第6話 闘獣たちの華麗なる決闘《デュエル》?
「ねえねえ、タマラさん、今夜のコロセウムに行くの?」
レイランと一緒に総務部Bの執務室に戻ると、ミレイが待ち構えていた。いつもどっしり構えているミレイにしては、なんだかそわそわしていて落ち着かない。
「あ、ええ。ちょっとなりゆきで。ミレイさんも行かれるの?」
「あーいやいや、わたしはああいうバトルものはちょっと……。でも総務部は今すごくざわついてるわよ、なにせ……」と言いかけてミレイが黙った。コツコツと廊下を歩いてくる足音が近づいてきたからだ。次の瞬間、戸口にロシュフォル殿が現れる。
「わ、ロシュフォルさま……?」思わず声が出てしまった。
総務部Bに勤務し始めてからこの4日、一度もこの執務室に顔を見せなかったロシュフォル殿が、なぜ? しかも今朝、キャリッジに乗り合わせたときとは装いが変わっている。これは、いわゆる正装、というものではないだろうか? たいてい端正な装いをしているロシュフォル殿ではあるが、今は豪奢な金の飾りのついた、鮮やかなブルーのマントをまとっている。マントの下は、金の縁飾りのついた胴衣のようだ。こうなると端正を通り越して、なんだか神々しい。隣のミレイなんかすっかり見惚れてしまっている。ロシュフォル殿は一瞬こちらを見てうなずいて見せたが、いつもどおりの事務的な顔でレイランに言った。
「師匠から伝令が届いたよ。わが家のロイヤルボックス席を開放しろってね」
レイランが頭を下げる。「諸々、お手を煩わせて申し訳ありません」
神妙なレイランが珍しいのか、それともまだ変装を解いていない地味なレイランが珍しいのか、ロシュフォル殿は軽く眉を上げた。「ウムトが出場するのだろう? たまには観に行ってやらないとな。それに、タマラ殿は……」ロシュフォル殿と目が合う。「やけに気に入られたようだから。師匠に」
「えっとですね、わたしというより、この……」と、ポーチの横で揺れているマスコットをちらりと見せる。ロシュフォル殿の視線がそちらへ流れていき、その顔に微かな笑みが浮かんだ。
「ほう……それか。話は聞いている」
「はい。気配もまったく感じさせません」と、レイランが口を添える。
「いい策だし、いい出来だ。師匠が得意がるのも仕方ない」
「え、やだタマラさん、何それ!可愛い〜!」めざとくマスコットを見つけたミレイが声を上げる。「それ、お手製? こっちのモフモフくんは、タマラさんのペットくんがモチーフだよね?」
ミレイが手を伸ばしてきて、アマガミのマスコットに触れている。「うわ〜! ふわっふわ! いいわね〜これ! あとこっちのシュッとした怪獣くんも!」
「か、怪獣?」この麗しい羽つき猫のユキマルくんが、ですか? 思わず言い返しそうになったけれども、ロシュフォル殿が遮る。
「ミレイ殿……」
「あ、はい、仕上がっております!」ミレイは急いでテーブルのそばに行き、畳んであった布地を広げた。それは薄手の布でできた、水色のマントだった。左肩のあたりには、ロシュフォル殿のマントについているものと同じ、金の紋章が縫い取られている。
「ああ、見事だ。ありがとう。早速頼む」
「はい!」と言うなりミレイがわたしの肩にそのケープをかけて整える。
「え? わたしのですか?」
ミレイがうなずいた。「ロシュフォルさまと同席するんですもの、これくらいおしゃれしないとね」
ミレイが部屋の隅から大きな鏡を出してきた。そこに映っているのは、キラキラしたマントに身を包み、銀のポシェットとマスコット2体を下げた、なんとも可愛らしい小さなおばあちゃんの姿――。
「ほう……これは」とレイランがニヤリとする。
「死んだばあやを思い出すな」と、ロシュフォル殿がつぶやく。
「いえ、うちのばあやに似てますね」
「……うちのばあやだろう」
ふたりはしばし見合っていたが、ぷいと横を向く。いったいどれだけばあや好きなの? この世界の人たち!
