第十章 発電所の謎

神社の石段が遠ざかるにつれて、空気が少しずつ重くなる。発電所のほうから、

ブゥゥン……

という低いうなりが薄く届いてきた。耳栓をしていても、胸の奥のほうに響く。

「大丈夫。音は“投げる”」

美咲はラジオの冷たい重みをリュック越しに感じながら歩いた。提灯の明かりは、赤い月の下でもはっきり存在を主張している。赤い光は冷たくて、どこか怒っているみたいなのに、提灯の光はやわらかく、誰かが手を握ってくれているみたいだった。

都市に近づくと、道端の影が濃くなった。崩れた塀、ひび割れたアスファルト、倒れた看板。提灯の光がそれらを一枚ずつ絵のように照らし出す。怖い。でも見えるほうが、怖くない。見えないほうが、もっと怖い。

猫が角を曲がり、フェンスの切れ目で立ち止まった。そこから発電所へ入れる。美咲は深く息を吸い、吐いた。提灯の炎が少しだけ揺れて、また落ち着いた。

「ここからが作戦」

音を立てずに静かに、発電所の中に入る。

耳栓の上からタオルの結び目をもう一度きゅっと引き締める。リュックの口を少し開け、ラジオに指をかける。

まずは最初の囮。発電機のホールへ続く手前の通路に置く。スイッチを入れたら、すぐ陰へ。足音を消して次の位置へ。

「猫ちゃん、お願い。合図して」

猫は「にゃ」と短く答え、先へすべるように進んだ。提灯の光が猫の輪郭をきれいに縁取り、足の運びがよく見える。

美咲はフェンスの切れ目を身をかがめてくぐった。衣服が金属に触れてひやっとする。提灯を少し高く掲げ、風よけのように体で守りながら進む。

入口の自動ドアは壊れて開きっぱなしだ。中は黒く口を開けていて、提灯の光を飲み込もうとする。美咲は一歩、また一歩と足を運ぶ。床にはケーブル、工具、落ちたヘルメット。光がなければ見えない罠だ。

通路の角に身を寄せ、リュックから一台目のラジオを取り出す。膝を床につき、そっと置く。手が震える。スイッチに指を当て、いち、に、さん――小さくひねる。

ザー――――……。

耳栓の向こうでも、砂をこすったような音がはっきりわかる。美咲はすぐ身体を低くして、通路の影へ滑りこんだ。提灯の光を胸の前に寄せ、紙で炎を守る。足音を殺して、猫のあとを追う。

心臓はまだ速い。けれど走らない。走らない、静かに、止まらない。頭の中でルールをなぞりながら、二台目を置く位置を思い浮かべた。制御室とは反対側の奥。影がそっちに引きつけられれば、制御室の前は手薄になる。

二台目のラジオを置く場所にたどり着くまで、提灯の火は消えなかった。紙の壁に守られ、揺れながらも生きている。美咲はもう一度、スイッチに指を乗せる。

「投げるよ」

囁くみたいに言って、ひねる。

ザーッ。さっきと少し高さの違うノイズが重なり、空気がざわざわと動いたように感じた。胸の奥までざわつく。けれど、耳栓とハンカチのおかげで頭の芯が割れるような痛みにはならない。

よし

美咲は提灯を持ち直し、制御室へ続く階段のほうを見た。心臓がまた少し速くなる。猫が階段の手前で立ち止まり、こちらを振り返る。目は暗闇でもはっきりとこちらを捉えている。

「行こう」

息を整えた。提灯の炎が一度だけ大きくなり、すぐに落ち着く。紙の面に映る自分の影が、小さくうなずいた。


ホールに足を踏み入れた瞬間、美咲の胸はぎゅっと縮まった。空気そのものが重く、熱を含んだ金属の匂いが鼻を突き、汗がすぐに皮膚に張りつく。盆提灯の炎がゆらゆらと揺れ、その淡い光に照らされて、巨大な発電機の群れが影を落としていた。ブゥゥゥン……低くうなる重低音が、床から足を通って背骨にまで響く。耳栓をしているのに、骨ごと震えるような振動は避けられなかった。

「……ここが、元凶……」

唇の内側を噛んだ。ホールの奥にはガラス張りの制御室があり、その中で赤いランプが規則正しく点滅していた。まるで心臓の鼓動のように、一定のリズムで光っては消える。あの奥に「電源停止」のレバーがある。だが、その道は塞がれていた。

