第2話 無能令嬢、最愛の人と再び相まみえる
……ここはどこ?
あっ、この景色はよく街におつかいに行くときに通る大通りだわ!
ということは、私ってお買い物の最中?
まずい。ここまで何を買いに来たか思い出せないなんて、もし手ぶらで帰りでもしたらどれだけ叩かれるかわからないわ!
それにしても、なんだか向こうが騒がしいわね?
何が起こっているの? 誰かが倒れている? って、血……!?
……一体誰が、こんなことに!?
「はっ……!」
目を覚ました私は、なぜかぶるぶると震えている自分の体をぎゅっと抱きしめた。
なんだか、ひどく怖い夢を見ていた気がする。
しかし、細部は思い出せないので、そこまで重要なことではなかったのかもしれない。
「それよりも、ここは一体どこなの……!?」
少なくとも、朱夏家の屋敷ではなさそうだ。
私は命じられて屋敷中の掃除をしているのに、この部屋に見覚えはないから。
「というか……思い返せばそもそも私って、あのとき悪鬼に食われて死んでいるはずの人間だったのではなかったかしら!?」
だが頬をつねれば痛みがあり、こうして思考を巡らせることも出来ているわけで、自分はまだ生きているとしか思えない。
そして私が寝かされていた布団は清潔かつ高級そうなものであり、部屋もまた立派な調度品で満たされていた。
「状況から考えるならば、誰か裕福な方が、私を助けてくれたということなのかしら? だってここ、どう考えたって、名家の一室という風情だものね。……いや待って? あそこに置いてある燭台に刻まれた家紋って……嘘でしょ!?」
こ、これ、私にとって、だいぶ見覚えがあるものであるような気がするわね!?
もっとはっきり言ってしまうならばそれは、ずっと心から離れないあの人の実家を表すときに使用される家紋であるように見える。
まさか……いや、そんな都合の良いことはないわよね!?
思わず高い声をあげてしまい、一人で狼狽し始めたところで不意に、室外から声がかけられた。
「何かあったか? 中に入っても良いだろうか?」
「……っ!?」
あれから、あまりにも時間が経ってしまっているのだ。
当然、記憶の中にある声とは異なっている。
しかしどういうわけか、私にはすぐに理解できた。
「ど、どうぞ……!」
おずおずと返答するとすぐに、すっとふすまが横に動いた。
そこから現れたのは、切れ長の目が印象的な美丈夫で。
……ああ、やっぱり! やっぱり、私の直感は間違っていなかったんだわ!!
そうなのだ。そこにいたのは今まさに頭に思い描いていた、私の最愛の人にほかならなかったのだった。
***
ああ、この日を何年待ち望んだことか……!
苦労も理不尽も全て耐えてきたのはまさに、今日という日を迎えるため。
このためだけに、私は朱夏家の人間としての立場にしがみついてきたのだった。
だから私は万感の思いに浸り、思わず言葉を失っていたのだが、そんなことなど知る由もない彼は私が見知らぬ環境に戸惑っていると誤解したらしい。
「あっ、怪しい者ではないからな? 俺はこの屋敷の主人である冬陽伊織だ。倒れているあなたをここに運び入れ、使用人たちとともに介抱させてもらった。目覚めて早々で悪いが、もし気分が悪いなどあれば遠慮なく教えてほしい」
彼――伊織さまは少し早口で、必死に私に状況を説明しようとしてくれた。
「っ……! いえ、そんな! 助けてくださったとのこと、本当にありがとうございます。おかげさまで、体調に問題はございません。あっ、申し遅れましたが、私はさく……」
対する私は「櫻子でございます」と名乗りかけて、しかしそれ以上に言葉を続けることができなくなって中途半端に口を閉ざしてしまった。
だって、気付いてしまったのだ。
自分が今、いかにみすぼらしい見た目をしているかということに……!
彼と再会したらああ出来たらこう出来たらなどと、これまで心の中で思い描いたことは数知れずあった。
しかしそのどれであったとしても、彼の前に立っていたのはなるべく完璧に装った自分自身だ。
だって、好きな人の目に映る私はなるべく綺麗であってほしいじゃないか。
たとえ、彼と結ばれなかったとしても。
それでも彼の記憶の中に一欠片でも残るとしたならば、その姿はできる限り美しいものであってほしい……。
そう願っていたというのに、現実とはかくも無情なものであった。
まず視線を落とせばすぐ目に入るのは、艶のない黒髪に、水仕事のせいで荒れ放題の指先だ。
顔は化粧っ気などなく、体もここ数年の待遇ですっかり痩せぎすとなっており、虹子のような女性らしい柔らかな体つきとは程遠くなってしまった。
また着替えさせてくださったようなので今は違うにしても、倒れた当時に着ていたつぎはぎだらけの着物姿だって、ばっちりと見られてしまったに違いない。
これが……こんなのが
というかこんな身も心もボロボロの女が名門・朱夏家の令嬢である櫻子だと主張したとして、誰が「はい、そうですか」とすんなりと信じられるというのよ……!?
結果として、私の口からこぼれ落ちたのは――。
「さく……そう、私は『さく』でございます! 花が咲くの『
――
「そ、そうか……」
私の勢いに押されたのか、彼は少し驚いたように呟く。
だが、私の名乗りを疑いはしなかったようだ。
「咲……咲、か……」と噛みしめるように何度かぼそりと復唱していた。
そんな彼の姿を懐かしさや愛おしさの綯い交ぜになった複雑な気持ちで見つめながら、しかし振り切るように一度目を閉じてから私は彼に頭を下げる。
「どうした?」
「窮地から救っていただいたばかりか介抱までしていただいて、本当に、本当にありがとうございました。しかしこれ以上ご迷惑をおかけするわけには参りませんので、起き上がれるようにもなりましたし、そろそろおいとまさせていただこうか、と……」
なにせ、彼にとっては私など見知らぬ他人にすぎないのだ。
幼い頃に一度会ったとはいえ、そんなものは覚えていなくて当然のこと。
覚えていたとしても今の私とは結びつかないに違いないし、いずれにせよ彼が私をこれ以上助けなければならない義理などこれっぽっちもないわけなのだ。
だから意識がない間に人道的に助けてもらったのはともかくとして、これから先に至るまでも彼の優しさや正義感だけに縋るのは良くないのではないかしら……?