鈴が鳴るような音がして、ミレイが腕飾りを見た。「あ、そうだった、ズーイーを起こさないと」
「ズーイーさん? 休養室に行ったままなんですか? 具合、大丈夫なんでしょうか」
今朝会ったときの、吹けば飛ぶようなかぼそい姿を思い出す。ミレイがからからと笑った。「大丈夫。今ごろ完全復活しているから」
ミレイはロシュフォル殿とレイランに頭を下げると、急いで部屋を出て行った。
「そうか、タマラ殿はズーイーには会ったのだな」レイランに問われ、わたしはうなずく。
「それにしても相変わらずの登庁状態だな」とロシュフォル殿が、がらんとした室内をあらためて見回す。
「そういう長官代理殿だって、いつもいらっしゃらないではないですか」とレイラン。長官代理とはロシュフォル殿のことだ。「まあ、偏西風が収まれば、登庁する者も増えてまいりますよ。そうそう、あの方は最近よくいらしているようですが」
「あの方?」ロシュフォル殿が首をかしげ――思い至ったようだ。「ああ」
きっとあのモサモサ金髪くんのことだろう。ロシュフォル殿が困ったような、面倒くさそうな顔をした。確かにあの人は、部下に持つと面倒くさいタイプだ。今朝、空の観光ツアーに連れ回されたことは言わないでおこう。
「あ、ロシュフォルさま、レイランさま、お疲れさまです〜」
戸口で妙に艶っぽい声がして振り向くと、あでやかで肉感的な美女がひらひらと手を振っていた。ボリュームたっぷりな体の曲線をすべて拾うような、ぴっちりした赤いドレスが魅惑的だ。これから夜会にでも行くのだろうか。
ロシュフォル殿とレイランが軽くうなずくと、女性は「じゃあまた〜」と、腰にスナップをきかせて歩き去っていった。そのあとを追うようにしてミレイが走ってくる。「ちょっとズーイー、忘れもの!」
え? ズーイー?
レイランと目が合った。レイランが怪訝そうに首をかしげる。「朝、会ったのだろう?」
「会いましたけど……その……」
「ああ、朝に弱いそうだからな、彼女は」
弱い、なんてもんじゃない。まるで別人だ。どこまで弱り果てたら、あんな吹けば飛ぶような体になるのか……。
この世界、いろいろ奥が深いのかもしれなかった。
☆
わたしたちはロシュフォル殿のキャリッジでコロセウムに向かった。もちろん引き手はイキツとモドリツだ。わたしたちの姿を見るや、ぴょいぴょいっと耳を振ってみせる。よく見るとイキツとモドリツの首周りにも蝶ネクタイみたいにスカーフが結んである。これが彼らの正装なのだろう。
キャリッジは走り出すなりすぐに宙を飛んだ。日が落ち、ふたつめの月が登ろうとしている。街を見下ろすと、白い建物がオレンジ色の街灯にほんのり照らされている。そういえば夜のお出かけは初めてかもしれない。
レイランと一緒にこのキャリッジに乗るのも初めてだ。レイランは街に出ていたときの扮装を解き、いつものエメラルド色の髪に戻っていた。ロシュフォル殿ほどの正装ではないけれど、紫のマントが髪によく映えている。
「久しぶりだな。レイとこうして出かけるのは」ロシュフォル殿が言った。
「そうですね」
それきり車内に沈黙が落ちる。ふたりとも、ウムトやモサモサ金髪くんみたいに話し好きなタイプではないから、まあそんなものだろう。でも、総務部のある塔内にいるときとは、ふたりの距離感がちょっと違うような気がした。沈黙も決して気まずいものには感じない。
いや、沈黙が気まずいのはむしろわたしのほうだ。ランチもおやつもあんなに食べたのに、もうお腹が空いてきていて、このぶんだとまずいことに――
ぎゅるるる。
もう! 鳴り響くな、わたしの腹!
