第21話

食堂のスピーカーからは、雪の結晶のように美しく繊細なオルゴールのBGMが流れ、空間を優しく包んでいた。


楓香の両親が営む、

ペンション『オフピステ』

幾度となく冬を過ごしたこの場所が、俺は大好きだ。笑顔と幸せで満ちていて、氷点下の空気さえ温めてしまうような空間。ここに居られる時間は、いつも特別だった。


夜遅くまで楓香と遊んだ談話室。

階段から落ちて泣いた俺を抱き上げてくれた宏太さん。

怖くて夜のトイレに行けない俺の手を引いてくれた早苗さん。

雪の降る駐車場で親父と打ち上げた大きな花火。

母さんとシャンプーで作ったシャボン玉を吹きながら入った大きなお風呂。


目を閉じれば、小さい頃の記憶が鮮やかに蘇る。

この天井も壁も柱も、すべてが思い出で染み込んでいた。


俺たちだけじゃない。ここを訪れた宿泊客たちも同じように思い出を作り、幸せを胸に帰っていく。何千回も耳にした言葉。


「また来年も必ず来ます」


ここは人に幸せを分け与える場所だ。



十二月二十九日。あと二日で今年も終わる。

窓の外にはまだ雪がちらついていた。


夕食は、ショッピングモールで「かにかにかにかに!」と楓香が騒いで買った大きなタラバガニと寿司のオードブル。

両親たちは夕食前から酒を飲み、すでに上機嫌だった。


酔った親父が母さんの蟹に手を出して、蟹スプーンで刺されて騒いでいる。

笑い声が絶えない食堂。

ここでは、頼まなくても食事と笑顔が自然と分け与えられる。


俺はこの空間とこの人たちから、大切なことを教わった。

家族の大切さ。人を愛すること。学校では教えてくれない大切なこと。


「ホブ、食べないの?口の傷が痛い?」

楓香が両手に蟹を持ちながら笑う。思い出に浸っていた俺は手を止めていたらしい。

「私が食べさせてあげよっか?」


無邪気な笑顔が愛おしい。


「なぁ、楓香」

「ん?なぁに?…あ、手が痛いの?ごめんごめん、やってあげるから貸して?」


俺の蟹を手に取ろうとした瞬間、楓香の手を掴んだ。彼女の瞳が驚きに見開かれる。


「俺、お前のことが好きだ」




抵抗はもう無かった。

どうすべきか、皆が示してくれた気がした。



全員の手が止まる。



静まり返った食堂に、オルゴールのBGMだけが響いている。


「俺、不安だったんだ。初めての彼女が何百キロも離れた場所に居て、会いたい時に会えない。そんなの幸せにできない、無理だと思ってた」


彼女の返事を待たず、伝えるべきことを確かめながら続ける。


「でもな。俺、お前じゃないと嫌なんだ。どうしても楓香じゃないと。学校が休みの日に毎週新潟まで会いに行くよ。そしたら雪が溶けても会えるだろ?今まで貯めた金はそのために使う。足りなければバイトもする」