「俺を置いて行かないでくれ……!」
「えっ?」
「あ、いや。こほん。言葉を間違えた。さく……咲さんは、ここでもう少し療養していたほうが良いと思うんだ。まだ、ちゃんと回復したわけではないんだから」
「しかし、これ以上こちらに置いていただくわけには……。そこまでしていただく資格など、私にはございませんから……」
「資格? 資格か……。つまり、ここにいるのが嫌なのではないのだよな? ここにいる理由さえあれば、しばらくは気兼ねなく過ごすことができるだろうか?」
「……? それは、まあ……」
頷いてみせると彼はしばらく視線を彷徨わせて何事かを考えている様子だったのだが、「そうだ!」と呟くや私とまっすぐに視線を合わせた。
「一つ、あなたに頼みたいことがあるんだ」
***
「……どうしましょう。今日も伊織さまのお屋敷で目を覚ましてしまったわ!」
――死んだと思ったら最愛の人に救われていたという、信じられないような展開を迎えた、その翌日のこと。
私はなんと、まだ彼の屋敷でお世話になっているのだった。
「いやまあ、どうしたもこうしたも、私自身でここにいることを選択したのだけれどね……!?」
というのも、あの日、私は彼に一つの頼み事をされたもので。
それはなんと――。
「ひとまず、しばらくは俺の妻になってみないか?」
「……えっ!?」
「あっ、いや、その! あまり重く考えないでくれれば良いんだ。今提案しているのは、いわば仮初の妻になるということだから。うーん、あるいは、契約結婚とでも言ったほうが分かりやすいのかな。不都合が出てくればきちんと関係を解消してあげることを前提にして、ともに暮らしてみないかということだ」
「あ、ええ……?」
彼もなんだか慌てていたのだが、私もいきなりの提案にすっかり混乱状態である。
だから曖昧な返答しか返せなかった私に対し、彼はさらに早口で言葉を重ねてきたのだった。
「そう、そうなんだ。当面式をあげるようなことはしないし、しばらくはあなたの存在を他人に言いふらすことだってするつもりはないよ。だから、本当にそんなに重く考えないでほしいんだ。嫌になったら、すぐに俺に申し出てくれれば良いんだから。そうしたら、俺たちの関係は……関係はすぐに、解消してあげられる、のだから……」
どこか苦しげにそこまで言うと、彼はふと口を閉ざした。
そして意を決したように小さく頷くと、もう一度ゆっくりと口を開いた。
「その……俺は冬陽家の人間だが、所詮は三男坊にすぎない。実家の屋敷には親兄弟だけでなくその伴侶や子どもたちも住んでいて、だんだんと居辛くなってしまった。だからまだ独り身ではあっても、職場への利便性を言い訳にして、自分だけの屋敷を持つことにして。でも実家とは比べるべくもない小さな屋敷であったとしても、日中働いていて屋敷をあけてばかりの俺一人だけでは、どうしても管理に手が回っていない部分もあるはずなんだ。だから妻となった人が、そんな俺の至らぬ部分を埋めてくれたなら、とてもありがたいな、と思っていて……」
……なるほど。それが、今回の話の裏というわけなのだろう。
そして契約妻というのは、なるべく聞こえの良い言い回しになるように配慮してくださってはいるのだけれど、実態は本物の妻ではない、愛人のような都合の良い関係性を結びたいということであるのかもしれないなと今更ながらに思い至った。
父が母の生前から、のちに後妻となる女性を囲っていた例からも分かるように、異能者というものが本妻・本夫の他に愛人を持つ例は世間的に見て決して珍しいことではなかった。
その目的で一番多いのは異能の才を受け継ぐ後継者を確実にもうけるためだろうと思うのだが、そうでない場合だってもちろんたくさんあるはずだった。
今回はまさに後者の一例であって、家を守る人間としての妻がとりあえず欲しいってことだったのかもしれないわね……!
……もちろん、愛情からの申し出ではないようだと突きつけられて、全く虚しさを感じなかったわけではないけれど。
そして「本物の妻」として遇されるわけではなさそうだという点にも何も思わなかったわけではないのだけれど、それでも彼のそばにいられるチャンスなんてそうそう得られるものではないと、すぐに心を切り替える。
「……実家ではきっと死んだものとして扱われているはずで、それはつまり、もう私は朱夏家の令嬢としての立場を失っているに違いないということよ。異能者でないばかりか朱夏家の令嬢でもないただの『櫻子』には、彼の隣に本物の妻として立つ資格などあるはずもないわ……。つまらない見栄を張ってとっさに別人になりすましてしまったけれど、結果的には悪くなかったのかもしれないわね」
今まで朱夏家の屋敷の中でしか生きたことがない私には、魔力も財産も人脈も何一つありはしないのだ。
それが、ただの平民・咲として彼の隣に居場所をいただけるんだから。
たとえ同情から一時的に与えられる座だとしても、今の私にとってこれ以上のことなんて望むべくもないじゃないか。
だからその申し出を二つ返事で受け入れて、私はしばらくこの屋敷の女主人の役割を、ありがたく務めさせてもらうことにしたのだった。
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