘアスタイルになっていた。

そこへ更にハイヒールを履いて、華奢なレースのハンドバッグを手に持っていたのだから、もうそれは舞子ではない別の女の子だった。しかもちょっと育ちが良さそうな。


そういえば欧風レストランでバイトを始めてからの舞子は少しずつだが雰囲気が変わってきた気はしていた。

今、改めてよく見ると、眉はキレイに整えられ、うっすらではあるが化粧もしていて、あちこちに跳ねていたはずの癖っ毛はどこにも見当たらない。


「どうしたんそれ?」


「だって貴船の川床行くんでしょ?私だってこれくらいの格好するよ!」


なるほど。それでいつものお姉さんのとこに行ってたのか。

僕は、見慣れない姿の舞子にドギマギしながら、悟られないように電車を待った。


しばらくすると、遠くからゴトゴトとレールを叩く音が近づいてきた。正面二枚窓の角ばった電車がゆっくりと滑り込み、車止めのすぐ手前で停まる。クリーム色にマルーンの帯を巻いた700系、叡電ではまだ新しい冷房車だ。


運転士が窓から顔を出して合図を送り、ほどなくして「プシュー」とエアが抜ける音とともにドアが開く。

折り返しの準備といっても、両運転台の単行列車なので作業はあっさりしている。

運転士が降りてきて反対側の運転台に歩いて行き、そこでもう一度スイッチ類を入れ直せば、それで次は鞍馬行きだ。


僕達の他にも何人か、待合ベンチから立ち上がり、ロングシートの車内に次々と乗り込んでいく。

入口脇には銀色の運賃箱と整理券器があり、「ワンマン」の札がぶら下がっている。

夏の日差しに熱せられたホームから、冷房の効いた車内に入るとほっとする。


やがてブザーが鳴り、ドアが閉まる。

小さな出町柳のホームに軽やかなモーター音を残しながら、電車は再び北へ──貴船・鞍馬の山あいを目指して走り出していく。


左の窓の向こうに、鴨川デルタが見える。

子どもたちが飛び石を渡るのが見え、遠くから蝉しぐれが響く。

まだ朝の光は柔らかいのに、夏の気配は濃く、川のきらめきだけが涼しさを感じさせた。


電車は街のはずれを抜けると、あっという間に畑や住宅の点在するのどかな風景に変わる。

駅ごとに小さなホームが現れては過ぎ去り、のんびりとした木造の待合室や、誰もいないベンチが通り過ぎていく。


宝ヶ池を過ぎると、線路はぐっと山に近づき、車輪の響きが一段と甲高くなる。

窓を流れる風が涼しく、町中の蒸し暑さが少しずつ遠ざかっていくのがわかる。

青々と茂る木々の中に、小川のきらめきがちらちらと顔を出す。


二軒茶屋を過ぎるあたりでは、車内の乗客もまばらになり、静けさが増す。

蝉の声とモーターの唸りが重なり合い、まるで夏山の中に取り込まれていくようだ。


やがて、視界がぱっと開けた。眼下に清流が現れ、澄んだ水が岩をかすめて流れていく。

その川沿いに木造の駅舎が寄り添うように見えてくる──貴船口だ。


小さな駅前のバス停で、夏の間だけ増えた便を待つ。

白い車体がやって来て、乗り込むと窓越しに鞍馬川が見え隠れしながら山へ寄り添っていく。

道は細く、カーブのたびに木漏れ日が車内に揺れて差し込んだ。

やがて終点に着くと、バスを降りた途端に空気が変わる。


「嘘みたいに涼しいね。風景もすごい」


舞子が言う。


谷あいを渡る水音が、町のざわめきよりも大きく耳に入るのだ。

川沿いの細い坂道をしばらく歩くと、いくつもの川床を示す木札や暖簾が並び、そのひとつへと足を向ける。


入口でご招待券を渡す。

案内に従って石段を降りる。

足元の涼しさが急に強まり、木立の影を抜けた先に、川の真上に張り出した畳敷きの床が広がっていた。

靴を脱ぎ、腰を下ろした途端、川風が頬をなでる。


「ホンマに涼しいな」


「うん。京都の街なかの暑さが嘘みたいだね」


カットグラスに入った冷たいお茶が喉に心地良い。

──ここから先は、涼そのものを味わう時間が始まる。


谷を渡る風とともに、小鉢がそっと置かれる。

胡麻豆腐の濃い香りと、青菜のさっぱりした味わいが、旅の口を整えてくれる。

やがてお造りが冷たい器で現れ、川面の光と重なるように透明な身が目を楽しませる。

吸物の出汁で喉を潤すと、体がゆっくりと落ち着いていった。


続いて運ばれたのは、アマゴの天ぷら。

衣は軽やかに揚がり、川魚らしい淡い香りを包み込んでいる。

スダチを絞って、頭からかぶりつく。


「え。滋賀県で食べたのと全然香りが違う!」


「ホンマや!川が違うと魚の味も変わるて言うけど、ホンマにそうやねんな」


そこからさらに待望の一皿──鮎の塩焼きが炭火の香をまとって登場する。

皮はぱりりと張り、身は白く透きとおり、苔の香りとわずかな苦みが夏の輪郭を際立たせた。

これまた琵琶湖の鮎とは香りも味も全然違う。

同じ鮎でも舞台が変われば別物だ──人間関係もそうなのかもしれない。


「こうやるんだよね?」


舞子は去年僕が宝山の鮎で教えた通り、箸で背骨に沿って鮎の身を緩め、尻尾を折って頭から綺麗にスルリと背骨を抜き取った。


「そして蓼酢にちょん」


「舞子めっちゃ覚えてるやん」


「美味しいものは美味しく食べなくちゃ、ね」


川のせせらぎ、通り抜ける涼やかな風、鮎の香り、舞子の笑顔。

何もかもが完璧だ。


冷やし素麺でひと息ついたあと、赤出汁とご飯、香の物で食事を締める。

最後の水物の甘さが、谷あいの冷気と一緒に口の奥へすっと溶けていった。


「ふう、ごちそうさま」


「最高やな」


「うん。美味しくて涼しくて景色も良くて」


「下界に戻るの嫌になるわ」


「確かに」


「あでも、来週はあっついあっつい祇園祭は行くやろ?」


「もちろん行くよ!」


「今年は宵山が日曜日やから、人絶対すごいで」


「暑そうだねー」


「けど、やっぱり行かんとな。京都に夏が来た感じせえへん」


「うん。楽しみ」


この穏やかな時間がずっと続けばいいのに。

僕はそう思った。


ひときわ涼しい風が一筋、僕達の間を吹き抜けていった。

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