レイランが声を立てて笑った。「もしやと思って持ってきてよかった」と、懐から小さな包みを出す。
「あ、師匠のところのパンですか?」
レイランが包みを開くと、そこにはプルプル震えるパンが並んでいる。
「わあ、可愛い!」
「ひとつにしておけよ。あとでご馳走が出るらしいから」
「はい! いただきます!」
そう言うとパンをひとつ手に取る。パンは小さく震えていて食べるのが申し訳ないような気にもなったが、思い切ってかぶりつく。もちっとした噛みごたえ。そしてほんのり甘い……うーん、幸せ……。
視線を感じて見上げると、ロシュフォル殿が驚いたような顔をしている。
「あ、すみません、つい……」
「いや……」
レイランがそんなロシュフォル殿に向かって包みを差し出す。「おひとついかがですか?」
ロシュフォル殿は、ますます驚いたような顔になったが、「ああ」と手を伸ばしてパンをひとつ取った。「妖精パンか……」
「そう言えばあなたは小さいとき、このパンが苦手でしたね」
レイランの言葉にロシュフォル殿が顔を上げる。それからゆっくり微笑んだ。「ああ……そうだったな」
ロシュフォル殿の手の中で、妖精パンがプルプルしている。ちらりと視線を落とすと、ロシュフォル殿はうれしそうにパンを口に運んだ。
このふたり、幼いころからお互いのことを知っていたのか。それにしてもあのちびっ子師匠って、いったい何の師匠なんだろうか――
と、もうひとつ妖精パンに手を伸ばしたところでレイランに手の甲をパシッとはたかれた。
「こら!」
「え? あれ? わたし今どうして……」自分で言ってしどろもどろになる。
「タマラ殿、当たりを引いたな」ロシュフォル殿が微笑む。「師匠、相変わらずこんな悪さを仕掛けているのか」
「妖精パンの中には、ついもうひとつ手を伸ばしたくなる魔法のかかったパンが紛れ込んでいてね」と、レイランが笑う。「なんとなくタマラ殿が引き当てると思っていたよ。やはり食いっぷりのいい人に引き寄せられるのだろうな」
「く、食いっぷりがいいって……」
師匠のところでおやつをパクパク食べた身としては、本当すぎて言い返せない。その隙にレイランが「せっかくの晩餐が入らなくなると悪い」と、包みをさっと懐にしまってしまった。
「そろそろ着く」
ロシュフォル殿が言った。キャリッジがゆるやかに下降する。窓からのぞくと、オレンジ色にライトアップされた、大きなスタジアムが見える。スタジアムのゲートから放射状に伸びた三つの道にはキャリッジが列を成しており、舗道は大勢の人たちで埋め尽くされている。
「すごい……。人気イベントなんですね」
「ほう。こんなにひとが集まるものなのか」ロシュフォル殿も感心したように眉を上げている。
わたしたちのキャリッジは、三つの道とつながるゲート側ではなく、横手の広場のあたりに着陸しようとしていた。どうやらここが空からのキャリッジの発着場らしい。ユキツとモドリツが優雅に車を操り、キャリッジがするりと着陸した。
車が完全に停まり、レイランがドアを開けて降り立つ。それから手を差し伸べられたわたしがゆっくり降り、ロシュフォル殿がマントを翻しつつ降りてくる。
「おお! ラファール!」
振り向くと師匠がこちらに向かってくるところだった。ラファール? わたしはロシュフォル殿を見上げた。この人のファーストネームを初めて聞いた気がする。
師匠はタキシード風の装いでばっちり決めていたが、外見は10歳の子である。なんとも愛らしいばかりだ。「いやあ、今夜はすまないな、ロイヤル席を用意してくれて」
「いえ、師匠のお望みとあれば。それにうちのタマラ殿がずいぶんお世話になったようで」
わたしも改めて師匠に頭を下げる。師匠がこちらを見てにっと笑った。「久しぶりに楽しいひとときだった。気持ちが若返ったぞ。なあ、タマラ殿」