楓香の目から涙がポタポタと落ち、雪原のように白いテーブルクロスに染みを作った。

大人たちは誰一人動かず、ただ若い二人の行く末を見守っている。


「俺、まだ子供の所も沢山あるけど。早く大人になれるよう努力する。必ず幸せにするよ。約束する」


嗚咽なのか悲鳴なのか分からない声が楓香から漏れる。涙は止まらず、雨のように降り注いだ。


思い出す。

オセロで負けて泣いた楓香。

ネックレスを無くして泣いた楓香。

ゲレンデで泣いた楓香。


でも今は違う。これは嬉し涙だ。

これからは嬉しい涙だけを流してほしい。

心の底からそう願った。


「いつか、何年先かは分からないけど、親父と母さん、宏太さんと早苗さんみたいな夫婦になりたい」


大人たちの目が見開かれる。

母さんと早苗さんは涙を流し、親父と宏太さんも歯を食いしばっている。


「だから俺と付き合ってほしい。大切にする。ずっと」




「はい…」


ぐしゃぐしゃの顔で頷いた楓香。その瞬間、早苗さんが声を上げて泣き、宏太さんが肩を抱き寄せた。


俺は立ち上がり、楓香の両親へ深々と頭を下げた。

「楓香とお付き合いさせてください。後悔はさせません」


正直、こんな改まった事をするのを馬鹿らしいと思う自分もいた。だが、こういうことこそ真剣にやるべきだと教えられてきた。大人になるとはそういうことだ。

「筋を通せ」――親父も母さんが何度も口にしてきた言葉。


咽び泣く母さんの手を親父が強く握る。


「どうか娘を宜しくお願いします」

秋本夫妻は立ち上がり、涙を落としながら深く一礼した。


親父が大勢の観客の前で、表彰台から母に愛を告げたように、これが俺の筋の通し方だった。だから恥じることはなかった。それを感じて秋本夫妻も俺に敬意を示したのだ。


いつの間にか背後に立った親父と母の手が、俺の頭に置かれる。

「大きくなったな、帆吹」


親父の泣き顔を初めて見た。

母は俺を抱きしめて泣き、

「必ず幸せになりなさい」

と告げた。その言葉に、俺の目からも涙が溢れた。


楓香が泣きすぎて、痰の絡んだオジサンような変な声で咳き込む。それを聞いて皆、泣きながら笑った。

「えっぐ、わらわないでよぉー、うぃー」

変な声で彼女はまだ泣き続けていた。


今この瞬間、この空間には不純物のない純粋な『幸せ』しかない。

たった一人の女性への愛が作り出した、沢山の幸せの形。


「おい、もう泣くなって。なぁ、嬉しい?俺と付き合えて嬉しい?」

楓香の真似をして揶揄ってやる。

「うれじいぃー」

感極まって恥じらいは何処かに飛んでったようだ。

「楓香、本当落ち着けって。鼻、垂れてるし」


「本当にこの子はもう…」早苗さんが少し呆れた様子でティッシュを取り楓香の鼻に当ててやると

芝刈り機みたいな凄い音を立てて鼻をかんだ。このやり取りは子供の時と変わってない。


「冬馬、のりちゃん。楓香が世話になるがどうか宜しく頼む」

宏太さんの言葉に早苗さんも頭を下げた。

「世話になるのはこっちの方だよ。毎週新潟行くとか言ってんだから…悪いけど、この馬鹿息子の面倒見てやってくれ。田んぼ忙しいだろうから農機具だと思って田植えでも稲刈りでも好きに使って構わねぇから」

とすっかりいつもの調子に戻って親父が言った。


「え。それじゃあ楓香との時間がないじゃんか」


「お前、舐めてんのか?働かざる者食うべからず!米も女もな」

くだらない下ネタを飛ばした親父はビールを流し込むとゲラゲラ笑う。


「いい後継が出来たわね、宏太さん。あ、泊まるなら部屋は別よ、帆吹くん。同室はまだちょっと早いかな?」

「楓香の部屋の扉、鉄製に変えないとならんな、こりゃ。ダイヤル錠付きの」


早苗さんと宏太さんまでふざけ出した。こうなると、もう止まらない。


「大丈夫よ、宏太くん。帆吹にそんな度胸ありゃしないわ。直前で芋引いて泣きながら早苗の布団に潜り込むのが関の山よ」

ワインをドバドバとグラスに注ぎながら笑っている母さんに早苗さんが反応した。


「そうねぇ…さっきも楓香の方から襲って帆吹くんの唇奪ってたもんねぇ。談話室で。誰に似たのかしら」


「え」

親父と宏太さんが固まった。


やっぱり見られていたらしい。楓香は泣くのをやめて頭を抱えてテーブルの陰に隠れている。俺も顔が熱い。


「お前、まさかもう…少しくらい滑れるからと調子乗りよってからに…よくも俺の娘を…」

宏太さんの顔が苦悶に歪む。


「てめぇ。いつのまに…典帆、フィッシャーの鎖持ってこい。柱に繋いでおかねぇと。発情期だってよ、こいつ」

親父はニヤつきながら俺を手招きした。


四面楚歌だ。味方が…居ない。


その時、突然、

楓香が立ち上がって叫んだ。


「なによっ!皆んなだってキスくらいしてるでしょ!お互い好きなんだからいいじゃない!」


両親たちはフリーズした。

ひと時の静寂。


「されてない」

「されてないわ」


母さんと早苗さんの声が重なった。


勝機が一筋の光となって俺に射す。

押し寄せた波は必ず海へと帰っていく。引かない波は…無い。

舞い降りた勝利の女神は追撃の手を緩めない。

息の根を止めるまで。決して。


「冬馬さん、何で典帆さんにキスしてあげないの?もう嫌いになったの?永遠の愛を誓ったのに?私はキスくらいするよ。だってホブのこと好きだもん。あ、そうか冬馬さんはスキーの方が好きって言ってたもんね、。典帆さん可哀想」


親父は必死に防御壁を建てようとするが、

もう…遅い。


「お父さん、なんでお母さんにキスしてあげないの?好きじゃなくなっちゃったの?あ、それで昨日ゲレンデで冬馬さんと滑ってる女の人を見て品定めしてたの?とか何とかって。ホブは私のことしか見てないのに。お母さん、可哀想」


「ちょ、楓香…なんてことを…」

親父たちは戦々恐々としている。


勝利の女神だが鬼神だか知らないが、俺の勝利は最早、確約されている。昨日の敵は今日の仲間。その逆もまた然り。母親達が俺たちの背後に付いた。


「とりあえず座りなさい」

早苗さんが静かに重たい声で宏太さんを制す。

「座れ」

母が殺意を込めて親父に命じた。


「ホブ、いこ」

楓香は俺の手を引いてテーブルに着くと食べる主の居なくなった蟹を手に取り、俺たちの前に集めた。一本綺麗に剥くと俺に差し出し言った。


「はい!ホブ、あーん」

俺はおずおずと口を開け、天使のように微笑む楓香の差し出した蟹を頬張った。


背後では鬼達による処刑が始まろうとしている。

俺は蟹を呑み込むと振り返り、

親父たちに言った。


「筋、通した方がいいんじゃない?」

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