発電機の間に、黒い影が十数体。人の形をしているのに顔は砂嵐のノイズで覆われ、口元からは言葉とも音ともつかないざわめきが漏れている。その前に――和樹、明菜、拓斗の姿があった。虚ろな目をして、まるで夢遊病者のようにふらふらと歩き続けている。時折ノイズのざわめきに合わせて身体がびくんと揺れ、赤いランプの方へ吸い寄せられる。

「やめて……お願い、戻って……!」

美咲は声を上げたが、三人は振り返らなかった。呼びかけは届かない。光も音も奪われ、ただ操られている。

提灯の炎を胸に寄せ、美咲は深く息を吸った。怖くて足が震える。でも、もう逃げられない。ここで何もしなければ、三人はノイズに飲み込まれてしまう。

リュックからラジオを一台取り出す。スイッチをひねると――ザーッ! 砂をこするような音がホールに広がった。耳栓をしていても不快な音が骨に響く。ノイズの影たちが一斉に顔を向け、ざわざわとざわめきが強まる。その隙に、美咲は発電機の影に身を寄せ、制御室の方へと歩みを進めた。

床にはケーブルが這い、工具が散乱している。踏めば音が出る。提灯の光でひとつひとつ確認しながら、足を置く場所を慎重に選ぶ。汗が首筋をつたって落ち、服に染み込んだ。

中央近くまで進んだところで、三人の姿がちらりと視界に入った。和樹が、明菜の肩に手を置いたまま虚ろに歩いている。いつも元気で騒がしい和樹が、目を失った人形みたいに動いている。明菜は頬を濡らしながらも感情のない瞳で前を見ていた。拓斗は眼鏡をかけ直す癖すらなく、腕をだらりと下げたまま進んでいる。

「……お願い、帰ろうよ……」

声が震えた。涙で視界がにじみ、提灯の光も揺れる。だが、仲間たちは止まらない。

猫が前に出た。小さな影がホールの真ん中を横切り、影たちの前で立ち止まる。にゃぁ――短く鳴いた。ノイズの影たちが一瞬ざわめきを止め、猫を見た。美咲の鼓動が跳ね上がる。次の瞬間、猫はするりと発電機の陰へ駆け込んだ。影たちがざわざわと後を追うように動き出す。その隙に、美咲はさらに奥へ走った。

制御室が近い。だが背後から、三人の足音が迫る。カツ、カツ、と床を踏む硬い音。彼らの目は赤いランプに釘付けで、まるで美咲を障害物のように押しのける勢いで迫ってきた。

「いや……やめて!」

とっさに二台目のラジオを床に投げ出す。

ザーッ! 

今度は高めのノイズ音が響き、三人がふらりと足を止めた。影たちも同じ方向を向く。呼吸が荒くなる。もう時間はない。

制御室の扉にたどり着いた。窓越しに「電源停止」の文字が見える。赤いランプが最後の警告のように点滅を繰り返していた。美咲は取っ手に手をかける。だが、固く閉ざされていてびくともしない。中で光るレバーがすぐそこにあるのに、厚いガラスと鉄の扉が隔てている。焦りで汗が額を伝い、視界がにじんだ。指がすべって何度も取っ手を握り直す。

「どうすれば……」

喉がかすれる。涙がにじんで落ちそうになったとき、猫が前足で彼女の足をちょんと押した。まるで「まだ諦めるな」と言っているようだった。

美咲は顔を上げ、震える息を吐いた。ガラスの向こうのレバーは赤く輝きながら、まるで彼女に手を伸ばせと訴えているようだった。

背後では影たちがノイズを発し、仲間たちが再び動き始めていた。和樹の足音が近づく。拓斗の息がすぐ耳元に聞こえる気がする。


美咲は制御室の中に飛び込むと、すぐに重たい扉を押し閉めた。背中で押し込みながら鍵をかけると、ガチャンと大きな音が響いた。次の瞬間、べたん、と何かが外から張りついた。心臓が一気に早くなる。外にいるのは、和樹たちだ。さっきまで一緒にいたはずの三人が、無表情で扉に手を叩きつけている。

べたべた……べたん、べたん

冷たい金属に打ちつけられる音が、耳の奥にまで響く。扉全体が揺れ、錆びた蝶番が悲鳴をあげていた。まるで今にも壊れてしまいそうだ。鍵がガタガタと揺れ、美咲は思わず取っ手を押さえた。