小学生にしか見えない風貌でそんなことを言われても……と思いつつ「はあ……」とお茶を濁す。するとコロセウムにつながっているらしい別のゲートが開き、大きな声が響き渡った。
「レイラン団長!」
ひとりやふたりの声ではない。見ると、ゲートの左右にマントの騎士たちが集まっている。レイランの姿を見とめるや、騎士たちはこちらへ押しかけてきた。
さっと腕が伸び、ロシュフォル殿がわたしの前に出る。血気盛んな騎士たちに押し飛ばされないようにと配慮してくれたようだ。騎士たちはみな興奮した面持ちで、レイラン目指してやってくる。
「おお、お前のファンたちがまたずいぶんたくさん」
「どなたかが伝令を飛ばしてくださったおかげでね」満足げな師匠をレイランは軽く睨みつけると、騎士たちに向かって声を上げた。「走るな!」
「レイランさま!」
騎士たちはあっという間にレイランを取り囲んだ。なかにはレイランを前にむせび泣いている者すらいる。
「団長…!」
「お元気でしたか!」
「早く戻ってきてください!」
レイランは困ったような顔で「ばか、泣く者があるか」と、騎士たちをなだめている。するとなかでもひとりマントの色が異なる若者が、すっと片膝をついた。
「レイランさま。わたしに団長代理は荷が重すぎます。どうぞ騎士団へお戻りください」
残りの騎士たちも一斉に片膝をつき、頭を下げる。
「お願いします!」
「こ、こら、頭を上げろ。こんな場所でよさないか」
レイランが急いで騎士を立たせるが、騎士たちはレイランの腕や腰をがっしりつかんで離さない。
「今宵はぜひご一緒に!」
「ぜひ!」
「ぜひっっ!」
レイランがこちらを振り向く。困ったような、それでいてどこかうれしいような、複雑な表情だ。ロシュフォル殿は静かにうなずくと微笑んだ。
「せっかくの機会だ。積もる話もあるだろう」
レイランは軽く頭を下げると、かつての部下たちを従え、いち早く会場へと向かった。ひときわ大きな歓声に包まれながら。
「レイランさまは、騎士団長でいらしたのですね――総務部Bに来るまでは」
すんなりと納得する。師匠が言った。
「鋼のように強く、剣技は華のように麗しい。エメラルドの髪をなびかせて敵に挑む姿は、神話的でさえあったよ。聖騎士と呼ばれるくらいにな」
師匠とロシュフォル殿と一緒にゲートへ向かいながら、はるか先を行くレイランの姿を見とめる。レイランのそばにいる部下たちの、なんて幸せそうな顔だろう。
「……レイは幼いときからわたしの兄に忠誠を誓っていてね」
ロシュフォル殿がぽつんと言った。師匠がおや、というように眉を上げる。
「兄のことは覚えているのだったな? タマラ殿」
そう問われて、わたしは小さくうなずく。初めてロシュフォル殿のお屋敷に通されたとき、絢爛豪華な王の進軍を描いた絵を見た。王はもちろん、王の剣、ベアトリス将軍と、王の盾、ティエリ・ド・ロシュフォル将軍のことをわたしはなぜか知っていた。その理由はまったく覚えていないのだけれど……。
ゲートに近づくと、ロシュフォル殿が傍の壁に手を当てる。すると別の扉が出現し、わたしたちはそちらに進んだ。総務部のある塔のエレベーターと同じ原理らしい。扉が閉まるとそこは小さな空間で、ゆっくり移動し始めるのがわかった。
ロシュフォル殿が再び口を開いた。
「レイはずっと兄の側にいた。ふたりは幼いころから主従の関係ではあったが、兄弟のように仲がよくてね。わたしはふたりについて行こうといつも必死だったものだ。レイは、兄が王の盾となってからも、いちばん近いところでいつも兄を護っていた。そして2年前、兄の身に起きたことを防げなかったことを、今でも深く悔いている。誰よりも無力だったのは、このわたしだというのにな」
師匠が何か言いかけ――やめた。小さな空間に沈黙が下りる。
「……この2年で初めてだったよ。あのレイが声を立てて笑うのを聞いたのは」
「は?」
見上げると、ロシュフォル殿がこちらを見ていた。
「あんなふうに笑うレイを、本当に久しぶりに見た」