「やめて……お願い、戻ってよ!」

声を張り上げても返事はない。ただ、目の前で影のような人影が揺れているだけだ。三人の瞳には光がなく、赤いノイズの光がちらちらと瞬いているように見える。呼びかけは届かない。光も音も奪われ、ただ操られている。

制御室の中は重苦しい機械音に満ちていた。発電機のブゥゥゥンという唸りが壁を震わせ、空気を押し出す。提灯の炎がその震えに合わせるように小さく揺れ、床や壁に長い影を作り出していた。その影はゆらゆらと伸び縮みし、まるで何本もの腕が美咲に迫ってくるように見える。美咲は提灯を胸に寄せ、震える息を整えた。

制御室の奥で赤いランプが規則正しく点滅していた。その横に「電源停止」と書かれたレバーが立っている。あと少しで届く。ほんの一歩踏み出せば、手を伸ばせば、触れられる距離にある。なのに、美咲の腕は震えて、なかなか前に出せない。ようやく指先が冷たい金属に触れた瞬間、息が止まりそうになった。胸の奥でドクンドクンと音が暴れ、足の裏まで響いてくる。

指先が汗で滑る。レバーはびくともしなかった。動かそうと力を入れても、腕が震えて、余計に力が抜けてしまう。

「早く……早く下げないと……!」

心の中で必死に叫んだ。額から流れる汗が目に入り、視界がぼやける。

外ではまだ、べた……べた……と不気味な音がしていた。三人の手のひらが、無表情のまま何度も扉をなで回している。その音が、次第に変わっていった。

べた……べた……

バン……バン……

ドン! ドン!

まるで苛立ちをぶつけるように、力いっぱい叩き始めたのだ。金属の扉が震え、鍵が外れそうなほど揺れた。美咲の鼓動もその音に合わせて速くなる。息を吸おうとしても、喉の奥がつまってしまう。

頭の中にノイズのざわめきが広がり、何かが囁いているように聞こえた。

「無理だ」

「あきらめろ」

「もう遅い」

低い声と高い声が重なって、頭の芯に直接響いてくる。美咲は思わず耳をふさぐ。

すると提灯の炎がゆらりと揺れ、壁一面にあたたかな光を広げた。その瞬間、ノイズのざわめきが少しだけ遠ざかる。赤い月の冷たい光と、提灯のやわらかな光。その二つが制御室の中でぶつかり合い、空気がきしむようだった。

「私は……負けない!」

美咲は唇をかみ、もう一度レバーに両手をかけた。体中が震えて、足が思うように踏ん張れない。ブゥゥゥンという発電機の音がさらに大きくなり、床がぐらぐらと揺れる。影が床を這い、ノイズの黒い手がにじみ出してきた。煙のような靄が指の形になり、美咲の手首に絡みつく。

「やめて……!」

声をあげても、影は離れない。冷たく重たい感覚が腕をしめつけ、力が抜けていく。頭の中では再びノイズがざわめいた。

「放せ」

「できない」

「失敗する」

言葉が次々と押し寄せてくる。美咲は歯を食いしばり、提灯をレバーのすぐ横に置いた。炎が一度強く揺れ、ぼっと光が広がった。黒い影が焼かれるように縮み、じりじりと後退する。美咲はその隙に腕に力を込めた。レバーがほんの少しだけ動いた。

ギギ……

と金属がきしむ音がした。

「動いた……!」

声が漏れた。だが、次の瞬間、扉がガン!と大きく揺れた。三人が一斉に体当たりをしてきたのだ。制御室全体が震え、鍵が悲鳴をあげる。ドーン!ドーン!と体を叩きつける音が重なり、扉がびりびりと震える。美咲の呼吸も荒くなり、胸が縮こまっていく。耳の奥では血の流れる音がごうごうと鳴り、頭がクラクラした。

美咲は深呼吸をした。吸って、吐いて。肺の奥に空気を満たしていく。震える手に力を込め直す。頭の中でノイズがまだささやいている。

「もう無理だ」

「あきらめろ」

だけど、美咲は耳を貸さなかった。提灯の光が頬を照らし、影が背中を押すように揺れる。「私は一人じゃない」

猫の鳴き声が遠くからかすかに聞こえた気がした。にゃぁ――その声に、心臓の鼓動が少しだけ整う。美咲は全身の力を込めて、再びレバーを引いた。

ギギギ……ガチャン!

重たい金属音が制御室に響き渡る。赤いランプがぱっと消え、機械の唸りが途切れた。ノイズの声も、黒い影も、一瞬にして霧のように散った。外を叩いていた三人の音もぴたりと止まった。制御室には、提灯の炎が静かに揺れる光だけが残った。

制御室の奥で「電源停止」のレバーが下がった瞬間、ブゥゥゥンと響いていた重たい発電機の音が止んだ。ゴオゴオと流れていた空気の震えも消え、世界から音が一気に抜け落ちたような静けさが広がった。

美咲は両手でレバーにすがりついたまま、膝がくりと折れそうになるのを必死にこらえた。荒くなった呼吸が耳に響き、胸が上下するたびに喉が焼けるように熱い。外からはもう、扉を叩く音が聞こえない。あのドン!ドン!という地響きみたいな音は、嘘のように消えていた。代わりに、かすかな呻き声が混ざってきた。

「……う……あぁ……」

和樹の声だった。

次いで、明菜のか細い息が漏れる。

「……なに……ここ……」

そして、拓斗が苦しそうに咳をした。

三人の影がゆっくりと扉の前からずり落ちていくのが、割れたガラス越しに見えた。赤いノイズに染まっていた人影が溶けるようにほどけ消えていく。美咲は目を見開いたまま、その光景を見届けた。指先から力が抜け、レバーから手を離すと、両手のひらに金属の冷たさがじんと残っていた。提灯を持ち上げると、外の廊下に小さな光がこぼれる。三人が床に倒れこみ、呻きながら身を起こそうとしていた。美咲は急いで鍵を外し、扉を開け放った。冷たい空気がどっと流れ込んできて、頬を撫でる。

「和樹!」

美咲は駆け寄ってその肩を抱えた。和樹の顔は汗でびっしょりで、呼吸も荒い。でもその目には、さっきまでの赤い光はもうなかった。焦点が戻り、ゆっくりと美咲の顔を捉えた。

「……美咲……? 俺……何してたんだ……」

和樹がかすれた声で言う。

「操られてたんだよ。でも、もう大丈夫」

美咲は必死に言葉を返した。隣で明菜がよろめきながらも壁を支えにして、かろうじて立ち上がった。

「頭の中で、誰かの声がずっとしてた……消えなくて……怖かった……」

目尻に涙がにじみ、明菜の声が震える。美咲はすぐに手を伸ばし、ぎゅっと抱きしめた。

「大丈夫だよ。もう、声はしないでしょ」

明菜は何度も頷きながら涙を拭った。拓斗は壁にもたれて深呼吸していた。眼鏡を外し、震える手で額の汗を拭う。

「体が……勝手に動いて……止められなかった……」

その言葉に、美咲の胸がぎゅっと痛んだ。三人とも必死に戦おうとしていたのに、どうにもならなかったのだ。

「もう、終わったから」

美咲は提灯を三人の前に掲げた。橙色の光が、彼らの顔をやさしく照らす。赤い月の光とは違う、あたたかい色だった。三人の呼吸が次第に整い、震えも少しずつおさまっていった。

「……これのおかげ?」

和樹が提灯を見て言った。

「うん。神社にあったんだ。きっと、これが“清き光”なんだと思う」

美咲の声はかすれていたが、落ち着きを取り戻していた。

猫が制御室の入り口に姿を現した。静かに歩いてきて、美咲の足元にすり寄ると

「にゃぁ」

と鳴いた。

提灯の炎がその毛並みを照らし、影がやさしく床に揺れる。

「お前も……ありがとうな」

和樹が笑うと、猫はまた短く鳴いて答えた。ふと見ると、制御室の壁に映る三人の影が、提灯の光に照らされてはっきりと浮かんでいた。もうノイズに揺らぐこともなく、普通の人の影。美咲はその影を見つめながら胸の奥で強く思った。

「やっと……戻ってきたんだ」

拳を握りしめ、深く息をついた。制御室に響くのは四人の呼吸だけ。あの耳を裂くノイズも、赤い光も、もうどこにもなかった。

和樹が口を開いた。

「美咲、一人でやったのか?」

美咲は答えずに、ただ小さく頷いた。瞳には涙がにじみ、今にもこぼれそうだった。

明菜がすすり泣きながら言った。

「ありがとう……私、ずっと怖かった。でもね、今は平気」

美咲は微笑んだ。涙がこぼれそうになったけれど、必死にこらえた。今泣いたらきっと崩れてしまうから。拓斗が眼鏡をかけ直し、声を落ち着かせて言った。

「ここを出よう。発電所に長居は危険だ」

その言葉に全員が頷いた。橙色の明かりに照らされながら、四人と一匹は制御室を後にした。

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