ああ。さっきキャリッジの中で師匠のパンをいただいたときのことか。ロシュフォル殿の顔に穏やかな笑みが浮かぶ。
「子どものころも、よくああやってばあやをからかっていた」
「えっと、わたし、レイランさまにからかわれていたわけでは――」
「とはいえ、レイのばあやはもっとこう――ふくよかだったが」
やっぱりね。
「レイランさまもおっしゃっておられましたよ。子どものころは、そのばあやさんに食べさせられすぎて、小太りだったって」
小太りなレイラン――
3人がそれぞれ同時に頭の中で何やら思い浮かべたのだろう。次の瞬間、小さな空間に笑いが起きた。
「着いたようだ。さあ、当家のロイヤル席にご案内しよう」ロシュフォル殿が口元に笑みを残しながら扉の外に出る。そんなロシュフォル殿を見上げながら、師匠がわたしにささやいた。
「あんなふうに笑うラファールも、久しぶりだぞ」
ロイヤル席は、競技場の客席の、2階と3階を合わせたくらいの位置になるのだろうか。豪華な部屋のように設えてあり、競技フィールドに面した側が大きな窓になっていた。
「わあ、よく見えますね」
窓に近づくと、競技フィールドがすぐ目の下に広がっていた。ガラスのようなもので防護されているが、会場のざわめきはよく聞こえてくる。どこかにスピーカーでもついているのだろう。フィールドは、もといた世界のサッカーグラウンドくらいの広さだろうか。四方をぐるりと観客席が取り囲んでいたが、そのほとんどがすでに埋まっている。窓のすぐそばには座り心地のよさそうな贅沢なソファがあって、サイドテーブルにはすでに飲み物の用意がされていた。
「くつろいでいてくれ、タマラ殿」
ロシュフォル殿にうながされ、わたしは遠慮なくソファに座らせていただいた。レイランからもらったポシェットを膝に乗せ、その上にアマガミとユキマルくんのマスコットをちょこんと乗せる。銀の鎖はつけたままだけど、なんとなく収まりがよくて安心する。そういえばアマガミは、マスコットの中でお腹を空かせていないだろうか。
「ガルトムンドも今ごろ、異空間の広々としたフィールドを駆け回っておるよ。ああ、その獣型の中では餌も必要ない。全くもって心配不要だ」師匠が隣に腰掛け、にっと笑った。手にはすでに飲み物の入ったグラスを持っている。しゅわしゅわした、シャンパンみたいな飲み物だけれど……お酒?
「お、タマラ殿も飲むか?」
師匠が新しいグラスに飲み物を注ぐ。そしてわたしにグラスを向けると、しばし止まった。目を細め、じっとこちらの頭のあたりを見ていたかと思うと、すぐにうなずく。
「うん。問題ない。ほれ」
「あ、はい。ありがとうございます……」年齢でもチェックされたのだろうか。あなたのほうがよほど子どもでしょうに……。師匠に渡されたグラスに口をつける。とてもフルーティーで爽やかな味わい。やっぱりシャンパンみたいだ。
「美味しい」思わずそう言うと師匠の笑みが大きくなった。「そうだろう。タマラ殿の体にも害はなさそうだから、まあ、ほどほどに飲んでくれ」
っていうか、そもそも師匠のお酒ではないのでは? と思いつつ振り返ると、ロシュフォル殿もうなずいている。ソファの背後にもいくつかひとり掛けのアームチェアがあって、ロシュ殿はそちらに座るようだ。
「なんだラファール、お前こそこっちに座るべきだろう?」と、師匠がソファから立ち上がって窓の向こうを指差した。見ると、フィールドを挟んだ観客席の向かい側のロイヤルボックスもほとんど席が埋まっている。
「ほら」
師匠がどこからかオペラグラスのようなものを出してきた。それを借りて見てみると、どのロイヤルボックスの最前列のソファにも、見目麗しい令嬢がずらりと腰かけており、みなさんオペラグラスのようなものを手に、こちらを見ている――ような気がする。
「あれってもしかして……」
恐る恐る振り向くと、ロシュフォル殿、優雅に本など開いて読んでいる。しかも、わたしたちの座っているソファの陰に隠れるみたいに……。
「ラファール!」
「ここからでも充分競技は見えますので」
師匠の叱責などまるで意に介さないようだ。
「まったく。久しぶりの社交界復帰なんだから、少しはサービスしてやれ」
オペラグラスを手にした令嬢もマダムも、レンズ越しに熱波を送ってきては、ときどきうっとりと宙を見上げているので、まあ、ナマのロシュ殿が見られるのなら今の場所にいても問題ないのだろう。一般席にいる女性や男性の中にも、オペラグラスでこちらを見ている人たちが大勢いた。ときどき黄色い声も上がっている。
「タマラ殿もそのなりでよかったなぁ。ライバル視されたら今ごろ針のむしろだ。のんきに座っていられなかったろう」
「はぁ、そうですよねー」
誰が見たって完全なるシニア層。ロシュ殿の隣にいたって微笑ましく思われるだけだ。
――と、背後の扉がスッと開き、ロイヤルボックス付きの護衛が顔を出した。
「ロシュフォルさま、ゲンツ公がご挨拶にお見えです」
ゲンツ公と聞き、ロシュフォル殿が本を閉じた。その顔つきからは何を考えているのかわからないが、静かに席を立つと扉のほうへと歩み寄る。わたしも一応ソファから立つと扉のほうを向いた。
護衛が脇に控え、恰幅のいい初老の男性が現れた。長い胴衣は淡い黄色で、キラキラした飾りの多さからして、上級貴族なのではないだろうか。人のよさそうな笑みを浮かべている。
「おお、ロシュフォル殿。やっと会えたな」
「ゲンツ公。ご無沙汰しております」ロシュフォル殿が恭しく頭を下げたので、わたしも同じように真似つつ頭を下げる。
「元気そうで何よりだ。そろそろ当家の晩餐会にも顔を見せてくれ。妻と娘たちが狂喜乱舞するだろう」
ロシュフォル殿が微かに笑みを浮かべる。「ありがたきおことば、謹んでお受けします」
「ああ、今夜は連れがあってね。紹介させてくれ」ゲンツ公が振り向いて、そばにいる男性を手で示した。「バーナム卿だ」
バーナム卿と呼ばれた男性が軽く会釈した。真っ直ぐに伸びた銀髪に、青みを帯びた翠の瞳。銀色のマントの下は同じく銀色の礼服のようだ。髪は肩のあたりで切り揃えられ、頭の動きに合わせてさらりと揺れる。見た目は案外若く、40代半ばくらいといったところだろうか。
「お初にお目にかかります。ロシュフォルさま」バーナム卿がゆっくりと頭を下げる。
「バーナム卿……確か、ゾルゲン商会の」
「そう。創設者でおられる」とゲンツ公が口添えする。
ゾルゲン商会? 創設者?
あらやだ。
タマラおばあちゃんの心臓がちょっとバクバクし始める。師匠がしれっと口をはさんだ。
「今日は確か、そちらとも縁の深いデュエリストが出場するのだったな、バーナム卿」
バーナム卿の静かな眼差しが師匠に向けられる。
「これはこれは、ユークレイデスさま。デュエルの生みの親にお目にかかれて光栄です。ええ、今宵出場するソルベという者には、我が社も少し出資しておりまして。なかなかよい奇獣の使い手でしてね。今宵はちょっとした――趣向も用意しているようです。確か、対戦相手のウムト殿は、ユークレイデスさまのお弟子筋とか」
「まぁ、わしの弟子などごまんと居るからな。ウムトなんぞペーペーのぺーだ。その話っぷり、何やら今宵は面白くなりそうだな。せいぜいそちらの胸を借りるとしようか」
師匠(ユークレイデスというのか……)がグラスを上げてニヤリとする。小学生みたいな見た目でなければ、かなりカッコよく決まっていたのではと思う。バーナム卿も薄く微笑む。
ふたりは静かに睨み合った。
場内に鐘が鳴り響き、ゲンツ公が腰に下げた時計を見る。
「そろそろ始まるようだ。邪魔をした。顔を見られてよかったよ、ロシュフォル殿」
ロシュフォル殿もうなずき、ふたりは握手を交わす。そしてゾルゲン商会のバーナム卿はといえば、なぜか今度はこちらを見ていた。
ま、まずいことでも?
――と思ったのも束の間、いたわるような、生あたたかい笑みを向けられ、その視線がロシュフォル殿に戻る。
こんな美麗な男が、まさかばあや連れとはな――
と、その笑みが語っているようにも見えた。
扉が再び閉められ、ロシュフォル殿とユークレイデス師匠が顔を見合わせる。
「ゾルゲン商会、このデュエルに何か仕込んできているようだな」
「そのようですね」
師匠が窓から場内を見渡す。「おお、おお、知った顔もあちこちに紛れている。それぞれ顧客連れのようだ。よほど面白い趣向でも用意したのか――ああ、王族も来ているようだ、ほら」とドームの天井近くを指さす。そこには優雅なゴンドラが下がっていた。窓は黒いシールドがかかっているのか、中は見えないが、窓の両側に白い花を模したランプがあって、金色の光を放っている。「あの花が光っているということは、王族が来席しているという印なのだ」と師匠が説明してくれる。「ふうん。王族まで招くとは。そこまでの対戦カードじゃないはずだが。ガルトムンドを失ったぶん、何かで挽回したいところだろうからな。連中、いったい何を考えているのか――」
何やらしきりにつぶやいている師匠を横目にソファに座る。それと同時に会場の灯りが消えた。いよいよショーが始まるのだ。会場のざわめきと興奮が静まる。
次の瞬間、低く甘やかな歌声が響き渡る。女性の声だ。ワンフレーズ歌ったところで、フィールドの真ん中にぽうっと灯りがともった。金色に輝くドレスに身を包んだ歌手が光の中に浮かび上がり、艶やかに旋律を紡いでいく。臓腑に沁み渡るような、魅惑的な声で。
歌は短くて、ほんの1分ほどだったのではないだろうか。歌い終えた次の瞬間、怒号のような拍手が巻き起こった。すべての照明が灯され、歌姫の姿が眩い光の中に浮かび上がる。歌姫は天井のゴンドラに向かってまず深々とお辞儀をした。観客は歌姫のお辞儀に合わせて拍手を強める。それから頭を上げた歌姫が、こちらに向かって投げキッスをし、手を振って寄越した。
あれ? あの人――
オペラグラスでよく顔を見る。
ズーイーさんではないですか!
鳴り止まぬ拍手のなか、ズーイーはぐるりと全方向に手を振ると、次の瞬間、白い竜となって飛び立っていく。キラキラ輝く銀の粉を撒きながら。
観客が喝采した。
フィールドの左右のゲートがゆるゆると開く。会場に涼やかなアナウンスが流れた。
『今宵の対戦者を紹介しましょう。東ゲート――ウムト・ベッツォーリ。タッグを組むのは火竜サラマンディーネ!』
東ゲートから火竜サラマンディーネに騎乗したウムトが颯爽と登場すると、観客のボルテージが一気に上がった。ウムトが大きな剣を高々と掲げ、観客がさらに熱狂する。
『対しますのは、西ゲート――雪嵐の術師・ソルベ。タッグを組むのはなんと――伝説の奇獣、ガルトムンドだっ!』
観客が大きくどよめく。西ゲートから飛び出してきたのはまさしくガルトムンド……
え? どういうこと?
思わず手元のぬいぐるみをしっかりつかむ。
フィールドに躍り出たガルトムンドがグオオオオオとひと声吠えた。
世にも禍々しい声で。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます